晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

晴徨 三和町菟原中(2) 9/15

2012-09-15 | 晴徨

2012.9.15(土)晴れ、曇

 岼から府道59号線を下川合まで下り、三和ダッシュ村のところを左に入る。この道は実は府道709号線で、長宮峠の道も府道709号線なのだ。綾部中山線というそうだ。川合から千束(せんぞく)、菟原(うばら)に行くには絶対に近そうだ。中学校時代は自転車通学だったので、月に一度ぐらいはこの道を通っていた。なぜいつも通らないかというと、新しく開鑿された道は地道で、おそろしく尖った岩が道に埋まっていたのだ。パンクでもした日には大変なのでそうそう走れなかったのだ。もちろん府道も地道だったが、車が走るため表面はきれいにならされていた。それでも景色は良かったし、アケビなど採ることも出来たのでたまに通っていたわけだ。そんな道だから今では荒れて走れないのじゃないかと不安になったが、入ってみてびっくり、鋪装はされていて、車の通行もある。
 少し行くとそう古くは無さそうだが二体の地蔵さんがある。やはり古の通行はあったわけだ。P1020714
 
下川合から少し入ったところにあるお地蔵。



 寛政十一年の丹波大絵図には先程の長宮峠の道もこの道も掲載されていない。街道としては国道173号線、府道59号線が主要だったようだ。
 やがて土師川を渡って辻に出る。そのまま国道を渡って脇道に入ることもできるが、少し国道を走って、府道710号線を走る。国道9号線の喧噪が嘘のような静かな良い道だ。この道も丹波大絵図には載っていないが、主要な道だったのだろう。随分趣のある道標が柏田というところに大切に保存されていた。P1020716
 
「右 
さ々山道 左 市」とある。市は小字市場のことだろうか。
(これは後日「左 京」と判明、失礼) 



 菟原下に入ると鶏糞の臭いがしてきた。目的の別所はこの養鶏場のあるところだそうだ。
 解るところから見ようと、影清稲荷に行く。鳥居や水鉢に入った銘を探しながら進んで行くが、草が茂っていて気味悪い。本殿はともかく摂社で思わぬ発見をする。三つある摂社の内、小〇稲荷と不寝(ねず)大明神は知っていたのだが、右の一社が毘沙門天を祀っていることだ。これらのついての考察は別稿に譲るとして、山の上部に見えている龍源寺に行くことにする。P1020717
 
菟原の郵便局の前を南に入ったところに景清稲荷はある。



P1020720 Img_0660_2

出来上がった観光地は何の魅力も無い。



【今日のじょん】:先日ご案内のダイコーの長布団、じょんは気に入らないようなので一晩おとーが使ったが、翌日から何事も無かったように使っている。一体何やったんや。P1020742

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晴徨 三和町菟原中(1) 9/14

2012-09-15 | 晴徨

2012.9.14(金)曇

 10:35  じょんのびスタート~山家~田野町
 11:37  田野町長宮(長宮峠下19,3Km)、府道709号線
 12:11  三和町岼長宮(22,7Km)
 12:22  岼渋谷神社昼食
 12:35  渋谷神社スタート~下川合から梅原に向かう府道709号線~R9~         府道710号線
 13:15  菟原中影清稲荷着(34,2Km) 龍源寺等訪問
 14:32  菟原小学校スタート(35Km)質山峠経由
 16:43  じょんのび着(67Km)

 丹波の数ある別所のうち、予想外の位置にあった菟原中(うばらなか)の別所を調べてみたいと企画する。上記コースタイム表を見て貰えば分かるとおり、いわゆる間道を走るコース設定になっている。幹線道路の国道などが整備され、もっぱら通行は幹線道路に偏り、これ等の間道、脇道は忘れ去られ、苔むした道となってくる。しかしながら近世はもちろん、モータリゼーションが発達するまではこれ等の道が主役であり、距離的には絶対に有利であると思うのだ。
 綾部に行くのは山家に出て、由良川左岸の道を走っている。国道27号線ができるまではこの道が主役であったし、とにかく車が少なくて走りやすい。もちろん信号は一つも無い。
 長宮峠越えは軽トラで走ったことがあるが自転車ではお初なので少々不安。昨年グランファンド京都でコースになったのだが、今年はコース変更の噂も聞いている。植林の中で、苔も生え滑りやすいということもあるが、長宮不動までの道は直登でMTBでもギヤが足りない。ロードレーサーではかなりつらいと思う。長宮への下りも急坂で帰路に走ろうとは思えなかった。この道は綾部藩の役人が通った道でもあるという。川合は元より三和町の多くの地域が綾部藩領であったということだ。わたしは小学校のとき遠足でこの峠を越えている。

P1020703 P1020704
 



左:田野町から長宮峠方面  右:長宮不動尊、本来の峠道は右手の尾根を登っているようだ。

P1020705P1020706P1020707_2 




左:一箇所だけ綾部方面の展望が開ける。
中:林道の長宮峠、本来の峠もこの附近にあるはずだけど。
右:岼の長宮集落、本来の峠道はこの集落を抜けて行く。

広く快適な道を岼に向かって下って行くと左に上川合稲葉(いなば)への道を分ける。稲葉へは2007年に空き家見学に行ったが、なんとも山奥で驚いた。その家も今では入居者がおられ、小学生も居られるそうだ。稲葉というのは「地名の語源」(鏡味完二他)によると「稲架の普及前に、稲干場とした所で、平素は芝草地になっていた」とある。イナバという所もあるので、そこが日当たりの良い、それらしい場所ならば、そう言えるかもしれない。
 イナバは鋳場の意味で金属地名とされる研究者もある。
 稲葉口から岼(ゆり)の間、家々の庭石や石垣を見ていると大きなチャートが目立つ。特に赤色チャートがふんだんで、本場の上林をしのいでいる。この道の東側の山に廃鉱跡があった。小学生の時に探検に行ってコウモリを捕ってきたのを憶えている。おそらく珪石鉱山だったのだろう。P1020708 P1020709
 



常楽寺、渋谷神社の石垣には赤色チャートが多く使われている。


 チャートと金属鉱脈との関係は如何なるものか解らないのだが、何かあるのではないかと想像している。Img_0652

大盛館、荒川鉱山跡はここから2キロ余り、行けば良かった。


松田解子のおりん口伝は荒川鉱山が舞台だとか、まだ読んでいない。

【今日のじょん】:お出迎えじょん。お帰りなさいと喜んだが、車庫入れのため又出て行かれて白けている。

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YouTube: お帰りのはずが

 
 

 

 
  

