2012.9.30(日)雨(台風17号)
何かとお聞きするために龍源寺の樋口住職を訪ねていたのだが、ふとしたことから不寝の森があった位置を聞くことが出来た。確かな位置は判らないのだが、菟原中村の宿(しゅく)という京街道沿いの附近で、かつて番屋があったらしいということであった。
やはり不寝の森は別所ではなく、京街道沿いにあったのかと丹波霧の晴れる思いがした。
以前にわたしが主張した、不寝大明神=関所、番所の神という説が再浮上することができるのだ。そして住職は宿のあたらし屋さんという屋号の藤田さんを紹介してくれた。藤田さんなら不寝の森のあった場所を知っておられるだろうと言うことだった。
はやる心を抑えて宿に向かい、藤田さんを訪ねる。
藤田さんのお宅はあたらし屋といってかつての宿だそうだ。
残念ながらご主人は外出中で、奥さんに聞くと、不寝の森は聞いたことはあるが詳しくは判らないということだった。そしてご主人が帰られるまでの間に、それらしい地を探るとともに、もう一人この地で生まれ育ったという方を訪ねることとした。そこでも詳しい場所は判らないが、おおまかにあのあたりと聞いているという話だった。その場所は宿場町に入る手前、分譲地ヴェルディみわに入る道の山側と言うことだ。
左がヴェルディみわという分譲地の取り付け道路。
不寝の森は宿を過ぎて、細野峠に向かう辺りにあるだろうと予想していたので以外な気がしたのだが、藤田さんが帰ってこられて案内して頂いたところ、やはり先程聞いた場所であった。
そしてもっと驚いたことは、京街道そのものが現在京街道と言われている宿の坂道ではなくて、ヴェルデみわの取り付け道の上にある林の中を走っていたということだ。その街道は山中からあたらし屋(藤田さん宅)の横を通って現在の街道に合していたと言われる。山中の部分には但馬屋、さかもと屋、油屋という宿屋があったそうで、現在の街道にはあたらし屋、藤屋、真粉屋(しんこや)という三軒の宿があり、菟原中村の宿には都合6軒の宿があったそうだ。
藤屋、真粉屋は今も街道筋に残っている。
林の中には巾三尺余りの街道の跡が残っているそうで、そこには不寝の森、番屋、3軒の宿といくつかの民家があったものと思う。現在、宿に至る坂道の部分はおそらく往時は湿地帯で、通行が困難であったと考える。
今回時間切れで、山中の街道部分の確認が出来なかったのだが、次回訪問の課題としてしておこう。
京街道はヴェルディみわの取り付け道路の左上の林の中を通り、あたらし屋さんの横手に出てくるという。不寝の森もその道中にあるという。
その山中に京街道が走っていたとして、又しても疑問が沸いてきた。つづく
【晴徨雨読】61日目(2006.9.30)青森~恐山、大間~むつ
蟹田から渡ることが出来なかった下北半島へ車で行く。車で行くとどうしても一般的な観光地巡りになり、道端の地蔵さまや気になるところを見られないし、発見も出来ない。恐山も大間も期待外れだった。菅江真澄も下北を一周しているが、真冬にも歩いているので驚く。
宇曾利山湖、寛政の時代には如何なるものだったのだろう。
【今日のじょん】:久々にサリーちゃんが来たが、心臓の悪かったレオン君が亡くなったそうだ。痩せていたけれど食欲もあって元気かなと思っていたんだが、やっぱり心臓って負担が大きいのかな。
6月に来たときは元気だったんだけど。