都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「ゴーギャン展」 東京国立近代美術館(Vol.1プレビュー)
東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園3-1)
「ゴーギャン展」
7/3-9/23
日本初公開となる畢竟の傑作、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を中核に、ゴーギャンの画業を時系列に回顧します。東京国立近代美術館で開催中のゴーギャン展へ行ってきました。
さて今回は会期前日のプレスプレビューに参加してきましたので、以下、展示の構成、また簡単な見所などを、会場、及び作品の写真を加えてお伝えします。ご参考いただければ幸いです。
会場入口。近代美術館の企画展入場口はその都度、通路奥、もしくは常設展横と変わりますが、今回は前者、一番奥の入口より館内へと入る仕掛けでした。
本編に入る前に展覧会の構成についてご紹介します。版画20点強、彫刻1点を含む全53点(日本初公開8点)の作品を、以下の通りに時間軸でのシンプルな三章立で展示していました。
第1章 野性の開放
印象主義の影響を受けたゴーギャン。ブルターニュで早くも目覚めた自らの内なる『野性』について。「洗濯する女たち、アルル」(1888年。ニューヨーク近代美術館。)他油彩12点、水彩1点。
第2章 タヒチへ
1891年、タヒチへと旅立ったゴーギャン。「タヒチの風景」(1892年。メトロポリタン美術館。)他、「ノアノア連作版画」(1893-1894年。ボストン美術館/岐阜県美術館。)など。版画約20点、油彩5点他。
第3章 漂泊のさだめ
二度目のタヒチ。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(1897-98年。ボストン美術館。)。それ以降、最晩年の作品など。油彩7点。
なお上記の通り、全体の点数が50点強と、近美クラスの大型展としては決して多いとは言えません。もちろんその分、「我々はどこから来たのか」をはじめとした、国内外の美術館より集められた一点一点の『質』には全く不足はありませんが、少なくとも物理的な『量』に関しての過剰な期待は禁物ではないでしょうか。ちなみに本展は先行した名古屋展と28点の作品が重複しますが、ボストン以外の海外美術館所蔵の作品は全て今回の会場、東京国立近代美術館のみで公開されています。(つまり23点は新出品。)その海外館の作品が非常に充実していますが、全体としてもほぼ別の展覧会と捉えて相違ありません。
それでは展示を順に追いかけます。
「第1章 野性の開放」から「アリスカンの並木道」(損保ジャパン東郷青児美術館)です。いつも「ひまわり」の隣にあるので、見慣れた方も多いのではないでしょうか。冒頭のセクションでは印象派時代からブルターニュ以降、タヒチ滞在以前までに描かれた作品を概観します。ちなみに本作品も然り、写真は掲載出来ませんが西美の「海辺に立つブリュターニュの少女たち」など、所蔵館で見るよりも断然に映えていたような気がしたのは私だけでしょうか。こうなると一気に引き込まれるものです。
右より「ブルターニュの少年と鵞鳥」(エイアイジー・スター生命保険株式会社)、「家畜番の少女」(静岡県立美術館)、「純潔の喪失」(クライスラー美術館)。これより少し以前、「洗濯するする女たち、アルル」(ニューヨーク近代美術館)辺りから展覧会はヒートアップしてきます。タヒチ以前の画風は印象派影響下の作品とブルターニュ以降のそれに大別出来るかもしれません。彼の「野性」的内面は決してタヒチからではなく、ブルターニュでの段階でも発見されていたというのも、一つの重要なポイントです。
上の三点はもとより、本展示の中でも特に一推しの一枚が、この「純潔の喪失」(クライスラー美術館)です。モデルは若い針子でゴーギャンの愛人であったジュリエット・ユエとされますが、水色の空、青い海、そして紅色を帯びた大地に横たわる白い少女の裸体の対比的な構図、また色遣いには強く目を見張るものがありました。まさに色の魔術師と呼ぶべきゴーギャンならではの作品ではないでしょうか。