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小説 月山   9/13

2012-09-13 | 日記・エッセイ・コラム

2012.9.13(木)晴、曇

 11日の讀賣新聞で「森敦 生誕100年」という記事を見つけた。わたしよりも少し歳上という感じがあっただけに驚きである。1912年生まれと言うから明治から大正に代わった年である。1月の生まれだそうで、実に明治生まれなわけだ。
 「月山」は昭和48年新出、49年出版なので、わたしが買ったのは学生時代で出版されてすぐの事だった。その本は手元に無くて、文庫本で持っているのだが、これほど何度も読んだ本はない。
 最初に読んだときには何が何だか解らなかった。ただ、昔の東北の冬は寒いんだろうなあぐらいの感覚である。第一、月山がどこにあるやらどのような山やらも解らなかったのだから。それほど東北は遠い存在であった。
 出羽三山や葉山信仰などを知るにつけて再度読むこととなったが、それでもさしたる感動を覚えるということはなかった。
 月山の麓まで自転車で辿り着き、ガスで視界の効かない月山に登り、いや登ったというより彷徨って、少し解ってきた。小説のはじまりにある、落合というところを通ったときなど小説の中の風景を思いだしていた。
Img_0480
 
旧朝日村の相模地蔵があるところから遠望。


新聞記事の中に「注連寺から周囲を見回せば、なだらかな稜線が連なり、どの山がどの山か分からなくなる。森文学の大きな世界を連想させた。」とある。まさに月山周辺の山々はどれがどれか分からないのだ。


「未だ生を知らず 焉んぞ死を知らん」という孔子の言葉で始まるのが強烈で、生死をテーマにした小説と言われている。
 新聞記事の中でも、「千の風になって」を訳詞、作曲された新井満氏は、「『死の山』とされる月山を描いた作品は、死の文学と語られることがある。だが、死の姿を知ることで、生を知ろうとした希望の文学だ」と書かれている。
 わたしも同感であるが、生も希望もそれほど明るいものでは無いと思うし、生とか希望の象徴は実は脇役のように描かれている十王峠ではないかと思っている。
 現在のように何時の季節でもどこへでも行ける時代には絶対に理解できない事だろうけど、過去の七五三掛(しめかけ)の人々は長く厳しい冬を雪に閉ざされ、じっと耐えて過ごしてきた。それは物理的にも精神的にも耐えがたいほどの閉塞であったと思う。そんな時彼らの唯一の希望は、春になって十王峠を越えてくる行商人なのではないだろうか。もちろん吹雪をついてやってくる密造酒の買い受け人も同様である。実はそれはこういった人たちで無くても良かったのだろう、峠を介して解放された峠の向こうからこの閉塞感を打ち破ってくれるものなら何でも良かったのだ。Img_0492
 
これこそ月山ではないのか?




 だからこそ例えそれが押し売りであっても、村人達は心よく迎えた。
 月山は空から彼らを見つめている月のように遠くて冷たい。十王峠は多分彼らが毎日眺めている山並みの窪みであって、いやひょっとしたらそれは近すぎて直接村人達の眼には入らないのかも知れないが、吹き(吹雪)の中で命を落とすものがあったり、酒の密造を取り締まる税務職員がやってきたりやっかいな存在でもあるのだけれど、自らの閉塞を打ち破ってくれる細々とした、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のような存在であったのだろう。
 それは月山の冷厳な姿とは正反対で、生々しくて、氷の中で芽吹いている蕗の薹のように温かみを感じさせるものかもしれない。Img_0499
 



 冬山の山小屋のような月山神社の岩室で、行者姿の若き女性に会った。七五三掛のいわゆるモンペの後家といわれた女性を思いだし、ドキリとしたものである。


 そして主人公わたしは遂に雪の消えた十王峠を越えて行く。鉢に落ちたカメ虫が何度も這い上がって、遂にその縁に達し飛び立ったように。
 小説月山の主人公は実は十王峠ではないかとさえ思うのである。

【晴徨雨読】44日目(2006.9.13)男鹿半島一周~秋田市
 男鹿半島の秋景色を満喫できればいいかとスタートした。入道崎の土産物屋と大音量の演歌には幻滅したが、景色は一級品だった。Img_0627

入道﨑の土産物屋は興ざめ、うんと離れたところで休憩する。


  道中菅江真澄の足跡に出合う。「江戸の旅日記」(ヘルベルト・プルチョウ著)でその名前ぐらいは知っていたが、その足跡に出合ってその偉大さを改めて知らされる。江戸時代に東北、北海道を旅することが如何に困難か想像もつかない。しかも彼は主要街道沿いだけでなく、辺境の地を歩いている。そして50巻を越える旅行記を残していると言うから驚きだ。日本民俗学の父と言われるのは柳田国男かと思ったら、実はこの人物こそふさわしい。Img_0634 Img_0637





【今日のじょん】:今日はおかーが出かけるので朝は忙しい。散歩に出かけるべかと思ったが、庭を嗅ぎ回ってラチが明かない。P1020698




 獣でも来たかなと思ったが、よく考えれば作日ゆきちゃんが来てたのだ。ゆきちゃんアトピーがきつかったので写真は遠慮して、その数日前に来たマーブルの写りの良い写真をご覧あれ。P1020682


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雨読 鉄と俘囚の古代史(再読-7)

2012-09-12 | 雨読

2012.9.12(水)快晴

 別所が産鉄、あるいは金属関連の地域であるというのは概ね間違いないだろう。しかし別所が蝦夷の俘囚を移配した地であるというのは納得のいく証拠が得られない。これが本書を再読したわたしの結論である。
 実は柴田氏には大変申し訳ないが私自身考えていることは、別所という地名が官符のものであるということは肯定的に考え、朝廷が各地の産鉄地、あるいは産鉄候補地を指定して付けた地名なのではないかと予想している。
 朝鮮半島の政治情勢から鉄の原料が入らなくなり、逆に需要は増えるばかりであった時に、国内での鉄生産を画期的に飛躍させる必要が出てきた。非鉄金属についても各地で発見されるに至って、国内での生産を高める施策が打ち出されたのではないだろうか。そういう地域が別所と名付けられ、おりしも蝦夷の俘囚には高度な技術をもったものも居ただろうし、労働力としても大きなものがあったろうから、別所の中でも生産高の高いところ、あるいはこれから開発しようとしたところに彼らが送られたのではないだろうか。
 例えば本書の中で、奥羽の別所についての記述に多くを割いている。蝦夷の地で蝦夷の俘囚の移配地というのはあり得ないからである。その内容は既に王化に服した地であるから移配地であってもおかしくないというものと、墓地を表す別所だろうとかいうものである。しかも全てが産鉄の地なのである。柴田氏の論理から言うと、その別所が俘囚の移配地でないならば産鉄の地である必要は無いにもかかわらずにである。
 わたしの予想する説には何の根拠もないのだが、こういったことが総て説明がつくのである。
 そういった視点で、訪問できる範囲の別所を見てみたいと思っている。そこは産鉄の地であろうし、産鉄の遺跡を発見できるかもしれない。例えば先日地質図綾部を眺めていると、廃鉱跡というのを見つけた。別所町の北の山辺りになりそうだ、いつか調べてみたい。別所には古代の香りが漂っている、きっと歴史的にも重要な地なのだろう。  おわり

