2012.9.18(火)雨
訪問日 2012.9.14(金)
影清稲荷、龍源寺訪問
「鉄と俘囚の古代史」に三和町(現福知山市)菟原中に別所があるというので驚いた。京丹波町井脇別所もそうであるが、産鉄の地としてはあまりにも以外な場所だったからだ。しかも三和町はわたしの故郷である。
それでも別所がどこにあるのか解らなかった、地形図などには小字まで載っていないのだ。「全国別所地名事典」(以下「別所事典」と略す)を見て、その位置や周囲の状況などを知ることとなった。
菟原中別所は土師川と友渕川が合流点の西、菟原中の西端にあたり、現在大規模な養鶏場がある土師川左岸の段丘状の所である。
国道9号線から菟原中下の旧道に入ると、土木選奨遺産のコンクリート製アーチ型橋の両橋を渡る。東詰めに三和郵便局(旧菟原郵便局)があり、その向かいを少し入ると右手に影清稲荷という稲荷社がある。
「別所事典」ではこの社が産鉄の地である、ひとつの根拠と言っている。
本殿の右に一社、左に二社の摂社がある。摂社、末社の使い方がいまひとつ解らないのだが、当面摂社として記載する。
草深い境内をおそるおそる進み、摂社の中を覗いてみる。左側の二社は、不寝大〇〇、小〇〇〇と読める。前者は不寝大明神(ねずだいみょうじん)で後者は小姓稲荷(こしょういなり)ということが三和町史(上巻)などで解った。
「別所地名事典」の著者柴田弘武氏が産鉄に関係するだろうと指摘されているのは、影清稲荷と不寝大明神である。
影清稲荷は同神社の石柱(新しいもののようだが)に「影清稲荷大明神」とあるが、三和町史などでは「景清稲荷」というふうにも書かれており、悪七兵衛こと藤原景清に由来すると思われるので影清、景清は同一のものだろう。
三和町史に影清稲荷の勧請についての経緯が書いてあるので紹介しよう。(龍源寺文書)
昔丹後国で大角力(おおかくりき・すもうのこと、本来すまヰと読み、すもうとなったものか)があったときに、飛び入りで「かげきよ」と名乗るものが取り組んだところ、強の者で他に及ぶ者がなかったので、出身を尋ねると「菟原村」だといった。それから皆、当村に立ち寄って「かげきよ」のことを聞くけれども、今は一人も角力は村にはいないので、これはゴウドの森の主に違いないとして、それから「景清稲荷」と呼ぶようになった。
もちろんよくできた勧請談なのだろうが、元々景清稲荷だったところにそれらしい話が出来上がったのだろうと想像する。 つづく
【晴徨雨読】49日目(2006.9.18)田沢湖~八幡平
台風が来ていたが出発する、雨も風もそこそこだがそのうちそれるだろうという甘い考えである。ブナの林の素敵な道を北上するが、天気のこともあってひたすら走る。玉川温泉の地獄が見えるようになると坂がきつくなってくる。玉川温泉の近くの駐車場で、サービスで作ってくれたおにぎりを頂く。なぜか涙がぽろぽろ出て、不思議な感覚だ。
玉川温泉の地獄の風景も凄いが、人の数も凄い。観光バスが団体の客を運んでくる。観光で来る人と、末期ガンの治療で来ている人のコントラストが激しい。
複雑な気持ちで峠を越え、志張沢のゆきの小舎に落ち着く。
治療している人の横を観光客が歩いて行くのは、奇妙な光景だ。
【今日のじょん】:ここんとこ台風の影響で風が強い。じょん君何が怖いって、風が一番だ。普段はすり寄ってくることは無いのだけど、風の強い晩などは妙にすり寄ってきて、くっついている。
こんなとこに来たこと無いねんで。