「第2章 タヒチへ」。冒頭の紗幕にも登場したゴーギャン自身の姿、「パレットをもつ自画像」(個人)が観客をの視線タヒチへと誘います。あたかもその後の苦難にも満ちた生活を予感させるような虚ろな表情が印象に残りました。
少し離れているので分かりにくいかもしれませんが、彫像「オヴィリ」と右の絵画、「エ・ハレ・オエ・イ・ヒア(どこへ行くの?)」はともに犬のような動物を手に抱えて立つという類似性を持った作品です。この犬はゴーギャン自身の投影という指摘もなされていますが、同一的なモチーフを繰り返し用い、時に変容させて次の制作へと向かう行程は、ゴーギャンの画業を通しても頻繁に登場します。何気なく登場する動物、そして女性のポーズにも注意して見て下さい。
「かぐわしき大地」(大原美術館)。2006年に同館で開催された「モダンパラダイス」展以来、再び近代美術館に登場したゴーギャンの名作です。太陽の色にも輝く女性がまさに理想の楽園風景の中で立ちはだかります。
「タヒチの風景」(メトロポリタン美術館)。タヒチの何気ない光景を描いた小品ではありますが、ここでは画中に登場する馬に要注目です。この馬は後に騎馬像へと変化して晩年に至るまで繰り返し登場してきます。前述の通り、同型モチーフの反復の一例と言えるのかもしれません。
第二章のハイライトはゴーギャンがタヒチより帰国後、自身のタヒチ滞在記、つまり「ノアノア」に掲載された連作版画群です。やや照明の落とされた展示室にて約20点超の作品が紹介されています。ここでも油彩画に登場するモチーフとの類似点、また派生する点などにも注視したいところです。
「第3章 漂泊のさだめ」。版画展示室の次にはさらに暗がりの空間が待ち構えます。いよいよ「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(ボストン美術館)の展示へと続きますが、その前にワンクッション、作品の解説が二面の映像で紹介されてました。
もちろん解説と言っても、決して作品の意味内容についての解釈を押し付けるものではありません。謎めいた我々のイメージはあくまでも観客の手に委ねるというのが、今回の展覧会のポジションです。全4分ほどの長さも程よく感じられました。
さてようやくお待ちかね、解説映像の先で姿を見せるのが、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」です。一見してもお分かりいただけるかと思いますが、展示室での一点展示とのことで、スペースには相当のゆとりがあります。ちょうどかつて新美で行われた「牛乳を注ぐ女」(フェルメール)の展示方法に似ていると言えるかもしれません。(ただし作品と観客の距離は断然に今回の方が近くなっています。)ガラスケースはありませんでした。
正面に寄ってみます。人の大きさと比べて見て下さい。サイズに関しては見る人それぞれの印象で異なるかもしれませんが、これまでにゴーギャンが追った多様なモチーフが絡み合ってのドラマテックなストーリーに圧倒されること必至ではないでしょうか。感想はまた別エントリに書きますが、中央の果物をとる人物にはじまり、右の赤ん坊から左の老婆へと流れる時間軸、そして左上段の偶像を介して手前から奥、また右奥へと円を描くように流れる空間構成と、輻輳する景色と物語が何層にも積み重なってのスペクタクル絵巻には強く引き込まれました。叶うことなら、何度も前を行き来しながら、作品の『問い』を感じていたいものです。
壁面を入れれば掲載可ということでもう一枚、大きな写真をアップしてみます。なおやや強めのライティングの問題なのか、少し離れてみると絵が際立って浮き上がりますが、反面、最前列に陣取ると光が反射して細部が見えにくくなります。空いていれば停止線から1~2メートルがベストポジションですが、混雑するとおそらくはその位置に立つのが困難になるのではないでしょうか。これは改善が待たれます。