P1020647
星原町栄宝寺(高野山真言宗)にある地蔵さまは「北向 首取椿地蔵尊」とある。信州上田の別所温泉常楽寺には北向観音があり、謂われを知りたいものだ。


P1020670
綾部市別所町の願成寺の入口とその向かいの庚申塔のもとにある白い岩石は石灰岩ではないだろうか。こんなことが何かのヒントになるかもしれない。


【晴徨雨読】43日目(2006.9.12)秋田市~男鹿半島
 山形では月山という目標があったが、秋田は特に思い入れも無かった。とりあえず男鹿半島を廻ってこようと出発、男鹿温泉郷目指して走る。おりしも稲が実り、収穫前のわくわく感が伝わる田舎であった。向かった博物館は臨時休館だし、他にどこに寄るとか言うことも無くて、寒風山も眺めるだけでいいかと通り過ぎ、なまはげラインという農道をのんびり走って行く。実りの秋を満喫するサイクリングの一日だった。Img_0612 Img_0615

寒風山とヘンな看板。




【作業日誌 9/12】
草刈り5-4

【今日のじょん】:すっかり秋の朝となり、早朝には霧が降りている。起きる頃には上がっているのだが、山の上は笠を被っている。
 
 霧晴れて 農夫の誰ぞ 解りけり  うとく

 稲刈りが最盛期で、やがて主役は小豆に変わる。向かいの山で猿の声、ワイヤメッシュの柵は出来たけど、猿には如何ともしがたい。鹿の次は猿が仇になりそうだ。じょんもピリピリしているぞ。P1020697  

 

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雨読 鉄と俘囚の古代史(再読-6) 9/11

2012-09-11 | 雨読

2012.9.11(火)雨、曇

 犀川(さいかわ)は綾部市の志賀郷、物部、豊里などを流れ小貝町で由良川に合する川である。金沢の犀川は室尾犀星で有名だが、結構各地にあって、綾部の近くでも宮津市にある。Img_4563

犀川、小貝橋から。この先で由良川に合する。



 綾部市の犀川についてわたしはサヒ川、つまり鉄の川と言ってきた。(遊里のこと (10)2010.5.30他)そして、柴田氏も「全国別所地名事典」の丹波国の別所のなかで次のように書いている。

 さきの阿須々伎神社が「金宮大明神」とも言われること、そしてその元宮があった所が「金が峰」で、そこから流れ出る川が「犀(サヒ=鉄)川」であり、そこが金河内という名の村落であること云々Img_2043

金河内町(かねぐちちょう)阿須々伎神社の茗荷神事。(2009.2) 



 金属地名の研究者なら誰でも「犀川=鉄川」と言うだろうし、わたしの言っていることが著名な先生にも同意されているという自負のようなものも沸いてくるのだが、実は「犀川=鉄川」に疑問符が着くような説を見つけたのだ。それは綾部市史上巻中世編第二節 何鹿の国人の中の上原氏に関する文章である。(P183)

 上原氏 前に述べたように上原氏は信州諏訪出身の関東御家人であり、何鹿郡物部に地頭として入ったものである。諏訪神社をまつったことや、物部を流れる川を犀川と名付けたことなど、いずれも上原氏の出身を説明するものである。

 と書かれている。諏訪神社と犀川についてどのような史料からとられたのか解らないが、このことが事実であり単に故郷の川を懐かしんで犀川と命名されたとしたら、犀=サヒ=鉄などという解釈は無意味なこととなる。柴田氏はここまで調べておられるのだろうかと老婆心ながら考えてしまう。
 この三点がわたしには驚きだったのだが、鼓山の件は柴田氏の資料ははっきりしたものであるし、わたしの予想が当たっていたことがはっきりして大変嬉しい。
 ユリ地名についてはわたしのオリジナルであると思っていた説が、随分前から考えておられたことに敬意を感じる。同時にわたしのアイデアもまんざらではないなと思うのだが、ユリ地名はそれをもって金属関連地であるとは言いきれないと考えている。そのことについては、綾部市の犀川についても別稿で述べたいと思っている。
 犀川については、上原氏が名付けようと名付けまいと、サヒ川であると考える。一般的な考え方で鉄の川と言われたのだと思うが、現実にも鉄の川であるとわたしは考えている。つづく

【晴徨雨読】42日目(2006.9.11)由利本荘~秋田市
 おけさおばこラインという国道7号線を北上する。旅行が終わってから本ブログの検索件数で「おけさおばこライン」というのは大変多かったのだが、ここ数年はほとんど無くなっている。震災の影響もあるのだろうか。
 砂混じりの西風が常に吹いていて、左は白波の海、右は風に耐えている低い灌木の山と殺伐とした景色が何十キロとつづく。車でドライブするのは楽しいかもしれないが自転車ではつらいだけの道だ。Img_0609 Img_0610

左は海、右は山、そればっかし。



【今日のじょん】:爪切りと肛門腺出しのため舞鶴のキャドックさんに行く。恒例の白糸濱神社の植木市とダイコーに寄る。P1020692

爪も肛門腺もスッキリ。


 ダイコーでは半額になった長布団を買って貰う。ところが布団大好きなのに、座らないのだ。無理やり座らせるとイヤ~な顔している。ひとが座っていたらすぐ自分のものにするので、とりあえずおとーが座ることにする。P1020694
 
いきなり座らせたらイヤそー。

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雨読 鉄と俘囚の古代史(再読-5) 9/10

2012-09-10 | 雨読

2012.9.10(月)曇、雨

 別所が蝦夷の俘囚の移配地であるというのは明確な証拠が打ち出されていないというのが、わたしがこの本を再度読んだ末の結論だが、別所が産鉄、あるいは金属生産に関連ある地というのは概ね納得できることのようだ。証拠は具体的に鉱山やたたらの遺跡が出ているところと、そういうものが見つかっていなくとも地名や神社寺院などから推察される信仰など民俗学的な証拠が揃っている。
 ここで柴田氏の研究の集大成とも言うべき、「全国別所地名事典」上下巻について書いておこう。
 同じく彩流社から2007年に出版されている。全国621箇所の別所について豊富な地図、写真を駆使し、歴史や民俗史料、金属関連の資料を網羅した別所地名悉皆調査事典である。氏が15年の歳月を掛けて、実地に全国の別所を足で調査されたそうで、超大作と言ってよいだろう。中身も濃いものがあるが書籍自体もすこぶる大きく分厚くて、値段も各9,975円とわたしには手も出ない。図書館で探すが、館内閲覧となっており借りることは出来ない。やむなく図書館に通って読んでいるのだが、とても驚いたことがいくつかあったので、エピソードとして紹介しておこう。
 事典を読んでいるのは丹波、丹後、若狭など近隣のところなのだが、まず丹波のところで、わたしの書いていることとまったく同様のことを書いておられるので驚いたのだ。柴田氏には大変失礼なんだが、わたしのブログを読んで書かれたのかと疑ったぐらいなのだ。慌てて発行年度を調べ、真似しているとしたらわたしの方だと知った。
 そのひとつが、ユリ地名のことだ。「遊里のこと」(1)~(15)として2010年4月12日から8月13日まで書いているのだが、岼、遊里、由里などで表されるユリ地名が淘汰(鉱石の選別)からくる金属関連地名ではないかという説である。
水の作用で土地が平になったところという柳田国男氏などの地形説が一般的で淘汰からくる金属説はわたし以外に誰もいないだろうと思っていたのだ。ところがわたしよりも先にこのことを書いておられる柴田氏の別所地名事典には正直驚いた。Img_4299
 
