2012.9.26(水)晴れ
これはたいした問題では無いのかも知れないが、わたしとしては気になることがある。「別所地名事典」では景清稲荷、竜源寺という表記になっていることである。
ところが紹介されている二枚の写真については、影清稲荷、龍源寺と説明文に表記しているのである。わたしの文では菟原中に存在する稲荷は影清稲荷、伝説など一般的に語られるものは景清と表記し、龍源寺は龍源寺とのみ表記している。それは固有の名前を尊重するという意味でそうしているのだが、三和町史も景清稲荷という表記だったので、実はどうでも良いことなのかも知れない。
さて、「別所地名事典」について腑に落ちないと言ったのは他のことにある。ひとつは、柴田氏が影清稲荷を訪問していながら、龍源寺を訪れていない節があることだ。影清稲荷から龍源寺は歩いてもすぐの所だし、八幡社の鳥居などすぐに目に付くところである。
別所は元々龍源寺の所有地で、同寺も宝篋印塔も元は別所にあったという聞き取りを福林寺でしている以上、龍源寺を訪問するのは然るべきと思うのである。
また、別所に打杭氏の矢場があったと言う伝説について、「竜源寺が移転した後、多分戦国期あたりに打杭氏なる者がここに矢場を設けたであろう。」とまで書かれている。福林寺で戦国期以前に龍源寺が移転したという言質があったのだろうか。
いずれにしても柴田氏が龍源寺を訪れて確認などされた様子は文中に出てこない。ただ龍源寺から撮ったという菟原中集落の写真が掲載されているので、訪問はされたが住職は不在であったと言うことかもしれない。
もうひとつの疑問は、影清稲荷を訪問されている柴田氏が、摂社にある毘沙門天に言及されていないことである。
右手が毘沙門堂。
影清稲荷は本殿を挟んで右に毘沙門天を祀る祠があり、左に不寝大明神、小姓稲荷の二つの祠が並んでいる。
わたしが訪問した際にはこの三つの祠については何の予備知識も無かったから、どこかに祭神が書かれていないかぐらいの気持で祠の中を覗いて写真を撮っていた。そして毘沙門らしきお札を見つけて、驚いた。つまり産鉄、金工に関連する信仰として毘沙門天はもっともポピュラーな神だからである。柴田氏も著書の中で毘沙門地名や毘沙門天を祀っているところは金属に関係あると、若尾五雄氏の説をあげて主張されているところである。
左:南無毘沙門〇天、〇は尊だろうか。
右:毘沙門天は鎧兜に鉾を持つとあるから、これは毘沙門天だろう。
そのような毘沙門天を祀っている祠があるのに、そのことについて書かれていないのはなんとも不思議なことだと思っていた矢先に、もっと驚きの発見をしてしまった。つづく
【晴徨雨読】57日目(2006.9.26)蟹田~青森
下北に渡るフェリーに遅れたので、港のキャンプ場でキャンプする。誰も居なくて寂しく、寒い。今後雨天が続きそうななので下北行きを止めて青森に行く。三内丸山遺跡を見学して、縄文文化に興味を持つ。これからの東北、北海道は縄文遺跡巡りが楽しみだ。
蟹田から下北半島を望む。縄文住居、なかなか芸術的なカーブである。
【作業日誌 9/26】
大根播種(作日)
ニンニク植えつけ
ゴーヤ片付け
秋ナスを残して夏野菜終わり。
【今日のじょん】:朝霧が晴れ、山や川が姿を現すところが感動的だ。シャッターチャンスを狙っているのだが、ここ一番にじょんがうんPしたりするので、撮れない。