hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

白山・西片の坂(2)

2016-09-20 05:00:23 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その77。白山・西片周辺の坂の続き。中坂を下まで降りて先に行くとまた同じように本郷台地に上るきつい坂道があるが、これが『胸突坂』。


実は坂の多い文京区には他に本郷と目白台にも胸突坂がある。坂を上ったところには誠之小学校があるが、これは江戸時代の福山藩中屋敷跡で『誠之館』と名付けられた江戸の藩校があった場所なのである。

また、坂の下の崖沿いの道を歩く。細い道は右に曲がる道があまりないが、これが全て坂になっており、次の見通しの悪い角にあるのが『曙坂』という石段の坂道。


実は明治初期に街ができ、鶏が暁のころ鳴き声をあげるので曙町としたが、この名前を取って『曙坂』とした。石段になったのは周辺の住民の協力を得て昭和22年に上りやすい石段となったものである。



坂の下のうねった道を歩くと少し広い道に出る。その先には何とも懐かしい風呂屋さんがある。汗だくのため、ひと風呂浴びたくなる富士見湯である。


これを左に行くと西片に入るが、左に曲がりながら上る坂がでてくる。この坂が『新坂』でS字になっているが、江戸時代福山藩主阿部家の屋敷に上る坂として新たに作られたのでこの名前となった。別名、福山坂ともいう。この坂の上には夏目漱石など文化人や学者が多く住んだため、学者町とも呼ばれた。



新坂の頂上を右に曲がり、まっすぐ行くと今度も曲がりながら下る坂があるが、これが『石坂』。名前の由来はよくわからないが、長い坂で下りだから良かったが、上りだとたまらん坂である。

夏も終わりかと久々に坂巡りをしたが、天気に恵まれすぎて、汗だくに。石坂を降りて右に少し行くと中山道に出るが、目の前に都営三田線の春日駅。これだけ歩いてわずか1駅であった。実は中山道を挟んで反対側にも坂はまだあるが、これを回るのは次回としたい。

山田うどん

2016-09-19 05:00:25 | グルメ

埼玉県を中心に東京もカントリーサイドに行くと数多いヤジロベエがトレードマークのうどん屋と言えば『山田うどん』である。あのヤジロベエはカカシなのか、とか、『山田の中の一本足のカカシ』からこのキャラになったのか、とか詳しいことはあまり知らないが、リーズナブルで腹が一杯になるうどん屋、というか定食屋である。

今回は青梅街道沿いの青梅新町店に入る。実は山田うどんは好きなのだが、中々タイミング良く入ったことはなく、混んで諦めたこともあるほどである。今日は12時5分前に入店できてよかった。

店はそれほど広くなく、U字カウンター2つと小上がりのテーブルが左右に3つずつ計6コ。すでに子供連れと工事関係者のグループが占領している。
店員はベテランのおばさんばかり。小生は人気トップの『かき揚げ丼』(400円)をお願いするが、わざわざセットでなく単品と言わないとそばとのセットが出てきそうな勢い。

少し待つとおばさんが丼とお汁の乗ったお盆を持ってきてくれる。丼はかき揚げで覆われていて富士そばなんかと違うのは卵でとじてあること。そのため、丼ツユがよく染みたところとカリッとしたところ、さらに卵がよくまぶされたところと複雑に分かれている。

汁はワカメとネギが入ったシンプルな塩味だが、やや甘めの丼ツユにはよく合う。おばさんが前のツボには柴漬けが入っているのでご自由にと勧めてくれる。中には大ぶりのキュウリやナスが入っており、これを3切れくらい取って箸休めにする。洗練はされていないが何処か懐かしい味である。

今日は丼を食べたが、もちろん看板メニューはうどん、カレーも結構美味いし、ラーメンも頼む人が多い。休みは小さな子供を含む家族連れがたくさんいて、大きなチェーンではないが、御釜が看板の博多の『巻のうどん』みたいに安心して行ける店なのかもしれない。もちろん、競馬新聞を真剣に見ながらビールを呑んでいるおっさんもいるけれど。