畑口川流域、遊里方面。


 わたしはむしろ丹波のあらゆるところにユリ地名を発見するに至って、ゆり=金属関連地では無いことを次の説として書く準備をしているところでもあるのだ。
 その次が同じく「遊里のこと(5)」(2010.4.21)に国道9号線沿い桧山の鼓山(つづみやま)には鉱山があるだろうという予測の記事を書いていたら、別所地名事典にはしっかり、マンガン坑があると書かれているのだ。
 そして今ひとつは綾部市を流れる犀川(さいかわ)のことである。つづく

【晴徨雨読】41日目(2006.9.10)酒田~本荘
 今日も芭蕉と森敦とのお付き合いである。吹浦(ふくら)という小さな町が小説や俳句によってここまで印象深い街になるのだから不思議である。吹浦を過ぎた辺りで夕立に遭い、夜までぐずぐずと降った。そしてそれが暑い夏の終わりであって、この後は涼しくなったり寒くなったりの旅となるのである。Img_0592

吹浦の外れで撮った写真。右手の半島は男鹿半島か。



【今日のじょん】:新じょん語録7 重たいか
既に公開済みの語録なんだが、記録された日に見つからないので再度御紹介。「重たいか~」といって頭を乗せられると、超めーわくそーな顔をする。二,三回やるとすたこらと逃げてしまう。P1020688 
 
黒いのはおかーの頭デス。 

 

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雨読 鉄と俘囚の古代史 (再読-4) 9/9 

2012-09-09 | 雨読

2012.9.9(土)晴れ

 菊池山哉の俘囚移配地説の根拠第七に近畿以東の別所の鎮守は決まって白山権現であると書かれている。ところが白山権現が鎮守であればなぜ俘囚移配地なのかの説明はない。かなり注意深く読んだつもりなのだが、見当たらないのだ。
 「鉄と俘囚の古代史」の中にも、各地の別所を紹介するときにこの地には白山神社があると盛んに述べられているが、そのことが俘囚移配地である証拠とはならない。むしろ別所が俘囚移配地というのなら、なぜ西国の別所には白山神社がないのだ。
わたしは白山信仰は俘囚移配とは違ったところの原因とか理由があるのではないかと思う。
 もうひとつの東光寺であるが、これも菊池氏の根拠第九に書かれ、慈覚大師建立の寺が東国では東光寺と呼ばれるという風にある。このことが俘囚移配の根拠になるかといえば、「円仁慈覚大師が俘囚教化のために東国を巡錫して仏堂を建立した事実があったからだ。」と書いている。P1020668
 



藤原期の蔵王権現、十一面観音が安置されている、高野山真言宗那智山願成寺
(綾部市別所町)歴史のある地だ。

 こんなとき「天台宗・円仁 来年1150年御遠忌」という新聞記事を見つけた。(讀賣新聞2012.8.31)遣唐使として唐に渡り、様々な苦労の末帰国、やがて天台座主となるその内容が記されているのだが、渡航前の活動で東北地方に所縁があるようだ。山形県の立石寺(りっしゃくじ)、平泉の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)、松島の瑞巌寺(ずいがんじ)なども円仁開基といわれている。830年天長の大地震でも出羽、陸奥に向かったという。つまり平安時代の東北に所縁のある僧で有ることは間違いが無い。本書の中でも貞観二年(860年)に武蔵、上野国などに行っていることを紹介している(日本三代実録)。しかしながら俘囚教化のためというのはどこにも現れず、別所に東光寺があるからといって、俘囚を移配したという証拠にはならないのではないだろうか。
 もちろんその根拠というのは沢山示されているのだが、あくまで情況証拠という感じで、確実な証拠とはいえないのではないか。つづく
(鉄と俘囚の古代史 再読-3は2012.9.6)

【作業日誌 9/9】
ジャガイモ植えつけ(ニシユタカ、アンデスレッド)

【晴徨雨読】40日目(2006.9.9)酒田連泊
芭蕉と森敦の足跡を追って文学の旅をする。鐙屋(あぶみや)はそのどちらもが関係しており、興味深い訪問であった。小説でも俳句でもその現地を見るということがいかに感動深くなり、印象にも残るということがよく解った一日であった。本間美術館では浜田知明展をやっており、翌年熊本県立美術館で再会することとなる。Img_0587

真桑の句会、不玉亭
初真桑 四つにや断ン 輪に切ン  はせう


【今日のじょん】:強者どもが夢の跡。P1020685

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晴徨 別所訪問(2) 9/8

2012-09-09 | 晴徨

2012.9.8(土)曇

 上八田のイワンの里は稲刈り準備でおおわらわ、喫茶はお休みと言うことだったが
店を開けてくれて、冷たいものを頂く。ひとしきり世間話をして3時に店をあとにし、そのまま帰る予定だったが、本来の予定の別所町訪問をすることにした。別所町は星原町同様府道から谷に入っていく地形だが、入口がすぼまっていて、中が拡がっている地形だ。別所町の地理は事前に調べているわけで無いので、拡がった二つの谷の左から入っていく。
 道が二股になっているところに、神社がある。社名も祭神も解らない。近所の家で聞くと日吉神社ということである。P1020654_3 P1020652

日吉神社と境内にある石塔、何の銘も記されていない。


 神社の下を西に進むと大坂峠と看板が立っている。この峠は内久井(うちぐい)に向かうものである。いろいろと尋ねていたら、詳しいことは自治会長さんがよくご存じとのことで紹介される。そちらに向かうが農繁期とてやはりお留守だった。その途中にあったお堂が自然で、特に大事に祀られているような気配も無いのだが、安物のガラス瓶に枯れた花のお供え物を見ると、その仏像が木造だけに妙に古代のこの地の人々の信仰を思い起こすような気がするのだ。
P1020653 P1020656

大坂峠に向かう道といかにもという木造の仏像。


 東の谷に向かう、先程の方に鍛冶屋谷はこちらの方だと聞いていた。もうひとつ気になる地名の釜輪、かまのわと呼ぶのだろう、こちらは村の下手、入口の方らしい。
 別所川は町内で東西に分かれるが、中央の道路が左の谷を渡った辺りが鍛冶屋谷ということだ。鍛冶屋谷をさらに東に行くと山手に熊野神社が現れる。地名辞典によると藤原期の熊野十二所権現を蔵するとある。
 その少し東に高野山真言宗那智山成願寺がある。ここの入口には仁王門跡というのがあり、その上手に五輪塔や石仏が無造作に置かれている。こういう光景は結構見られるのだが、何ともすさまじい感がする。その脇に石碑が倒れており、「〇〇〇霊寺」と書かれているようなのだが一体何を表すのだろう。P1020667 P1020666
 
