主治医の説明のあったとおり、日一日、病状は悪化していた。
ここ数日、仕事をしながらも嫌な予感は終始消えなかった。
21日、仕事を終え足早に病院へ走る。
もはや下顎呼吸に似た呼吸をしている。
「おい」と少し大きな声を掛けると、元の呼吸に戻る。
しかし再び下顎呼吸へ。
何度か繰り返した後、看護師を呼びに行く。
「ちょっと様子が変なので…。」
いったん帰宅した父と息子たち、嫁、妹を呼び寄せる。
ベッドサイドモニターが傍に置かれ、心拍数、SPO2、呼吸数を表示する。
そして吸引が施された。
その後は、安定した呼吸が続くが、もう呼び掛けに目を開けることはなくなった。
念のため、今夜は父と自分が泊まることにした。
母の寝息や横顔を見つめながら、病室に置いてもらったソファーに横になる。
うとうとしたかと思えば、はっとして、母が息をしているかを確かめた。
モニターに表示された心拍数、SPO2、呼吸数は次第に減少し黄色から赤色の表示に変わっていった。
看護師から「朝までもたないかもしれません」と。
3時過ぎ、吸引の後に容態が急変し、モニターの数値が小さくなった。
だが、自分の大きな呼び掛けに再び息を吹き返してくれた。
残された体力を振り絞って精一杯頑張っている。
呼吸は徐々に弱くなっていく。
4時35分、看護師が立ち合い、父が見つめる中、最後の小さな小さな呼吸が終わった。
母から明らかに生気が消え、死者の顔に変わった。
4時38分、医師の死亡判断。
奇しくも当直医は、長年、パーキンソン病の治療でお世話になっていた担当医だった。
父が母の額を撫でながら「きつかったな」と声を掛けた。
長年、病と闘い頑張った母に「眠かとやろ、もう、ゆっくり寝ろや」と言った。
合掌
臨終の日を記録にとどめることが、母の供養になるかと思った。だから…。
写真は通夜・葬儀・初七日が終わり、早朝に天草エアラインで帰る子供たち。
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19日
SWIM:50分 1,500mスローUP バタフライ25m×15
20日
SWIM:60分 1,000mビルドアップ バタフライ25m×15
尿が殆ど出ない。 目を閉じてるときが多くなった。 尿が出なくなると数日だと…。