一点豪華主義であるなら「我々」で終わりになるのかもしれませんが、この展覧会の素晴らしい点はこれ以降にも見るべき作品が次々と登場することです。最後の展示室はまさにハイライトと言えるのではないでしょうか。上の会場写真の右から「ファア・イヘイヘ(タヒチ牧歌)」(テート・ギャラリー)、「テ・パペ・ナヴェ・ナヴェ(おいしい水)」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)、「路上の馬」(プーシキン美術館)、「浅瀬」(プーシキン美術館)、「赤いマントをまとったマルキーズ島の男」(リエージュ近代・現代美術館)と、思わず息をのむような名作が次々と姿を表します。
「ファア・イヘイヘ(タヒチ牧歌)」(テート・ギャラリー)。構図に「我々」との関連も見出せる作品です。「我々」で見たドラマ性はやや薄まり、群像画的でかつクリムトらを予感させるような装飾性を思わせる部分もありました。基調となる黄金色と「我々」における青色との対比も興味深いポイントです。
展示の最後を飾るのは、ゴーギャンの没年に描かれた「女性と白馬」(ボストン美術館)でした。色彩や繊細になりながらも揺らぎ、例えば「かぐわしき大地」に見るような、あれほど肉感的だった女性はもはや風景に埋没しています。そして馬のモチーフです。絵画においてゴーギャンは白馬に揺られながら、山上に見える十字架の墓へと葬送されていきました。
入口に垂れ下がっていた自画像の紗幕の裏面(「我々」)を眺めて順路は終了します。なおこの後、大方の企画展は細長い通路を経由し、もう一つの部屋へと展示が続きますが、今回は通路からそのまま物販スペースへと繋がる構成になっています。確かゴッホ展の時も最後の展示室はショップでした。ちなみに物販はかなり楽しめます。作品に夢中で写真を撮るのを忘れてしまいましたが、ポストカードやファイルなどの定番をはじめ、タヒチグッズなど、原色に鮮やかな商品が所狭しと並んでいました。
(図録表紙)
今回の展覧会図録(2200円)は図版よりもテキスト重視です。ちょうどゴーギャンを対照的な視点で俯瞰する二冊の書籍、芸術新潮の「ゴーギャンという人生」(人となりでゴーギャンの神話を暴く。)と「もっと知りたいゴーギャン」(作品から画業の変遷を辿る。)も非常に良く出来ていますが、もっと学術的な面から掘り下げるのであれば図録がベストかもしれません。また展示中、キャプションの密度は大変に薄くなっていますが、それは図録で十二分に補完しています。(もちろん有りがちなゴーギャンの神話、またはエピソードを力説する場面はありません。)私は会場でキャプションと睨めっこをするのは苦手なので、作品とじっくり向き合える今回の形式は大変有り難く思えました。
「芸術新潮7月号」 「もっと知りたいゴーギャン 」
ここで展覧会の基本情報について整理します。
「ゴーギャン展」
会場:東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園3-1)
交通:東京メトロ東西線竹橋駅1b出口。東京駅日本橋口より無料シャトルバスあり。(時刻表)
会期:7月3日(金)~9月23日(水・祝)
時間:午前10時~午後5時(金曜日・土曜日は午後8時まで開館)*入館は閉館の30分前まで
休館:月曜日(ただし7/20(月・祝)、8/17(月)、8/24(月)、9/21(月・祝)は開館、7/21(火)は休館。)
料金:一般1500円、大学生1000円、高校生600円。(オンラインチケット。カード決済のみ有効。)
交通欄にも記載しましたが、企画展会期中は、東京駅日本橋口より無料の直通バスが運行されます。土日に関しては10~15分間隔での運行です。竹橋駅からの徒歩も至近ですが、JR線方面からの方はバスを使われても良いのではないでしょうか。
プレビュー時に、同美術館学芸員、鈴木勝雄氏による展示についてのレクチャーがありました。そちらの模様は次回以降のエントリでまとめるつもりです。(追記:以下のリンク先にまとめました。)
「ゴーギャン展」 東京国立近代美術館(Vol.2レクチャー)
9月23日までの開催です。なお今後の混雑も予想されますので、なるべく早めのご観覧をおすすめします。(リアルタイムの混雑状況が公式HPに掲載中です。)
