草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

一瞬たりとも放射線管理地域の福島県人を忘れないで欲しい!

2012年05月03日 | 災害

 経済産業省前のテント村は今もあるようだが、そこにいる人たちに訴えたいのは、福島県の放射線管理地域から人々を避難させるように、声を上げて欲しいということだ。脱原発も結構だが、今もなおそこに住み続けている人がいることを、一瞬たりとも忘れてはならないのである。私の会津若松市に住む友人が、一昨日、福島市に出かけてきた。矢野目小学校近くのイオンでも、1時間あたり1・4マイクロシーベルト、高いとことでは3・95マイクロシーベルトもあった。これには友人も、度肝を抜かれたという。さらに、観光スポットにもなっている花見山では、1時間あたり0・9から1・2マイクロシーベルトもあった。地べたの高いところは、2・4マイクロシーベルトもあり、身震いしてしまったのだった。花見山では、公式にも0・86マイクロシーベルトとの数字が公表されており、友人の線量計と、それほど差がなかった。国が法律的に示しているのは、年間1ミリシーベルトを超えないということだ。そうであれば、1時間あたりは0・11マイクロシーベルト以上は許されないのである。花見山で友人は、そこで働いている人にも話を聞いたが、それによると「調べたくない」「言いたくない」「聞かれたくない」のだそうだ。話題がそこに集まらないようにしているのだとか。会津も低線量被曝の地域ではある。しかし、福島市ほどではない。私は一刻の猶予もならないと思う。脱原発を言うのであれば、まず目を向けるべきは福島市ではないか。

 
政治 ブログランキングへ  

              ←福島は今なお深刻だと思う方はクリックを

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ
にほんブログ村

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪維新の会への期待は旧体制打破であり革命ではないか!

2012年05月03日 | 政局

 橋下徹が大阪維新の会を立ち上げてから、維新という言葉が流行語になっているが、そもそもの意味を知っている人は、ほんの一握りではなかろうか。三谷博の『明治維新を考える』では、その言葉の解明から始めている。幕末期にあっては、「一新」が頻繁に用いられており、それが頻用されるようになったのは、明治2年くらいからだという。そして、三谷は維新の出典が『詩経』の「周は旧邦なりと雖(いえど)も、天命維(こ)れ新たなり」であることを指摘している。周は古い国ではあるが、天命を受けて、世界全体を統(す)べるようになったというのだ。それは中華世界にあっては、王朝交代であり、革命であった。維新と革命を同義語として扱っているのだ。今の大阪維新の会の動きなどを見ていると、まさしく革命でもやりかねない勢いだ。しかし、少しばかり気になってならないのは、昭和維新の青年将校のときもそうであったが、旧体制を破壊をすれば、自ずと世の中は良くなるといった、オプティミズムが付きまとうことだ。そうした楽観的な見方を前提にして、橋本などは、矢継ぎ早に大胆な問題提起をするのだろう。かつて一世を風靡した、変革の原理としてのマルクス主義が退潮し、日本人の多くが、海の物とも山の物ともつかぬ大阪維新の会に期待している。どのような形であろうとも、日本人は心底革命を望んでいるのではなかろうか。それが暴走だとしても。

 
政治 ブログランキングへ  

               ←政治が大きな曲がり角に来ていると思う方はクイックを

にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ
にほんブログ村  

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする