2012.9.27(木) 晴れ
それは毘沙門堂の中にあった板に書かれた墨書である。どうやらこの毘沙門堂の修理などについて書かれたものだろうと写真におさめていたのだが、十日以上たって写真を解析して驚いた。お札の影に隠れて全文が見えない上に、薄暗いお堂の中で露出不足で読めない部分が多いのだが、
原別處毘沙門堂ハ〇
之〇〇然り数年荒〇
和尚再建ス小堂ヲ安置
永六癸ニ丑年亦タ一及ビ二破
丹州天田郡
頭とお尻の部分が隠れていて読めないのだが、どうも別所にあった毘沙門堂が荒れていたので、〇〇和尚が再建したが云々ということが書いてあるようだ。
建立に関するメモ書き程度に考えていたところに、別所の文字が出て来て仰天した。
毘沙門堂、内部背面の墨書。
もちろん改めて訪問し板書きの全文をはっきり見るつもりだが、毘沙門堂がもともと別所にあったということらしい。
「別所地名事典」を精読すると、柴田氏が菟原中別所が産鉄と結びついていると言っている根拠は「景清稲荷の祠は別所から移したものだという。」福林寺で聞いたところの話だけである。もちろん不寝大明神のタタラ師の信仰ということは書かれているが、不寝の森がどこにあるのかあるいは不寝大明神が別所から移転してきたことについては書かれていないのである。
そうすると、ゴウドの森に毘沙門堂があって、そこに別所に由来する板書きがあるということは柴田氏の示されるところの証拠よりもずっと濃厚な証拠となるのでは無いだろうか。
毘沙門堂の中のこの石仏も別所から移されたものだろうか。
柴田氏がゴウドの森、つまり影清稲荷を訪問されていたら、当然発見され公表されているはずの事項だと思うのである。なぜなら彼は「実際景清稲荷大明神の祠の中を覗いてみたところ、中には不寝大明神のお札が掲げられていた。」と書かれているように、祠を覗いておられるのだ。隣にある毘沙門堂には目もくれなかったということだろうか。
いつものげすの勘ぐりになるのだが、柴田氏は本当に影清稲荷、ゴウドの森を訪れたのだろうか。影清稲荷の石柱と龍源寺からという菟原中の写真はあるのだが、、、。つづく
【晴徨雨読】58日目(2006.9.27)青森停滞
強烈な雨で休養とする。溜まっているブログを書いたり、郵便局に行ったり、博物館見学が唯一の仕事。本格的な雨は旅に出て以来、新庄とここぐらいで良い天気の夏だった。
【作業日誌 9/27】
夏野菜支柱等片付け
草刈り(五回目終了)
【今日のじょん】:これって何でも無いことなんだけど、けーとくちんに自分が先に歩いて帰ってきたときのこと。いつもはグズグズノロノロして怒られながら帰ってくるのだけど、この日だけスッと帰ってきたので思わず写真を撮ったわけ。24日のじょん。