2012.9.23(日)雨、曇
2012年9月21日に菟原中を訪問して新たなことがわかった。
それは農作業をしておられた地元の滝本氏に聞いたことである。最初は京街道の位置をお聞きしたのだが、実に的確に教えて頂いて、疑問の総てが解消した。ついでにと別所のことや影清稲荷や不寝大明神のことをお聞きして新たなことがわかったのである。その上詳しいことを知っているという、いわゆる村の古老も教えて頂き次回以降の訪問調査にも随分楽しみが出来た。
今回判明したことは、京街道のルート、土師川の徒渉点、バンド坂、バンドの地蔵、不寝の森の位置、不寝大明神の移転の経緯である。
まず京街道のルートだが、菟原下一の国道9号線から旧国道の街並みの北側を走り、旧国道を横断し、家並みの間から土師川に降りている。田んぼの間にポンプ小屋がある道があり、そのまま土師川を渡っているようで、かつては木造の流れ橋がかかっていたという。現在田んぼと林の際を少し林に入ったところに草深い道が斜めに上がっている。舗装された新道と出合うところにバンド地蔵のお堂がある。お堂の前の急道を登って行くのだが、この部分若しくは川からの坂全体をバンド坂という。その先は影清稲荷からの道に合して、高杉への府道を渡り細野峠へと続いて行く。
左:対岸のポンプ小屋のところが京街道、そのまま竹の生えている辺りに渡っていたようだ。
右:森に少し入ったところ、右斜めにバンド坂が登っている。新道がクロスしているところにバンドの地蔵堂が見える。
ここで問題にしたいのは、バンド坂の意味と、影清稲荷のあるゴウトの森の意味である。
バンドの意味は転訛も考えると沢山の意味があり、この位置などから想像して、バンタ=坂、崖、バンドー=乞食、バンド=番戸、番所、が有力候補である。
バンタは沖縄方言で茅打バンタなどは有名である。沖縄ではよくある地名なのだが、こちらでは一般的ではない。
茅打バンタ(沖縄、2007.2.24)
バンドの地蔵は旅の職人が彫り上げたという風に言われている。こういう旅人が村の人々にバンドー(乞食)という風にうつってもおかしくないだろうし、もしかしてその旅人が東国の者だったら坂東と呼ばれたかもしれない。(以上全国方言辞典等)
バンド地蔵
そして番所という意味は「地名の語源」(鏡味完二他)にあったのだが、番戸と書いてそのままである。
ゴウトの森に不寝大明神があって、おそらく番所があっただろうという説を前回に書いた。この説は全面的に撤回しなければならない。不寝の森は別所にあって、そこにあった不寝大明神は近年、おそらく昭和の年代にゴウトの森に移転されたということを聞き取りで確認したからだ。つまり京街道が華やかかりし頃には不寝大明神は別所の不寝の森に鎮座していたということである。
そういう意味で不寝大明神があるからゴウトの森に番所があっただろうという部分は完全に否定された。ただし、渡しがあって峠がある、しかも郡境の近くのこの地に番所が有ってもおかしくないという考えは当を得ていると思う。バンド坂のバンドが番戸を表すとしたら、バンド坂のどこかに番所があったといえるだろう。
滝本氏は、このあたりに番所があったという話は残っていないかと言う質問には判らないという回答だった。
もし番所があったとしたら、川を渡って坂にかかる辺りが妥当なところである。土師川の流れは現在は直線的に流れているが、従来はもっと南に蛇行していたと言われている。さすれば、かたやゴウトの森につづく崖、かたや川の流域ということで、バンド坂はそこしか通過できないという隘路になっているのである。つづく
【晴徨雨読】54日目(2006.9.23)弘前~嶽温泉、岩木山登頂
弘前は泊まっただけでもったいなかったが、絶好の天気に岩木山に登りたく出発、嶽温泉に宿を取って岩木山を往復する。祝日とあって大賑わいの山だった。
先日テレビで岳キミをやっていた。そういえばシーズン真っ盛りだったんだ。
トウモロコシ大好きのかみさんが岳キミ食べたいなあと言っている。嶽温泉で作った川柳がぴったりだ。
君だけに 食わしてあげたい だけキミを
岩木山はどこから見てもカッコイイ。(弘前から)
【今日のじょん】:アレルギー性皮膚炎でえらいことになっていたゆきちゃんが、だいぶ治ってきたので写真に撮っても大丈夫。一時はヒョウ柄ゆきちゃんになってたんだぜ。