注)写真の撮影、掲載については全て主催者の許可をいただいています。
「ゴーギャン展」
7/3-9/23
日本初公開となる畢竟の傑作、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を中核に、ゴーギャンの画業を時系列に回顧します。東京国立近代美術館で開催中のゴーギャン展へ行ってきました。
さて今回は会期前日のプレスプレビューに参加してきましたので、以下、展示の構成、また簡単な見所などを、会場、及び作品の写真を加えてお伝えします。ご参考いただければ幸いです。
会場入口。近代美術館の企画展入場口はその都度、通路奥、もしくは常設展横と変わりますが、今回は前者、一番奥の入口より館内へと入る仕掛けでした。
本編に入る前に展覧会の構成についてご紹介します。版画20点強、彫刻1点を含む全53点(日本初公開8点)の作品を、以下の通りに時間軸でのシンプルな三章立で展示していました。
第1章 野性の開放
印象主義の影響を受けたゴーギャン。ブルターニュで早くも目覚めた自らの内なる『野性』について。「洗濯する女たち、アルル」(1888年。ニューヨーク近代美術館。)他油彩12点、水彩1点。
第2章 タヒチへ
1891年、タヒチへと旅立ったゴーギャン。「タヒチの風景」(1892年。メトロポリタン美術館。)他、「ノアノア連作版画」(1893-1894年。ボストン美術館/岐阜県美術館。)など。版画約20点、油彩5点他。
第3章 漂泊のさだめ
二度目のタヒチ。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(1897-98年。ボストン美術館。)。それ以降、最晩年の作品など。油彩7点。
なお上記の通り、全体の点数が50点強と、近美クラスの大型展としては決して多いとは言えません。もちろんその分、「我々はどこから来たのか」をはじめとした、国内外の美術館より集められた一点一点の『質』には全く不足はありませんが、少なくとも物理的な『量』に関しての過剰な期待は禁物ではないでしょうか。ちなみに本展は先行した名古屋展と28点の作品が重複しますが、ボストン以外の海外美術館所蔵の作品は全て今回の会場、東京国立近代美術館のみで公開されています。(つまり23点は新出品。)その海外館の作品が非常に充実していますが、全体としてもほぼ別の展覧会と捉えて相違ありません。
それでは展示を順に追いかけます。
「第1章 野性の開放」から「アリスカンの並木道」(損保ジャパン東郷青児美術館)です。いつも「ひまわり」の隣にあるので、見慣れた方も多いのではないでしょうか。冒頭のセクションでは印象派時代からブルターニュ以降、タヒチ滞在以前までに描かれた作品を概観します。ちなみに本作品も然り、写真は掲載出来ませんが西美の「海辺に立つブリュターニュの少女たち」など、所蔵館で見るよりも断然に映えていたような気がしたのは私だけでしょうか。こうなると一気に引き込まれるものです。
右より「ブルターニュの少年と鵞鳥」(エイアイジー・スター生命保険株式会社)、「家畜番の少女」(静岡県立美術館)、「純潔の喪失」(クライスラー美術館)。これより少し以前、「洗濯するする女たち、アルル」(ニューヨーク近代美術館)辺りから展覧会はヒートアップしてきます。タヒチ以前の画風は印象派影響下の作品とブルターニュ以降のそれに大別出来るかもしれません。彼の「野性」的内面は決してタヒチからではなく、ブルターニュでの段階でも発見されていたというのも、一つの重要なポイントです。
上の三点はもとより、本展示の中でも特に一推しの一枚が、この「純潔の喪失」(クライスラー美術館)です。モデルは若い針子でゴーギャンの愛人であったジュリエット・ユエとされますが、水色の空、青い海、そして紅色を帯びた大地に横たわる白い少女の裸体の対比的な構図、また色遣いには強く目を見張るものがありました。まさに色の魔術師と呼ぶべきゴーギャンならではの作品ではないでしょうか。
「第2章 タヒチへ」。冒頭の紗幕にも登場したゴーギャン自身の姿、「パレットをもつ自画像」(個人)が観客をの視線タヒチへと誘います。あたかもその後の苦難にも満ちた生活を予感させるような虚ろな表情が印象に残りました。
