1月6日に緊急入院した母は、2月7日に亡くなった。100歳であった。長寿だから大往生ではないかということばが、ある種の慰めとして私にかけられたが、私にとって母は、私と同じ世界に存在し続けていて欲しい存在であった。だからそういうことばは、まったく慰めにならなかった。
母は、姉の住む関東近県にいたことから、葬儀が20日となった。死者が多すぎて、火葬ができなかったのだ。葬儀が終わり、母の遺骨をこちらにもってきたが、私にとってはつらいことで、今も心は沈鬱である。だからなにごとかを書こうという気が全く起きなかった。
いまこのブログを書く気になったのは、この文を読んだからだ。その中の、
歴史学そのものが、人間の足跡と尊厳を簡単に消すことができる暴力装置であることへの自覚の希薄さがある
このことばに、私は強い衝撃を受けた。歴史学の末端に連なっていた(過去形とする、おそらくもう研究の現場には行かないから)私は、歴史学が「暴力装置である」という指摘に唸った。
歴史叙述は、史料をもとにした事実に基づき厳密に行われなければならない、しかしその時に、知っていなければならないことを知らないままに叙述してしまえば、それは「暴力装置」となる。
たとえば、戦後補償に関して、ドイツはきちんと謝罪と補償をおこなった「優等生」であるかのように書かれる。その言説は、最近もある新聞でもみかけた。だが、私はドイツの戦後補償は、純粋に反省的なものではなく、政治的な色彩が濃いものとみていた。ドイツという国民国家を、敗戦から再び立ち上げていくためには、周辺諸国や民族に、「一定の」(一定の、という限定をつけなければならない。ナチスドイツが行ったすべての蛮行にたいしてドイツは頭を下げたわけではない)謝罪と補償が必要であったのだ。
そしてその言説は、今や「暴力装置」と化している。
私はドイツの学者・ハーバーマスが、イスラエル国家によるパレスチナ人へのジェノサイドを批判せず、それを支持するかのような発言をしたことを知って驚いた。ハーバーマスの著作は何冊か読んでいたからだ。
ハーバーマスらの言動のその背景を、私はこの藤原辰彦氏の文で知った。藤原氏は、戦後ドイツが、ユダヤ人国家であるイスラエルに謝罪し賠償を行い、あたかも戦争犯罪を大いに反省しているかのようにみせながら・・・ここで藤原氏の文を掲載する。
1952年には、イスラエルと西ドイツの間で「ルクセンブルク補償協定」が調印され、西ドイツはイスラエルに人道的な補償として30億マルクを物資として支払うことになる。
それは、西側社会への復帰を急ぐ西ドイツが「人道的な国家」へ生まれ変わったことを世界に示すとともに、イスラエルにドイツの工業製品を届けることによって戦争で荒廃したドイツ経済復興も可能にした。その物資の中には、「デュアルユース(軍民両用)」という形で利用される軍事物資が入っていた。
それだけでなく、西ドイツ首相アデナウアーは、1957年から、国交不在のなかでイスラエルの軍事支援を極秘で進めた。機関銃から高射砲、対戦車砲、戦車、潜水艦を含んでいたともいわれる。これはドイツ憲法に違反するが、明るみに出るまで長く続けられた。
「イスラエルは西ドイツとの接近と和解によって中東紛争を生き延びることができた」といわれる。つまり、西ドイツから送られた軍事物資によってイスラエルはパレスチナの人々の家を奪って占領し、人々の命を奪った。イスラエルの軍事化に貢献することは、西ドイツ側にとっても軍需産業を再興させ、経済を復興させるという目的にかなうものだった。日本の「朝鮮特需」とも重なるものがある。
シオニズムによるパレスチナ人迫害の背後に、ドイツがいたのだという事実、それを知らずに、ドイツを戦後補償の分野で「善人」として扱うことは、すなわち加害の側に立つことになるのだ。
私はこの藤原氏の文に、多くのことを教えられた。まさに無知を知らされた。学ぶべきことがたくさんあることを教えられた。
この文を公表してくれた『長周新聞』にも感謝したい。
なお『世界』3月号に掲載されている高橋哲哉氏の「ショアーからナクバへ、世界への責任」は必読である。「人間の尊厳」を基軸にした論考は、普遍性をもった批判となっている。
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母は、私が高校時代から様々な社会的な活動に参加しても批判めいたことは一度も言わなかった。たとえば、かつての大阪万博の時、大阪城公園で開かれた反戦万国博に参加したいというと、交通費をだしてくれた。ホテルに泊まる金はなかったので、テントの椅子の上で寝た記憶がある。母には感謝しかない。いずれ私も「そちら」にいく、そのとき感謝のことばを直接贈るつもりである。