仁王門跡の石仏群。


 ここには藤原期作の蔵王権現像、十一面観音像が安置されているという。いずれにしても古くから開けた地であることには違いない。何かと気になることを発見したのだが、別稿に譲ることとして、別所を後にする。
 少し南の交差点のところにお堂と道標があった。「右たなべみち 左むらみち」とある。ここがかつての街道なのだろう。たなべ道は登尾峠に向かうものだろうか。
沢山宿題を残しつつ、上杉から黒石峠を越えて帰宅する。P1020673_2

右 たなべみち


【晴徨雨読】39日目(2006.9.8)新庄~酒田
 雨上がりで憂鬱な走行だったのだが、雨後の最上川は濁流と流れの速さで見ものであった。五月雨ではないが、俳句のとおりである。最上川下りの客も美しい流れでなく不満かもしれないが、実はラッキーだったと思うだろう。こんな流れはそう滅多に見られないだろう。
 しかしさすがに大河である、河口近くになると随分澄んでくるのだ。信濃川、阿賀野川など大河の河口付近を通ってきたが、大きな川というのはなぜか恐怖感が沸いてくるのだ。海は恐くはないのにだ。Img_0536 Img_0559

濁流の最上川と河口付近。



今日のじょん:今夜は恒例のじょんのびバーベQ、すっげー良い匂いがするので出してくれいって騒いだら出してくれた。でもみんな食べるの必死でなんももらえなかった。P1020683


  

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晴徨 別所訪問 9/7

2012-09-07 | 晴徨

2012.9.7(金)晴れ

 11:08 じょんのび村スタート~山家~阪鶴道路~綾部
 12:03 綾部市図書館着(16.48Km)
 12:30 図書館スタート~府道77号線
 12:55 星原、星宮神社着 昼食
 13:20 星宮神社スタート~星原彷徨
 14:00 上八田イワンの里着
 15:00 イワンの里スタート~別所町彷徨
 16:13 別所町スタート~上杉~黒石峠
 17:12 じょんのび村着(53Km)

 図書館の本の返却と館内閲覧があるので、図書館経由で星原町、別所町の訪問を計画する。阪鶴道路といっても通用するのか知らないが、何となく気に入ってるので使っている。今日は山家から綾部までを走る。車は少ない、信号は無い、アップダウンは少なく、景色は良いと四拍子揃ったバイク道だ。綾部のサイクリストは結構使ってると聞くがこのコースでサイクリストに出合ったことは無い。やがて和木橋横の和木への道を通り過ぎる。大原からBIKE、WALK、BIKEで綾高に通ったという強者を思いだす。由良川沿いの伏見屋や現張の料亭の有る辺りは、古き良き綾部の風情があって好きだ。
 図書館で閲覧などしてスタートする。星原に入って、星宮神社の石段で昼食とする。吉美街道(きみかいどう)というのだろうか白瀬橋から小呂峠(おろとうげ)に向かう道(昔の吉美街道とは違うだろうが)を通るといつも思いだす。
 昔の吉美の子供の喧嘩言葉に「小呂小呂ドスイ 多田多田ハッタイ 食わぬは星原ひだるかろ」というのがあったそうだ。ドスイと言うのは雑炊のことで、ハッタイというのははったい粉のことで大麦を炒ってひいたものだろう。子供の囃子詞や童謡などは随分残酷なことを言うもので、星原の子供達にとっては辛いことだろうが、だれもが貧しい時代があったということを言いたいのだろう。
 この喧嘩言葉は実は奥上林村誌に載っていて、何となく解せないものがある。関西漫才風に言うと、「お前が言うか?」という感じである。
 いずれにしても大昔のことで、今は裕福な村の様子が見受けられる。ちょうど稲刈りの季節であちこちの田んぼで稲刈り機の音が聞こえる。星原(ほしばら)町というのはおそらく綾部市の中で最も美しい地名であろう。地名辞典を見ると星宮神社に由来すると書かれているが、星宮神社の事は書かれていない。末社は三社あり、一つは稲荷社のようだがあとは解らない。P1020643
 
星宮神社


 川向かいに立派なお寺があり、高野山真言宗 金福山 栄宝寺という。P1020646





 そのお寺の側が岼蔭(ゆりかげ)で向かい側が岼﨑(ゆりさき)という小字らしい。ちょうど日後日向(ひしろひなた)のような使い分けがなされているのだろうか。P1020642

左手が岼蔭、右手が岼﨑、一番奥鞍部の下が別所。


 岼蔭の道を辿り、お堂のところに出る。ここから奥に向かえば別所で、二軒の家がある。訪ねてみたが作業中で不在のようだ。たんぼで稲刈り中の人に尋ねたが他所から来ている方なのか、ここのことがよく解らないと言うことだった。
 舗装道路が終わり、草道を詰めていくが変わりばえしないので引き返す。この道を詰めると峠を越え白道路(はそうじ)に出る。
 皆忙しそうにしておられるので、写真を撮って星原を後にする。
小呂峠を越えて府道485号線を右に行き、イワンの里さんに寄る。つづく

【晴徨雨読】38日目(2006.9.7)新庄停滞
 雨のため新庄市内見物となる。おそろしく展示物の多い郷土資料館やお城跡など見物するが、妙に記憶に薄い。街全体の記憶が薄いのだ。天気のせいだろうか。Img_0523





【今日のじょん】:今日は晴徨で自転車ツーリングの日、家の作業は出来ないが、それにしても雑草の成長は早いなあ。対数日前に刈った草がこれだもんなあP1020638

じょんもボールを探している。

 
  

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雨読 鉄と俘囚の古代史(再読-3) 9/6  

2012-09-06 | 雨読

2012.9.6(木)曇、雨

 別所という地名は実に数多くあり、全国にまたがっている。薩摩と飛騨には無いとされているが、もちろん北海道、沖縄にも無いのだろう。そしてよみもおそらく”べっしょ”と統一されているのだろう。このことは広範囲に普遍的な意味を持つ地名であることは確かである。柴田氏も音読みの「別所」は官符のものだろうと書いている。
 また蝦夷の俘囚を関東以西に移配したことも、各種の文書で明らかである。
とまあここまでは理解できるのだが、蝦夷の俘囚(捕虜)を移配した地というのはどうも確実な証拠が示されていないのだ。 
  わたしが本書に示した疑問について、何れもはっきりとした答を見つけられないのだが、そのうちの東光寺と白山神社信仰についてみてみよう。
 
 菊池氏の論考として上げられているものの中に
第七に近畿以東の別所の鎮守は決まって白山権現である。
第九に別所には多く慈覚大師建立の寺(薬師堂)がある。東国ではそれを東光寺と称えることが多い。云々
 とあり、柴田氏はこれ等の論考を肯定するという書き方で、読者としては柴田氏の説かなと思えば実は菊池氏の説として書かれているのでわかりにくい。
 上記近畿以東というのは近畿も含まれるのだが、内容を読んでいくと近畿は含まれないようで、東海以東と言うべきかなという気もする。Img_0296