少し離れているので分かりにくいかもしれませんが、彫像「オヴィリ」と右の絵画、「エ・ハレ・オエ・イ・ヒア(どこへ行くの?)」はともに犬のような動物を手に抱えて立つという類似性を持った作品です。この犬はゴーギャン自身の投影という指摘もなされていますが、同一的なモチーフを繰り返し用い、時に変容させて次の制作へと向かう行程は、ゴーギャンの画業を通しても頻繁に登場します。何気なく登場する動物、そして女性のポーズにも注意して見て下さい。
「かぐわしき大地」(大原美術館)。2006年に同館で開催された「モダンパラダイス」展以来、再び近代美術館に登場したゴーギャンの名作です。太陽の色にも輝く女性がまさに理想の楽園風景の中で立ちはだかります。
「タヒチの風景」(メトロポリタン美術館)。タヒチの何気ない光景を描いた小品ではありますが、ここでは画中に登場する馬に要注目です。この馬は後に騎馬像へと変化して晩年に至るまで繰り返し登場してきます。前述の通り、同型モチーフの反復の一例と言えるのかもしれません。
第二章のハイライトはゴーギャンがタヒチより帰国後、自身のタヒチ滞在記、つまり「ノアノア」に掲載された連作版画群です。やや照明の落とされた展示室にて約20点超の作品が紹介されています。ここでも油彩画に登場するモチーフとの類似点、また派生する点などにも注視したいところです。
「第3章 漂泊のさだめ」。版画展示室の次にはさらに暗がりの空間が待ち構えます。いよいよ「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(ボストン美術館)の展示へと続きますが、その前にワンクッション、作品の解説が二面の映像で紹介されてました。
もちろん解説と言っても、決して作品の意味内容についての解釈を押し付けるものではありません。謎めいた我々のイメージはあくまでも観客の手に委ねるというのが、今回の展覧会のポジションです。全4分ほどの長さも程よく感じられました。
さてようやくお待ちかね、解説映像の先で姿を見せるのが、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」です。一見してもお分かりいただけるかと思いますが、展示室での一点展示とのことで、スペースには相当のゆとりがあります。ちょうどかつて新美で行われた「牛乳を注ぐ女」(フェルメール)の展示方法に似ていると言えるかもしれません。(ただし作品と観客の距離は断然に今回の方が近くなっています。)ガラスケースはありませんでした。
正面に寄ってみます。人の大きさと比べて見て下さい。サイズに関しては見る人それぞれの印象で異なるかもしれませんが、これまでにゴーギャンが追った多様なモチーフが絡み合ってのドラマテックなストーリーに圧倒されること必至ではないでしょうか。感想はまた別エントリに書きますが、中央の果物をとる人物にはじまり、右の赤ん坊から左の老婆へと流れる時間軸、そして左上段の偶像を介して手前から奥、また右奥へと円を描くように流れる空間構成と、輻輳する景色と物語が何層にも積み重なってのスペクタクル絵巻には強く引き込まれました。叶うことなら、何度も前を行き来しながら、作品の『問い』を感じていたいものです。
壁面を入れれば掲載可ということでもう一枚、大きな写真をアップしてみます。なおやや強めのライティングの問題なのか、少し離れてみると絵が際立って浮き上がりますが、反面、最前列に陣取ると光が反射して細部が見えにくくなります。空いていれば停止線から1~2メートルがベストポジションですが、混雑するとおそらくはその位置に立つのが困難になるのではないでしょうか。これは改善が待たれます。