山田うどん青梅新町店
青梅市新町7ー6ー1


青梅鉄道公園

2016-09-18 05:00:03 | 日記

『鉄道シリーズ』その153。青梅鉄道公園を久しぶりに訪問する。鉄道90周年記念事業として1962年に作られた鉄道公園で当初は露天に蒸気機関車11両などが展示された。小生も小学1年のころ(1965年頃)に初めて行ったため、青梅というと真っ先に思い出す施設である。その後、娘を連れて来て以来だから15年ぶりほどになる。



今は100円の入園料を支払って中に入る。展示してあるのは明治5年に新橋〜横浜間を走っていた110号機関車を始め、2221(2210型)や5541(5500型)といった明治の蒸気機関車。


さらに9600型、8620型などの大正生まれの蒸気機関車、C11ー1(代表的なタンク型蒸気機関車)やD51ー452(代表的なテンダー型蒸気機関車)など名機が目白押し。

さらに戦後最後に新規に製造された蒸気機関車で、日本の蒸気機関車では唯一5個の動輪をもつE10ー2。急坂に耐えうるパワーを期待され、板山峠越えや大畑ループなどを走った5両しか製造されなかった珍しい蒸気機関車もある。


他にもED16型、これは当時の代表的電気機関車、さらにクモハ40054(40型)も展示されている。クモハ40054は青梅線を走ったこともあり、行き先表示が青梅になっているが、これはモーターも運転台も一台で備えているので単行で走っていた。

だが、子供に人気があるのは0系新幹線、これらの何れもが運転席に座ることができる。今は露天ではなく、屋根も付けられいつまでもこの機関車や電車を楽しめるようになったのは嬉しいことである。



もちろんおじさんが1人で来て写真を撮りまくっているのは小生だけ。ほとんどは男の子を連れた家族連れ。しかし、大人も十分楽しめる施設で屋内には模型や小規模ながらジオラマもある。ただ、かなりきつい坂の上にあるので車で行かれることを推奨したい。

酒味処きの字〜大塚グルメ

2016-09-17 05:00:38 | グルメ

久しぶりに大塚の居酒屋に行く。大塚と言っても丸ノ内線新大塚駅から2分のところにある『きの字』というお店。予めの情報では(1)酒の種類が多い、(2)つまみ、特に日替わりのポテサラが絶品とのこと。

店は半地下にあるが、入口には白い暖簾と杉玉、中々期待させる雰囲気である。なぜか、サッシの横開きのドアを開けると中には魚の骨が干してあり、さらに酒蔵の前掛けが並んでいる。



まずは生ビールで乾杯、お通しは『ミニ人参と味噌、魚の南蛮漬、煮豆腐、自家製そぼろ』が少しずつ。煮豆腐は山椒が効いている。

すぐに日本酒とメニューを見てビックリ。知らない酒が多い上にA42枚に小さな字でびっしりと並んでいる。中々決まらないので最初は『而今』(三重県)純米吟醸、酒米は千本錦を注文。まずはぐい飲みから決めるがこれも種類が多いが、やはり目玉の猪口にする。

酒はすぐに登場するところが嬉しいが、まず一口、なぜか安心する。つまみは『日替わりのポテサラ』『金アジのなめろう』『坊ちゃんかぼちゃの肉詰め』『秋刀魚の塩焼き』『揚げたて厚揚げ』をお願いする。

最初に『ポテサラ』、今日はピーマンと塩昆布のポテサラ。ピーマンの食感と塩昆布の塩がよく効いて酒のつまみ用ポテサラである。


次いで『かぼちゃ』も甘み控えめで自然の甘みと薄味の出汁の効いた挽肉が美味い。『厚揚げ』もかりっとふあが混在していい感じ。やはり自家製厚揚げは大塚の『ぐい飲み大』同様絶品である。
酒は3人で呑んだこともあり、色々とチャレンジ。2本目(1合徳利)は『8号酵母』(山口県岩国市)の酒。これは常温だが、これぞ酒という懐かしい風味、燗にすると良さげである。

次は『山の壽』(福岡県)のニゴリストだが、オリンピックの年のみの日の丸ラベル。キレが良く、あまり甘さが前に来ない爽やかな味。まだ暑いだけに嬉しい味。

ニゴリついでに『萩の露』(滋賀県)もお願いする。



つまみが全て出てきたので次は『ごぼう唐揚げ』『ナスのみぞれ煮』『三元豚の西京漬』を追加注文。酒は『summer time blues』(福島県喜多方市)という限定400本の夏酒、少し度数が低く、ぐいぐい行けるが、実はあれから5年目の夏をコンセプトに反原発のメッセージを込めた酒とのこと。ラベルがカッコイイ。