長野県上田市別所温泉は2006年8月18日訪れた。別所神社はもと熊野社である。東光寺ではないが、常楽寺の北向観音堂は慈覚大師の開創といわれている。



 別所には東光寺と白山神社があるという風に盛んに出てくるのだが、それは主に東国であって近畿以西にはさして見当たらないのが実情では無いだろうか。現に丹波の別所を見ていてもそれらをまだ見つけられない。むしろ別所では無いところに見つけられたりする。P1020339
 

京丹波町井脇別所に祀られていたのは稲荷神社だった。京都縦貫道の工事中で、仮住まいされていた。(2012、7、31)


 このことは厳密に調査したわけでは無いのであまり大上段に言えることでは無いのだが、仮に別所と東光寺、白山神社が関連あるとしても、そのことと蝦夷俘囚の移配地と言うこととどう関連するのかを知りたいものである。つづく


【晴徨雨読】37日目(2006.9.6)志津温泉~新庄
 暑かった夏がすっかり終わり、強烈に寒い旅立ちとなった。月山登山という大きな目標を終えて、なんとなく無気力な走行をしてしまった。R347は走りやすい道だが、田んぼの中の一本道という感じで、目的を持たない走行には向かないコースだった。R13の天童、東根、村山、尾花沢の街々を通っていれば、どこか面白いところに泊まっていたかもしれない。今から思えばR347は魅力的に思うのだが、この日はただ走るだけの日だった。Img_0512

こういう感じの道で、走るだけなら最高の道。



【今日のじょん】:散歩行きがけに先日の猿出没地点に寄った。何事も無く念道橋まで行って帰ってくると、立ち止まって眼で合図する。面倒だなと思ったが、犬に引かれて善光寺参りとばかりに再度坂を登って行くと、いるわいるわ、猿の大群だ。
じょんと二人で行くと、大騒ぎで逃げて行く、それにしてもじょんの嗅覚というか猿感は素晴らしい。臭いなのか声なのかそれとも第六感なのか。
P1020629
猿ものは追わず、一瞬に逃げてしまった。

 

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じょんのびファーム夏情報 9/5

2012-09-06 | 違いのわからん農学士

2012.9.5(水)曇、雷雨

 連日のように夕立があって、暑い夏も終わりそうかなと思わせる。同時に秋冬野菜の準備もしないとという焦燥感におそわれる。素人の畑でもこれだから専業農家はつらいだろうなあと思う。時期ってえものがあるから、ちょいと先延ばしなんてできないわけだ。
 ちなみに昨年はジャガイモを8月24日に植えている。アセルナー。
 その前に今年度の反省をばしておこう。
 
トマト 
 今夏は日照りで成績の良いのはトマトぐらいだ。中果、小果を初めて作ったが味も収量も良好であった。

ナス
 水食いのナスはどこの家でも出来が悪かったようである。今夏は千両茄子と仙台長ナス、ヒスイナスを作ったが、ヒスイナスは日照りにも強かった。現在は秋ナスの処理をしているので楽しみ。

カボチャ
 中尾種苗で頂いた栗坊の苗一本で大豊作、十数個の収穫があり味も良好。ところがいつまでたってもなり続け、ネットに二個がぶら下がっていた。先日の猿の大襲来にも残っていたのが、不在にした日に姿が消えてしまった。猿が目当てにする栗もやられていないし不思議だなあと思っていたら、はぐれ猿が来ていたという近所情報が入った。なるほどそれで地になっていた一個が残っている理由が判明した。一匹の猿では二個しか持てなかったわけだ。
 猿対策が必要となると、今回のように伸びっぱなしでは無理で、選定してこぢんまりとしなくてはいけない。P1020466
P1020248
8月15日第一回収穫、蔓は畑を占領(7月22日)



ゴーヤとプッコチとオクラ
 ゴーヤは四年目の採種のせいか、連作のせいか実がすこぶる小さい。そのうえ皮や果肉が軟らかくてシャキシャキ感に乏しい。来年は種の更新をするとともに土の入れ替えをしてみよう。
 プッコチは昨年採種したものだが、発芽が悪くて一本だけが育った。大切に育てたら実が着かなかった。なんともやるせない。
 オクラも昨年採種したもの。分離したのだろうか硬くて食えない。来年は種を買うべし。P1020635 P1020250_2




実の着かないプッコチと大きくならないゴーヤ、極めつけは食えないオクラ。


キュウリ
 例年通りだが、妙に早く着果し、本格的な夏になる前に終わってしまった。現在2回目の苗が育っている。P1020117

7月7日時点でキュウリは最盛期。



UFOピーマン
 本来は観賞用とか、辛いのでプッコチの代わりになった。中尾種苗の苗で立派に育ってなることなること。
P1020632 
面白い形のUFOピーマン、隣はニラとタカノツメ



アンデスメロン
 やぐらネギをもらったので植えていたら妙な双葉が出てきた。雑草では無さそうなので育てていたら、マスクメロンが二個出来た。どうやらアンデスメロンかと思うが、収穫時期が解らない。毎日お尻を触ってみるが、カチンカチンで熟れてそうに無い。勝手にメロンなので余り期待しない方がいいのかな。来年はスイカ、メロンを真剣に作ってみるベか。P1020631_2



マスクも大きさもバッチリだが、、、。


 【晴徨雨読】36日目(2006.9.5)月山登山
 小説月山とは関係ないのに月山に登り、今後の旅行中登山のはしりとなった。牛首の稜線に出るあたりからもの凄いガスとなり、石塔や卒塔婆の間で風車が廻っている様はこの世のものとは思えない様相だった。9月の残雪もさることながららしい山登りではあった。Img_0500

頂上直下、ガスで何も見えない。




 今日のじょん:かみさんが大津に行くというので珍しく早起きをする。霧が上がりかかって幻想的な風景である。早起きはするもんだ。デケヘンケド。P1020627_2P1020628   

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雨読 丹後と古代製鉄 9/4

2012-09-04 | 雨読

2012.9.4(火)曇

 淡路市の五斗垣内遺跡(ごっさかいといせき)については以前に紹介したこともあるのだが、弥生時代の国内最大といえる鍛冶遺跡である。引地水車(ひきじりすいしゃ)のある淡路市長沢地区とともに是非行ってみたいところである。垣内遺跡は大規模ではあるが、製鉄の遺跡では無くあくまで鍛冶工房遺跡であるということだ。従ってその時代にはまだ国内では製鉄は行われていないというのが定説となっている。わたしが見たいのは本当は製鉄遺跡であって、大江山の北原遺跡など行ってみたいものだと考えている。そんな矢先に小滝先生のHPで弥栄町(現京丹後市)に遠所遺跡という大規模な製鉄、鍛冶遺跡があることを知った。考古ファンなど誰でも知っている遺跡なんだが、わたしの持っている古本の資料には新しく発見された遺跡など載っていないのだ。小滝先生に行ってみたいのですがと言ったら、「行っても、ああここがそうかというだけですよ」ということだった。確かにこういった遺跡は展示用に保存しない限り、ここに何があったとかいう看板だけで、なにも中身は解らないという結果になる。報告書や研究書を読んでから現地を訪れようと思っていたところに三和町の図書館でこの本を見つけた。

