2012.9.25(火)曇、雨
別所地名事典の文をそのまま書いてみよう。
福林寺で聞いたところによると、別所は竜源寺の所有地で、同寺がもとあった所らしいという。竜源寺の宝篋印塔もここから移したものだという。(P142)
龍源寺の宝篋印塔
実際この地の景清稲荷大明神の祠の中を覗いてみたところ、中には「不寝大明神」のお札が掲げられていた。中略
福林寺で聞いたところによると、この景清稲荷の祠は別所から移したものだという。そうすると別所と産鉄が結び付いていたことが判る。別所にあったという竜源寺が金昌山という山号をもっていることも、故無しとはしないのである。(P143)
前後の文脈まで書いていないので理解しにくいとは思うが、前段の文ははっきりしている。福林寺の言ではと断っているが、竜源寺、宝篋印塔ともにもとは別所にあったということである。
問題は後段である。この文を何気なく読むと、不寝大明神のお札は景清稲荷(ママ)本殿の祠の中に掲げられていたととれる。そして景清稲荷そのものが別所から移転してきたかのようにとれるわけだ。
この文から、わたしが以前に「龍源寺も宝篋印塔も影清稲荷も別所から移転してきた」旨書いたわけである。今改めて撤回したい。別所から移転してきたとはっきりしているのは不寝大明神だけであり、他については今のところ移転してきたという確証は無い。もちろん今後の調査を続ける所存である。
この後段の文章がなぜ問題かというと、柴田氏の言うところの景清稲荷大明神の祠とは実際には影清稲荷のあるところのいわゆるゴウドの森の本殿の脇にある不寝大明神の祠なのである。
これは影清大明神の祠(本殿)の脇にある不寝大明神の祠
福林寺での聞き取りがうまく伝わっていなかったのか、あるいは福林寺では龍源寺も影清稲荷も別所から移転したものという伝説があるのか色々と想像してみるのだが、少なくとも柴田氏の胸中には「龍源寺も影清稲荷も不寝大明神も別所にあったとすれば、別所=産鉄の地であることが証明される」という構図が在ったのでは無いだろうか。
柴田氏の菟原中の取材についてはいくつか腑に落ちないものがある。つづく
【晴徨雨読】56日目(2006.9.25)小泊~竜飛﨑~蟹田
角館で買った「菅江真澄遊覧記」を今頃読んでいるのだが、ちょうど津軽のあたりが舞台で臨場感があって良い。それにしても寛政の時代によくぞこのような旅が出来たものかと感心する。内容も民俗学的、博物学的、歴史的に優れており、その観察眼には驚かされる。名所旧跡よりも普通の村々を訪れているところが嬉しい。
竜飛では中丹の団体に出合い、元町長の田中さんなど三和町の方も幾人かおられたようだ。話し言葉ですぐに判ったのだからすごいもんだ。
階段国道を自転車で降りる。
【今日のじょん】:グンゼ博物館へパロディ彫刻家の岩崎祐司さんの笑刻展を見に行く。おもしろい作品が80点、すっかり笑わしてもろたが、帰ってきたときのじょんの情けない顔が一番笑える。