一点豪華主義であるなら「我々」で終わりになるのかもしれませんが、この展覧会の素晴らしい点はこれ以降にも見るべき作品が次々と登場することです。最後の展示室はまさにハイライトと言えるのではないでしょうか。上の会場写真の右から「ファア・イヘイヘ(タヒチ牧歌)」(テート・ギャラリー)、「テ・パペ・ナヴェ・ナヴェ(おいしい水)」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)、「路上の馬」(プーシキン美術館)、「浅瀬」(プーシキン美術館)、「赤いマントをまとったマルキーズ島の男」(リエージュ近代・現代美術館)と、思わず息をのむような名作が次々と姿を表します。
「ファア・イヘイヘ(タヒチ牧歌)」(テート・ギャラリー)。構図に「我々」との関連も見出せる作品です。「我々」で見たドラマ性はやや薄まり、群像画的でかつクリムトらを予感させるような装飾性を思わせる部分もありました。基調となる黄金色と「我々」における青色との対比も興味深いポイントです。
展示の最後を飾るのは、ゴーギャンの没年に描かれた「女性と白馬」(ボストン美術館)でした。色彩や繊細になりながらも揺らぎ、例えば「かぐわしき大地」に見るような、あれほど肉感的だった女性はもはや風景に埋没しています。そして馬のモチーフです。絵画においてゴーギャンは白馬に揺られながら、山上に見える十字架の墓へと葬送されていきました。
入口に垂れ下がっていた自画像の紗幕の裏面(「我々」)を眺めて順路は終了します。なおこの後、大方の企画展は細長い通路を経由し、もう一つの部屋へと展示が続きますが、今回は通路からそのまま物販スペースへと繋がる構成になっています。確かゴッホ展の時も最後の展示室はショップでした。ちなみに物販はかなり楽しめます。作品に夢中で写真を撮るのを忘れてしまいましたが、ポストカードやファイルなどの定番をはじめ、タヒチグッズなど、原色に鮮やかな商品が所狭しと並んでいました。
(図録表紙)
今回の展覧会図録(2200円)は図版よりもテキスト重視です。ちょうどゴーギャンを対照的な視点で俯瞰する二冊の書籍、芸術新潮の「ゴーギャンという人生」(人となりでゴーギャンの神話を暴く。)と「もっと知りたいゴーギャン」(作品から画業の変遷を辿る。)も非常に良く出来ていますが、もっと学術的な面から掘り下げるのであれば図録がベストかもしれません。また展示中、キャプションの密度は大変に薄くなっていますが、それは図録で十二分に補完しています。(もちろん有りがちなゴーギャンの神話、またはエピソードを力説する場面はありません。)私は会場でキャプションと睨めっこをするのは苦手なので、作品とじっくり向き合える今回の形式は大変有り難く思えました。
「芸術新潮7月号」 「もっと知りたいゴーギャン 」
ここで展覧会の基本情報について整理します。
「ゴーギャン展」
会場:東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園3-1)
交通:東京メトロ東西線竹橋駅1b出口。東京駅日本橋口より無料シャトルバスあり。(時刻表)
会期:7月3日(金)~9月23日(水・祝)
時間:午前10時~午後5時(金曜日・土曜日は午後8時まで開館)*入館は閉館の30分前まで
休館:月曜日(ただし7/20(月・祝)、8/17(月)、8/24(月)、9/21(月・祝)は開館、7/21(火)は休館。)
料金:一般1500円、大学生1000円、高校生600円。(オンラインチケット。カード決済のみ有効。)
交通欄にも記載しましたが、企画展会期中は、東京駅日本橋口より無料の直通バスが運行されます。土日に関しては10~15分間隔での運行です。竹橋駅からの徒歩も至近ですが、JR線方面からの方はバスを使われても良いのではないでしょうか。
プレビュー時に、同美術館学芸員、鈴木勝雄氏による展示についてのレクチャーがありました。そちらの模様は次回以降のエントリでまとめるつもりです。(追記:以下のリンク先にまとめました。)
「ゴーギャン展」 東京国立近代美術館(Vol.2レクチャー)
9月23日までの開催です。なお今後の混雑も予想されますので、なるべく早めのご観覧をおすすめします。(リアルタイムの混雑状況が公式HPに掲載中です。)
注)写真の撮影、掲載については全て主催者の許可をいただいています。
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