大東亜戦争の敗戦以来、日本は国家であることを否定された。GHQの押し付けでしかない日本国憲法によって、自らを守ることすらも制限され、腑抜けと化してしまった。そして、大東亜戦争が世界の民族独立運動の引き金になったことまで、歴史の記述から抹消された。5月3日の憲法記念日とは、私たち日本人にとっては、屈辱の記念日でしかない。しかし、それでも、昭和の御世までは、天皇陛下を前に「テンノオー、ヘイカッ、バンザアーイッ!」と一人が叫ぶと、その声にあわせて、万歳を三唱する国民がいた。誰からも共生されることなく、そこで連帯感を確認したのである。石原慎太郎も、昭和43年に行われた、明治百年の行事に出席してそのような場面に遭遇し、自分が日本人であることに思いいたった。「マックス・ウェーバーがいうように政治家が政治家たり得る最大の要件が情熱とするなら、その情熱を醸し出す始原的な土壌について、私はあの時あの場で突然感知させられたともいえる」(『国家なる幻影・わが政治への反回想』)と書いている。石原は政治から足を洗うつもりで、その一文をしたためたために、小説家らしく、ミステリアスな「始原的な土壌」を問題にしたのだった。石原ばかりでなく、私たち保守民族派にとっても、それかあるかどうかが問われるのだ。今の日本の政治が右往左往しているのは、そうした一体感が失われつつあるからだ。外圧に抗するためにも、石原が主張するごとく、身構えるべき国家を再構築すべきだろう。そこにミステリアスなものが介在したとしても。
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