 丹後と古代製鉄 歴史シンポジウムの記録 弥栄町編 平成3年1月発行 府立図書館借本
P1020626
むらのかじやは一緒に借りた、三和町郷土資料館の企画展資料。


 といっても今から20年以上前に発掘調査が始まっているのだから、決して最近の発見ということではない。古いもので5世紀末から6世紀初頭の製鉄の跡があると言うから、本格的な製鉄としては日本最古といえるのだろう。
 わたしは製鉄そのものはもっと時代がさかのぼると思っている。ちょうど稲作の開始が弥生時代と言われていたのが段々遡って今や縄文時代となっているのと同じように6世紀から3世紀1世紀とさかのぼって来ると予想している。しかしそれは遠所遺跡のような大規模なもので無くて、極小規模な原始的な製鉄だと思うし、原料も砂鉄では無く鉱石では無いかと思う。
 それはさておき、遠所遺跡とは製鉄から鉄製品の完成まで全ての作業ができるコンビナートといえ、工人の住居や生活の跡、古墳まで揃った遺跡であるのが特徴である。これだけの組織、設備を構築できるのは相当の権力、財力を持ったものでなければなし得ないので、座長の門脇禎二氏の言われる丹後王国も視野に入ってくるのかも知れない。
 遠所遺跡で大きな話題になっているのが、原料の砂鉄の問題である。砂鉄が埋納されたある穴から8Kgの砂鉄が発見されたが、それと同様の原料が製鉄に使われていたということである。その砂鉄が非常にチタン分の高い、いわゆる赤目(あこめ)といわれるような砂鉄で、丹後の現地で採取されるものと違うということである。丹後はチタン分の少ない良質の砂鉄が産出されるという。出雲地方などで永代たたらとして本格的に製鉄がなされた際の砂鉄と同様のもので真砂(まさ)と呼ばれているものである。良質の砂鉄が近辺に存在するのに、他所からチタン分の高い砂鉄を取り寄せているというのが謎だということだ。
 サンプル採取の問題とか、穴に有ったのは廃棄されたものではとか色々な意見も出ているのだが、わたしは製鉄の技術的な問題であると思う。
 既に現場で須恵器も焼かれていたようで、高温で還元できる条件はできていたと思われるが、技術的にはチタン分の多い砂鉄を低温でじっくり還元する旧来の技術しか持ち合わせていなかったのでは無いだろうか。従って高温還元に適した良質の砂鉄が地元にあったとしても、他から技術に見合った原料を仕入れたのではないだろうか。
 遺跡の大部分が炭窯であったという。「砂鉄八里に炭三里」というとおり、原料の砂鉄よりも燃料の炭を確保する方が重要な要素であったことが解る。

【晴徨雨読】35日目(2006.9.4)鶴岡~志津温泉(月山の麓)
 東北の東北らしい旅のはじまりである。特に月山は小説のあこがれが強く、期待されるところなんだが、何しろ学生時代に一度読んだだけで舞台も何も解らなくて、ただ月山に登ってみようと言うだけのものだった。小説のはじまりの部分で落合でバスを降りることになっているが、そこを通ったときは妙に感激した。直前に小説を読んでいれば七五三掛(しめかけ)に行ったに違いない。Img_0492




見上げつ、見上げつつ進むのだが、どれが月山か解らない。

【作業日誌 9/4】
ジャガイモ植えつけ準備
カボチャ片付け

【今日のじょん】:嬉しい顔
涼しくなって朝散再開、今日も念道橋まで行ったら、すこぶる快調になっちゃって、ぽんぽこぽんもいつもよりヨケーにまわっております。P1020623

 
 

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猿の惑星化 9/3

2012-09-03 | 日記・エッセイ・コラム

2012.9.3(月)晴れ、曇

 実りの秋となってきた。稲刈りのコンバインの音が聞こえ始めた。栗や柿が実り始めて、本来はワクワクする季節なのだが、憂鬱な季節でもある。
 夜は鹿が鳴き始めたし、栗を求めて猿の襲来が激しい。
最初の襲来は一週間ほど前だろうか、はぐれ猿であった。はぐれ猿は単独で行動するため声を出さない。洗濯物を干している際に庭にでかい猿がいるのを見つける。集団の猿は庭に入ってくることは無かったが、こいつは豪気だ。大声を出しても早速逃げることも無い、慌てて庭に出るともう隣家の栗の木に登っていた。追うとわりかし簡単に逃げていって、現れることは無かった。
 次は集団である。3,4日前と思うがガサガサと木を揺する音がして、出て行くと隣家の栗の木に群がっている。
 この時は隣家の人がいて、鍋釜でカンカンと脅していたがすぐに帰られて、後は猿天国となっていた。
 そして今朝である。妙な鳴き声に飛び起きて見ると十数匹が栗の木に群がっている。人の姿を見るとギャーギャー鳴いて林の中に逃げ込んで行く。ところがボスとその取り巻き、いわゆる幹部連中は自らの威厳を示すためか逃げないでこちらを睨んでいる。普通人間どもはここでびびって追うのを止めてしまいがちだ。実はわたしも当初そうであった、追ったら逃げるだけのものと思っていた猿に逆に居直られると、恐怖を感じる。実際に丸腰の人間と勝負したら、猿の方が勝つかもしれない。P1020617
 
猿来襲現場、写真では猿は見えにくい。


 だからここでびびっては彼らに優位感を与えてしまう、あくまで人間は恐いものと思わせなくてはならない。

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YouTube: 小猿もおるでよ

 ここで米国の銃社会についてちと考えさせられる。銃があるために悲惨な事件があとを絶たずにあって、その賛否というのは分かれるところである。しかし銃によって引き起こされる事件は、銃自体の責任では無いはずだ。それを扱う人間の問題である。銃を肯定する人の言い分は、「歴史的にも銃で自らの生命を守ってきたし、現在でも自らの身は自分で守る」というもので、そのことに異論は無い。問題は余りにも簡単に、例えばスーパーでも銃が手に入ることであり、その使用者に対する教育、訓練、銃を扱う人間としての可否判断などが欠けていることだろう。
 さて我が身に戻ってみると、手に持っているのはおもちゃのパチンコのみである。この科学の進んだ時代に、十数匹の猿と渡り合うのにおもちゃのパチンコとはなんと情けないことか。銃とまでは言わないが少なくとも猿に手傷を負わせるぐらいの飛び道具を作れよなあと思う。縄文時代人だって槍ぐらいは持っていたし、マンモス倒すぐらいの戦闘能力はあったはずだ。
 とにかく午前中は追えば逃げる、また出てきて追えば逃げるで、そのうち栗は食い荒らされて無くなってしまった。上林が猿の惑星になるのは時間の問題だ。
P1020621 P1020622




強者どもが夢のあと、そして鈴なりの栗はすっかりやられてしまった。


【晴徨雨読】34日目(2006.9.3)鶴岡滞在
 佐渡も印象が良くなかったが、鶴岡も好きになれなかった。鶴岡は道がわかりにくいというのもあったが、店にせよ役所にせよ対応がよろしくないというのが原因のようだが、宿の手配やなんかがうまくいかないというのも理由であった。街のせいと云うより自分自身のせいかもしれない。
Img_0464