さらに『不老泉』(滋賀県高島市)『スッペッタ コッペッタ』(福島県喜多方市)ともう片っ端から呑んでしまう。


何れも特徴があり、美味かったはずだが、正直あまり覚えていない。

最後に『丸干しイワシ』『ご飯もの』を食べてお開き。いや、若い人出て呑むとつい行き過ぎてしまうが、いい酒、いいつまみ、いい相手と呑むと悪酔いはしない。楽しい秋の宴であった。

酒味処 きの字
豊島区南大塚2ー11ー12
0339468898

二俣尾駅・石神前駅

2016-09-16 05:00:22 | 日記

『鉄道シリーズ』その152。軍畑駅の後、隣の二俣尾駅まで車を走らせる。この駅は青梅街道沿いにあり、行きやすい。駅前には車を駐めるところはないが、通行量も少なく、駅前に駐めて橋上にある駅舎に向かう。

実はかなり前だが、この駅を訪れた際にはまだ民間委託駅で駅員さんがいた。そして無人駅になったのは2003年、それでも掃除は行き届いており、線路の雑草が気になる程度。


ホームに降りて反対側を見るとかつて荷物扱いをしていたであろうホームの残骸と錆びた線路が残されていた。

車に戻り、隣の石神前駅に向かう。なんとも変な名前だが、1928年に開業した際には『楽々園停留所』であった。楽々園とは国有化前の青梅電鉄がサイドビジネスとして行っていた遊園地のことで、その後廃業。国有化の際に『三田村』と改称されたが、再度駅近くにある『石神社』の名前から駅名が石神前になったとのこと。

この駅は分かりにくい上に行きにくい。駅近くまでは行くが、カーナビの指示どおり行くと急に道が狭くなり、立ち往生。そばにいた親切なおじさんに先に行けるか聞くと、何とかなるとは思うがこする人も後を絶たないと頼りない意見。この人が大変親切な方ですぐ前の自分の家の敷地で転回してもいいと言って下さる。こちらも運転に自信がなく、言葉に甘えさせてもらい、後ろや横を見てもらいながら無事に方向転換する。

おじさんから、なぜ石神前駅にきたのかを聞かれたので『楽々園』の話をするとよく知っているなと感心される。そして、この駅前には昔お猿を入れた檻があったこと、駅横から青梅街道に向かうとその先にあるブリジストン奥多摩園が昔の楽々園の跡であることなど当時の話を色々としてくれた。

駅前は綺麗な花壇が整備されているが、その後おかげか極めて道が狭く、こんなに行きにくい駅が都内にあるなんて思いもよらない。まあ、当たり前だが電車で行けば問題ないのだがね。


そして、青梅街道に戻り、奥多摩園の入口まで行く。下り坂の下には奥多摩園があるようだが、さすがに玄関で失礼した。

東寺(教王護国寺)

2016-09-15 05:00:42 | 日記

滋賀・京都・奈良と歩いた古寺巡礼の旅の締めくくりは東寺(教王護国寺)である。今回の旅行は墓参りもしたが、寺巡りだけでも湖東三山、千本観音堂、即成院、當麻寺、白毫寺、興福寺、円成寺、浄瑠璃寺、宇治平等院の11の寺院にお参りし、東寺で12寺目である。

東寺は京都駅南部、近鉄で一つ目と京都駅〜戻る際には至便な位置にある。元は弘法大師が中国から密教を持ち帰り、その布教の中心としてしつらえた官制寺院である。しかし、小生がいつも訪れるのは寺の格が高いからでも、京都駅から便利な位置にあるからでもなく、講堂にある立体曼荼羅を目に焼き付けたいその一心で訪れる、いわば小生が大好きな寺と仏像がある寺院なのである。
今回は宇治方面から高速道路を利用して着いたわけだが、気温が37℃ととても歩いて回りたくないほどの気候。しかし、東寺には立派な駐車場が境内にあり、そこに駐めてわずかな距離を歩き、参拝することが叶った。

