若い女性がなぜ韓国から脱出?映画『ケナは韓国が嫌いで』は、競争社会と「未来を約束する」恋愛の息苦しさを問う
上記の文を読んだ。日本も生きにくい、息苦しい社会へと進んでいる。新自由主義が、旧来の落ち着いた伝統的な生活を揺り動かし、破壊しているという背景がある。その進行は、無慈悲である。人びとは、その中に引きずり込まれ、もがいている。
伝統的な社会において、女性は息苦しさを覚え、そこから脱出しようとしてきた。日本でも、平塚らいてふら青鞜社から始まって、先進的な女性たちが「因習打破」を求めて生きてきた。その伝統的な社会が崩壊した後、生きやすい社会が到来したかと言えば、そうではなく、新自由主義の蔓延のなか、より厳しい弱肉強食の格差社会が生まれた。そこでは、女性だけではなく、男性も生きにくくなっている。
韓国社会は、儒教の影響が強い国だ。長幼の序など封建的と言われる道徳が今も力を持っている。そういう社会では、女性たちの息苦しさは、おそらく日本以上だろう。韓国で、日本以上にフェミニズムが論じられ、それが女性たちの間に広まったのも頷ける。日本のフェミニズムは、韓国のそれと交流しながら論じられることもある。
しかし、フェミニズムが主張されればされるほど、女性に対する攻撃が増えている。
『現代思想』3月号の特集は、「統治🆚アナーキー」である。巻頭に、「歴史・抵抗・教育」という坂本尚志、野崎亜紀子の対談がある。野崎は、法哲学者である。彼女は、「既存の近代的法システム」は「理性的な自律的人間像」を想定しているとし、「社会構造の中で苦境に立っている」者が、「自律的個人として権利にもとづいた主張を行い、状況の是正を図る」とき、「権利を行使しようとすればするほどに、却ってその差異性が強く表出され、当該差異ある者たちへの差別感が社会に助長され、結果、状況の是正とは逆効果を生みだしてしまう。」と指摘する。これは「差異のジレンマ」と呼ばれるという。
様々な苦境にあるマイノリティらが、みずからの苦境をバネに、社会に対して「権利を行使する」なかで、バックラッシュが生まれる。女性らが「権利を行使する」と、優越的地位にある男性が、そうした女性に対してミソジニーを強く表すようになる。ミソジニーは、日本にも出現しているが、韓国はよりひどいようだ。
韓国の女性たちが、フェミニズムを主張し、「権利を行使する」なかで、女性の社会的状況は一定改善されたのだが、そのバックラッシュも激しい。
韓国で行われるデモなどの大衆行動に、多くの若い女性が参加しているが、その背景には、一定改善された女性の社会的位置が以前のような状態に戻されたくないという意識があるのではないか。あるいは、韓国社会から離れて、よりマシな国や地域へと出て行くという、この記事のようなことも起こる。
同じことは日本でもあり、女性たちは、イナカの因習的な地域から、東京などの都会へと出て行く、その結果、イナカには多くの男性が残り、「結婚難民」が増えていく。もちろん、日本政府が継続的に行ってきた、一極集中政策もあるのだが。
こうした状況をどうするか、男性も含めた社会全体で考えていかなければならないのであり、男性優位の社会システムを改変していかなければならないのである。男性には、ミソジニーをしている暇はない。