上杉謙信は西條山の陣城にあって、海津城に上がる炊煙がいつもより盛んなるを見て、「今宵、信玄は動く」と宇佐美、柿崎、直江、宇野らを呼んで
「今宵、武田勢は必ず動く、信玄当年四十一歳、我三十二歳、十五年の取りあいもいよいよ明日は信玄死すか、謙信討死かの有無の決戦となろう、
敵は二万の軍勢なれば、それを生奇に二分して正兵は我らの背後を襲い、奇兵は渡しの向こうで我らが戦の末、疲れ果てて降りてくるのを迎え撃つ策であろう
見え透いた信玄の策など恐れること無し、逆に我らが先じて山を下り、信玄の旗本に攻め入り、一気に片を付けて信玄坊主の生首を得るのだ
馬には轡(くつわ)をしばり、舌を巻けよ、兵には枚(ばい)を含ませよ」
これを聞いて上杉の諸将は大いに喜び、名を挙げんと勇み立つ
兵らは順次迅速に支度を整え、謙信は既に放生月毛の馬に打ち乗り、陣中にはわざと大篝を焼かせ、その夜の上刻にしずしずと西條山を討ちたてて、雨宮の渡りは渡らず、遥か川上の八代の渡りを越えて川中島に出る。
謙信、信玄の川中島の決戦と申す美談は、この合戦の事である。
さて謙信は甲州勢についに気づかれることなく八代(屋代)の渡しを乗り越えて、川中島に至り、寅の刻に至って、軍勢の手配りをする
真っ先には柿崎景家、二千余人を押し立てて、二の身には大将上杉入道謙信、左の方は本庄繁長、柴田因幡、
右は山吉玄蕃、北條安芸、次に安田上総、須田親満、北の方には上田景国、古志駿河、宇佐美駿河定行、
右に村上義清、加地安芸、千坂対馬、後備えに甘粕近江景時一千五百余人
次は直江山城守兼続、小荷駄奉行となりて遥か後ろに備えたり
そのほか、高梨播磨、宇野左馬助、新発田尾張、同因幡、上杉壱岐、城織部、本庄孫次郎、鬼小島弥太郎、鐵上野介、色部修理、斉藤下野、長尾遠江、山本寺宮千代、杉原壱岐、中條越前、竹俣三河、上杉弥五郎など一万三千余人
謙信、これらを思うままに手分けして皆、二手組にして双方互いに助け合い、一陰一陽なれば、一備え敵に当たれば、一備え後ろに繰り越し、屈伸往来するをもって車懸かりの要とする
この如く備えて、次第に犀川の方へと近づく
謙信の軍令は厳しく、武田の間者近づくも片端から搦めとられ、武田に名を成す間者二十数名、みな帰ること叶わず
上杉勢の動向は未だ信玄に伝わらず
高坂弾正、いかに索敵に精通していると言えども、未だ謙信が既に犀川に至ること露ほども知らず
謙信の良将たるゆえん、これにても知るべし。