武州岩槻の城主、太田美濃守入道三楽は、北條氏康が病に罹ったと聞き、これぞ良き機会であると関東諸将に語り掛けて、上杉憲政を大将として、軍勢は相州酒匂まで攻め寄せる
同じく房州里見の城主、正木大膳亮は北條幕下の千葉新介がl籠る佐倉の城を攻める
正木左近進は里見の老臣、坂倉大隅と共に、相州金沢の城を乗っ取り、そのほか忍の成田下総、河越の城にも越後勢、上野勢が攻め寄せて昼夜かまわず攻め立てればたまらず、諸城から小田原へ援軍の要請がひっきりなしにやって来た。
北條父子はいかにしたものかと思えども、病の上敵は大軍で各所を同時に攻めるので、いかんともしがたく出陣をためらった
そこで氏康は一案を謀る、我は病重く、敵は各所に攻め寄せ、我らもまた勢を分けて救援に行けば、本城が手薄となる
故に甲州の武田信玄を頼み、越後に向けて兵を出してもらえば、謙信上洛で留守の越後勢は急ぎ関東より越後に戻るは必定なりと
ただちに一宮隋巴を使者として甲府に使わせた
しかし信玄はかねてより謙信の留守の間は越後と戦をせぬ誓いを立てているので、氏康のたのみなれども、謙信との義をかくことを恐れて、これを断った
だが氏康は危機の危機であれば、二度三度と重ねて懇願の使者を走らせた
信玄の心は揺れるが、馬場、飫冨、日向、山本、原の諸将は「いかに氏康が乞うとも決して承諾なさりませぬように、謙信との約束を破れば怨恨はますます深くなり、天下にも不義の名が広まるでしょう、後日の大志の妨げともなりましょう」と言えば、信玄もこれに賛同して北條の使者を送り返す。
だが必死の氏康はそれでも諦めず、またしても使者をおくれば、さすがに信玄も根負けして、ついに氏康の願いを聞き入れて、武藤甚右ヱ門尉をまず海津の城に送る
これにて高坂弾正忠昌信が陣触れを行い、三月十七日甲州を討ち立つ
川中島に着陣して、これより高坂をもって、越後の太田切まで進出させた
信玄は鰐が岳城を巡検して引き返そうとしたところへ。鰐が岳の守兵が「憎きは信玄なり」と城を討ち出て、背後から攻めかかれば両軍混戦となり双方ともに多数の死者を出す
こうなると甲州勢は兵を引くことが出来ず、鰐が岳の城に押しかかる
これを聞いて関東に出張した越後勢は急ぎ越後へ引き上げた
氏康はこれを知って大いに喜び、使者を信州に送って武田家の労苦に感謝した。