雲ひとつない中でまずは立体曼荼羅がある講堂に入る。とにかくこの中には曼荼羅図が仏像で並べてある豪華版。やや中は薄暗いがその中に大日如来を中心に入口近くが菩薩部(五大菩薩)、中心が如来部(五智如来)、奥が明王部(五大明王)分かれている。さらに菩薩の前には多聞天・持国天・梵天の3体。また、明王の後ろには帝釈天・広目天・増長天の3体の天が配置されている。

その目鼻立ちの素晴らしさから帝釈天が人気があるが、小生は梵天の方が良いと思う。これだけで国宝が15体、重文が6体の21体がある。

次いで金堂に入るがこちらには桃山時代の仏師康正作である薬師三尊像(薬師如来、日光菩薩、月光菩薩)が祀られている。さらに薬師如来の台座には如来を守る十二神将が配されている。この建物も豊臣秀頼が建てたものでその造りも素晴らしい。

さらに東寺といえば五重塔。今の塔は5代目で1644年に徳川家光が再建したものだが、小生は毎年京都に帰る際にこの塔を見ると京都に着いたことを実感した。
これだけのありがたい仏像をゆっくりと観ることができた旅行の最後を締める素晴らしい東寺である。まだまだ、行きたい寺社は幾らもあるが、また仏像との再会を楽しみに新幹線に乗った。

入船橋と旧築地川

2016-09-14 05:00:55 | 日記

『ぶらっと橋めぐり』その3。江戸時代、町には堀が張り巡らされていたが、今はそれが埋め立てられ、川(堀)そのものが無くなったが、立派な橋が残されているケースは多い。今回取り上げる入船橋もその一つで新大橋通りが上を通っている。しかし、下を流れていた築地川はすでに埋め立てられ、入船橋より下流は高速道路、上流は公園と化している。


入船橋を渡り、左に曲がるとその下に築地川公園がある。このあたりはバスケットリングなどがある広場になっている。


その周りをしばらく歩くと駐車場、さらに驚くことにデイキャンプ場もある。


裏手にある聖路加国際病院の古い建物を見ながら先に行くとその先には赤と白のサルスベリが満開、その先には古いコンクリートの塊があるが、よく見ると橋の跡(暁橋)があった。


細長い公園(川の跡)を歩くと少し段差があるが、よく見ると今度は備前橋と書かれている。公園には柳が植えられており、喫煙所にはおっさんが多数、とても川の名残などない。


横断歩道を渡るとその先は川の右半分が駐車場になっており、歩行者は左側の細い歩道を歩く羽目に。そのまま行くと中央通りに出る。


中央通りはかつて門跡橋であったのだが、今は全く分からない。しかし、少し探すとその遺構がすぐ近くにある。


親柱は半分は埋まっており、横には『昭和三年 六月復興局建』と書かれたプレートが。多分、関東大震災の後、橋を建て替えた際に作られたものであろう。すぐ横には築地本願寺の建物があり、すぐ先には築地市場。ここまで歩いて今回は終了。

橋めぐりなのに川は見ることがなかった今回の散歩。ただ、橋は存在意義が無くなってもその遺構は至る所にあるもののようである。

軍畑駅

2016-09-13 05:00:54 | 日記

『鉄道シリーズ』その151。青梅線の無人駅をいくつか訪ねてみる。まずそもそもJR青梅線のプロフィールから。開業は1894年に私鉄の青梅鉄道が立川〜青梅を開業、その後1898年に青梅〜日向和田、1920年に日向和田〜二俣尾、その後1923年に電化、1929年に二俣尾〜御嶽と延伸。戦時の政策で1944年に国有化、また、御嶽〜氷川(現在、奥多摩)が開通、37.2kmの現在の形となった。

実は青梅以遠は無人駅が多く、有人駅は御嶽、古里(簡易委託駅)、鳩ノ巣(簡易委託駅)、奥多摩の4駅のみである。このうち、軍畑、二俣尾、石神前の3駅を訪問した。

まずは軍畑駅、青梅街道を行くと左側に軍畑大橋がみえる軍畑駅入口の信号をV字に右折する。そしてすぐに左折するのだが、厳しい登り坂となる。それを100m登りきったところが駅である。駅舎は2003年に改築されており、新しい。

