永禄三年二月、上杉謙信が相州小田原へ攻め込むとの噂を聞いた北條氏康は、ただちに甲州へ早馬を出し、武田信玄に援軍を請うた
信玄は是を承諾して、初鹿源五郎、青沼助兵衛の足軽大将二名を遣わせた
これは信玄に思惑あっての派遣軍であった、青沼は代官の勘定奉行であるから、北條家の富貴を見積もることを第一の使命とする、初鹿は今年二十七歳であるが、十六歳の初陣より数度の誉を成した勇者であるから、北條の陣立て、士大将から小身の士までの忠不忠、剛弱まで見極めてくるよう命じた。
同月十八日、信玄は上信の境、碓氷峠の手前、軽井沢に着陣した
ここに関八州の諸大将は上杉憲政の愚昧を憎んで北條に組して越後に追い出したが、北條氏康の勝手気ままな賞罰に「この人、難しきかな」と一同に見限って、新たなる関東管領、上杉謙信に随身した
謙信は関八州の諸軍合わせて十一万三千人の大軍を率いて相州に押し寄せ、大磯小磯、藤沢、田村、原木辺まで味方の陣を敷き、居並ぶ軍旗はためき、北條家を一時に攻め滅ぼさんと議する
その武威の盛んなるを見て、北條の諸大将は頭を抱えて恐怖する、武田家の諸大将もまた上杉の軍威に驚きいかにせんと各々評定に及ぶ
軽井沢の飫冨兵部少輔が進み出て、「此度謙信が北條を滅ぼすのは必然なり、氏康が滅んだ後は駿州の今川殿と当家を滅ぼさんと攻め寄せるも必定なり
小田原がまだ堅固なるうちに碓井を引き取り、三増峠より花水川に出て関東勢を差し置いて、謙信と十死一生の合戦を挑み賜え
我は、この十四年謙信と戦い、その働きを見るに、生得勇猛にして軍略を肺肝を貫いたる名将と言えども、武略に慢心するきらいあり
此度、関八州の諸将も謙信の威に恐れて従っているが、謙信は元来短気な性格であれば関八州の諸士の心が離れて、かえって北條の吉となるやもしれませぬ」
と言えば、今度は山本入道が進み出て
「仰せはもっともでありますが、只今のところ謙信は剛将の上、関八州の諸将これに従えば侮りがたい敵であります
君が小田原に着陣すれば、謙信は喜び、当手に向かい、関八州の大軍で北條に攻めかかれば防ぐことならず、また我らも北條を救うことはできますまい
そしてついには負けを喫するは必定、そこまで行かずとも多くの士卒を失うでありましょう
願わくは、ここに留まり、謙信の荒々しき性を使い一個の謀計をなせば氏康公も力を尽くさず、当家も干戈を交えずして敵を去らせることができます」と申す。
信玄は手を打って喜び、「早く、その調略を行うべし」と
山本は物慣れたる間者二十名を選んで、謀りを授け上杉の陣と、忍城に密かに紛れ込ませた。