 庄内ではこの時期だだちゃ豆の最盛期、だだちゃとはお父ちゃんのこと。
 
 今日のじょん:猿騒動でえらく興奮するので、リード着けて猿追いに連れて行くのだが、リード付では猿も恐がっていない。本当は放したいのだが、かみさんが許さない。「離れて帰ってこなかったらどうするねん」というが、わたしは山の中まで追わないだろうし、追ったところで必ず帰ってくると思う。賢いんだから、、、。

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晴徨 多門院(3) 9/2

2012-09-02 | 晴徨

2012.9.2(日)曇

 胡麻峠への道も解ったので、胡麻というところもおそらくその辺だろうが、とにかく誰も歩いていないので聞くことが出来ない。地名由来の詮索は別稿に譲るとして、気になる箇所があったので紹介しよう。P1020585

看板のあるこの道が胡麻峠への道らしい。


   多門院と黒部の中間辺り、祖母谷川の右岸に石仏、石塔で出来た塔がある。無縁塔というのだが、どこかで見たような気がするのだが意識を持って見たのは初めてのような気もする。要するに近隣の無縁仏を一箇所に集めたものと理解して良いのだろうが、この地にこれだけの無縁仏が有るというのも不思議な気もする。つまり都市部なら人の移動が激しいのであり得ると思うのだが、この地でしかも昭和五年の塔の設立となると、この土地の過去の住人が無縁仏になっただけでは済まない数である。無縁塔の設立は、飢饉や災害で多くの人が一時に亡くなったりした場合になされている。この地で過去に何があったのか、それとも行き倒れの旅人などの霊を弔うものなのか解らない。P1020583
 




 次に興禅寺を訪ねる、天正元年以前の創立というから古刹である。臨済宗天竜寺派とあるから、元々は天台宗や真言宗の寺院だったと思う。なぜなら毘沙門天立像が平安時代とあるので、その時代に臨済宗は存在しないからである。また毘沙門天といえば多聞院という寺号が一般的なので、かつては多聞院だったのだろう。P1020594
P1020593
山門の脇を登って行くと毘沙門堂らしい。
なぜか柵がしてあった。


 その辺のところを聞きたくて訪ねてみたが、住職は不在だった。代わりに笑い顔の柴犬がいて、「何ともお寺らしい犬だなあ」と思いつつ後にする。
 帰りは西舞鶴から上杉、黒石峠を越えて帰ろうと思っていたが、夕立の様相となってきたので、元来た道を辿って帰ることにした。
 同じ道を帰るとは思っていなかったので、清水で採取した鉄滓や地金はバッグの中で菅坂峠を往き帰りすることになった。重た。おわりP1020613

鋳物滓と地金と思われる鉄板。厚さ4mm。



【晴徨雨読】33日目(2006.9.2)村上~鶴岡
 東北は通過したことはあるが、訪問したことは無かったのですごく感動した。村上市は村上トライアスロンで知っていたが、瀬波のスイムコース、笹川流れのバイクコース、村上市内のランコースというのは全体的に景色の素晴らしいトライアスロンだと思う。今年も9月16日に開催されるとか、参加選手は幸せだなあと思う。特に笹川流れの海岸線は、自転車旅行中でもベスト10に入る絶好のコースである。Img_0447 Img_0454





 今日のじょん:8月28日高浜町難波江海水浴場最終日。

YouTube: 行く夏じょん

 

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晴徨 多門院(2) 9/1

2012-09-01 | 晴徨

2012.9.1(土)曇、雨

 昼食を終え、祖母谷川に沿って登って行く、右岸に地蔵さまや神社などが続いている。道が左岸に移り、若狭道の三国岳トンネルが近づいた頃右上に「蛇切岩伝説」の看板がある。蛇切岩伝説とは黒部と与保呂にまたがるいわゆる蛇伝説だが、この看板の地図に翻弄されることになる。P1020574_3
 
蛇切岩伝説の立て看板。


 とりあえず最奥まで行って見るべく登ってみる。トンネルがすぐそばに見えるところまで登る。道は若狭道をくぐって、祖母谷川の源流に続いているが、黒部川に向かう坪峠(黒部峠)に向かう道は手前の沢を詰めるようだ。しかし防獣柵に囲われていて、峠道らしきものも見当たらない。若狭道の手前にしっかりした道があり、これが峠に向かう道なのか単なる作業道なのか解らない。
P1020576 P1020579

黒部の最奥、若狭道はすぐそばにある。
手前に山道があるのだが、果たして峠への道だろうか。


 胡麻峠から下りてくる道の周辺が小字胡麻であろうと思い探しに行く。先程の地図からみると、胡麻峠取り付きは随分下になる。どんどん下って行き、出会った人に道を訪ねる。
「胡麻というところを探しているのですが」
「そんなところは無い」
「多分山の小字なんでしょうねえ、胡麻峠に行く道ぶちにあると思うんですが」
「それならあの道やけど、えらいで」
「行けるとこまでいってみますわ」

というような会話をして、言われた道を登って行く。高速のガードをくぐり、封鎖されているフェンスを開け進む。この辺で地図を広げてびっくり、看板の地図だとこのあたりなんだが、国土地理院の地図だと随分下になる。多門院のお寺の対岸にあるはっきりした道を辿っており、このままだと舞鶴PAの下に続いている。これは違うと気づき元の道に戻る。地元の年配の方にも解らなくなるほど、胡麻峠への道が現在いかに使われていないかと言うことだ。
 今度は地図を見比べながら、祖母谷沿いの道を登って行く。舞鶴PAの建物も見え地形も確かめながら、胡麻峠取り付きを探すが、どう考えても先程の看板のある道となってしまうのだ。しかしこの地図の示す現在地は全然違う。
 これは後ほど解ったことだが、この地図は伝説を説明するためのもので道案内、地理案内としてはすこぶる不親切なものである。一般に地図が載っていれば、それはその地域の地理を示すものだという概念がある。少なくともこの地図はこの地をよく知っている人、伝説の地理的状況を知っている人にしか理解できない。案内看板としては非常に不適切なものである。
 そんなわけで随分彷徨したが、この地を知るということでは意味があった。つづく

【晴徨雨読】32日目(2006.9.1)新発田市~村上市
 この日の最大の出来事はゆうちょカードが期限切れで現金を引き出すことが出来なかったことである。内容はブログバックナンバーを読んで頂ければ良いのだが
考えてみればクレジットカードと共用になっていたことがいけなかった。貯金のカードなら有効期限なんてないからだ。
 日常生活では何でも無いことが旅先だと大問題になるのである。
Img_0445
電信為替で現金を送ってもらって、瀬波温泉に泊まる。
ここは夕日百選の地で、本当に素晴らしい夕日に出合った。



 今日のじょん:先日の「えーこえ」がアップロードできたぞ。どうもYouTubeにアップロードしてから時間がかかるようだ。とくとご覧あれ。



YouTube: えーこえ

 

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