駅前には店があるが、今日は休み。プラットホームの反対側は崖で木が隙間なく生えている。自販機はあるが、電車を待つ人はハイカー1人だけ。ちょうど入線してきた下り奥多摩行きからは学生など5人が下車、坂道を転げるように降りていく。



小生も坂を降りて信号を渡り、多摩川に架けられた軍畑大橋にいく。川面が太陽に照らされてキラキラひかり、とても東京とは思えない風景。ただ、この駅を使い通勤するのは最後の坂道がかなり辛そうである。



塩船観音寺

2016-09-12 05:00:59 | 日記

『古刹を巡る』その40。夏の旅行でかなりの古刹を回ったが、たまには東京のお寺もと少し足を伸ばし、青梅市にある塩船観音寺にお参りに行く。

このお寺には東京都とはいえ我が家から車で1時間以上かかる。青梅街道をひたすら走り、東青梅駅から約車で15分。鄙びた場所にある静かな古刹で伝説によると7世紀に八百比丘尼が千手観音像を安置したのが始まりと言われる。



駐車場に車を駐めて歩くとすぐに国の重文指定されている仁王門、茅葺きの門から入る。すぐに左右に白とピンクの萩が満開でその先には彼岸花が赤い花を咲かせていて美しい。

すぐに阿弥陀堂があり、中には阿弥陀仏が祀られている。阿弥陀堂も室町時代のもので重文指定されている。


その先には薬師堂、薬師如来像が祀られているが、ちょうど午前中に薬師大祭が行われ、善男善女に生姜が振舞われたとのこと。

小生もまだたくさんあるとのことで、有り難くそのおこぼれで生姜を頂いた。なぜ生姜なのかを聞いたが、ちょうど季節が生姜だからとのことであった。



さらに階段を上るとこれも茅葺きの本堂がある。中には秘仏の千手観音像が安置されているが、御前立ちにお参りする。大祭の後の割には人が少ないが、寺の人に聞くとやはり名物のツツジの時期は大変な人出とか。本堂の横には鐘楼があり、時代物の鐘が掛かっている。


さらにここから広がり、奥には護摩堂弘誓閣、これは新しいが立派なお堂があり、周りには一面にツツジが植えられ、さらに今はサルスベリのピンクの花が満開である。

下つては12の坊舎を構えるなどかなり繁栄したことがうかがえる立派なお寺で親のこと、娘のことなど自身以外に祈らなければならないこと満載であったが、ゆっくりお参りをすることができた。


一石橋

2016-09-11 05:00:08 | 日記

『ぶらっと橋めぐり』その2。第1回の日本橋より上流、同じ日本橋川に架けられたと一石橋(いっこくばし)を渡ってみたい。


一石橋は日本橋からみて2つ上流の橋(間に西河岸橋)で、日銀本店からすぐ、また、上を外堀通りが通る橋である。まずはその名前のつけ方が粋なものである。江戸時代にこの橋が壊れた際に北詰の両替商の後藤庄三郎と南詰の呉服商である後藤縫殿助の2人が資金を折半で出して再建されたのであるが、金を出したのが両方『後藤』姓であったことから江戸っ子は『五斗』に掛け、五斗+五斗=一石、そこで『一石橋』と名付けたと言われている。



首都高速の呉服橋ランプがそばにあるが、1963年にこの建設にあたり、親柱を撤去したため、昔から残る親柱は2本のみでこれが区の有形文化財に指定されている。


また、一石橋には『満よひ子の志るべ』と書かれた石の柱がある。これは『迷い子の知るべ』つまり、迷子などが発生した場合に知らせる伝言板のようなもので1857年に作られた。石の左側には『たづね方』、右側に『志らする方』とあるが、左側の方に迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、これに心当たりのある者は右側にその旨を書いた紙を貼るシステム。つまり迷子探しの情報サイトのようなものであり、当時は湯島天神や浅草寺などにもあったが、現存するのはここだけである。戦後すぐには上野の西郷隆盛像に同様のことを行なっていたのだから、有効な手立てであったのだろう。

因みに今の橋は改修はされているが、1922年にかけられたものである。関東大震災前のRCアーチ橋としては都内最古であり、貴重な産業遺産と言えよう。

今まで坂道を歩きながら江戸に思いを馳せてきたが、橋にも同じような側面があることに気づかせてくれた。