2012.9.4(火)曇
淡路市の五斗垣内遺跡(ごっさかいといせき)については以前に紹介したこともあるのだが、弥生時代の国内最大といえる鍛冶遺跡である。引地水車(ひきじりすいしゃ)のある淡路市長沢地区とともに是非行ってみたいところである。垣内遺跡は大規模ではあるが、製鉄の遺跡では無くあくまで鍛冶工房遺跡であるということだ。従ってその時代にはまだ国内では製鉄は行われていないというのが定説となっている。わたしが見たいのは本当は製鉄遺跡であって、大江山の北原遺跡など行ってみたいものだと考えている。そんな矢先に小滝先生のHPで弥栄町(現京丹後市)に遠所遺跡という大規模な製鉄、鍛冶遺跡があることを知った。考古ファンなど誰でも知っている遺跡なんだが、わたしの持っている古本の資料には新しく発見された遺跡など載っていないのだ。小滝先生に行ってみたいのですがと言ったら、「行っても、ああここがそうかというだけですよ」ということだった。確かにこういった遺跡は展示用に保存しない限り、ここに何があったとかいう看板だけで、なにも中身は解らないという結果になる。報告書や研究書を読んでから現地を訪れようと思っていたところに三和町の図書館でこの本を見つけた。
丹後と古代製鉄 歴史シンポジウムの記録 弥栄町編 平成3年1月発行 府立図書館借本
むらのかじやは一緒に借りた、三和町郷土資料館の企画展資料。
といっても今から20年以上前に発掘調査が始まっているのだから、決して最近の発見ということではない。古いもので5世紀末から6世紀初頭の製鉄の跡があると言うから、本格的な製鉄としては日本最古といえるのだろう。
わたしは製鉄そのものはもっと時代がさかのぼると思っている。ちょうど稲作の開始が弥生時代と言われていたのが段々遡って今や縄文時代となっているのと同じように6世紀から3世紀1世紀とさかのぼって来ると予想している。しかしそれは遠所遺跡のような大規模なもので無くて、極小規模な原始的な製鉄だと思うし、原料も砂鉄では無く鉱石では無いかと思う。
それはさておき、遠所遺跡とは製鉄から鉄製品の完成まで全ての作業ができるコンビナートといえ、工人の住居や生活の跡、古墳まで揃った遺跡であるのが特徴である。これだけの組織、設備を構築できるのは相当の権力、財力を持ったものでなければなし得ないので、座長の門脇禎二氏の言われる丹後王国も視野に入ってくるのかも知れない。
遠所遺跡で大きな話題になっているのが、原料の砂鉄の問題である。砂鉄が埋納されたある穴から8Kgの砂鉄が発見されたが、それと同様の原料が製鉄に使われていたということである。その砂鉄が非常にチタン分の高い、いわゆる赤目(あこめ)といわれるような砂鉄で、丹後の現地で採取されるものと違うということである。丹後はチタン分の少ない良質の砂鉄が産出されるという。出雲地方などで永代たたらとして本格的に製鉄がなされた際の砂鉄と同様のもので真砂(まさ)と呼ばれているものである。良質の砂鉄が近辺に存在するのに、他所からチタン分の高い砂鉄を取り寄せているというのが謎だということだ。
サンプル採取の問題とか、穴に有ったのは廃棄されたものではとか色々な意見も出ているのだが、わたしは製鉄の技術的な問題であると思う。
既に現場で須恵器も焼かれていたようで、高温で還元できる条件はできていたと思われるが、技術的にはチタン分の多い砂鉄を低温でじっくり還元する旧来の技術しか持ち合わせていなかったのでは無いだろうか。従って高温還元に適した良質の砂鉄が地元にあったとしても、他から技術に見合った原料を仕入れたのではないだろうか。
遺跡の大部分が炭窯であったという。「砂鉄八里に炭三里」というとおり、原料の砂鉄よりも燃料の炭を確保する方が重要な要素であったことが解る。
【晴徨雨読】35日目(2006.9.4)鶴岡~志津温泉(月山の麓)
東北の東北らしい旅のはじまりである。特に月山は小説のあこがれが強く、期待されるところなんだが、何しろ学生時代に一度読んだだけで舞台も何も解らなくて、ただ月山に登ってみようと言うだけのものだった。小説のはじまりの部分で落合でバスを降りることになっているが、そこを通ったときは妙に感激した。直前に小説を読んでいれば七五三掛(しめかけ)に行ったに違いない。
見上げつ、見上げつつ進むのだが、どれが月山か解らない。
【作業日誌 9/4】
ジャガイモ植えつけ準備
カボチャ片付け
【今日のじょん】:嬉しい顔
涼しくなって朝散再開、今日も念道橋まで行ったら、すこぶる快調になっちゃって、ぽんぽこぽんもいつもよりヨケーにまわっております。