上杉謙信が川中島に出張ったのは、上州勢が三ケ尻の戦に勝利して甲州に攻め込み、同時に謙信も信濃路から逃げ来る信玄を攻め討たんとするためであった
去れども、三ケ尻で大敗を喫した長野等は力を落して城から出る気配もない
しかたなく謙信も途中から越後に引き返した。
弘治四年、改元あって永禄元年と年号が変わった。
謙信は考えた、(信玄と我が戦うのは互いの益にならず、我は武州、相州の北條を攻め滅ぼす志なり、信玄は上州をわがものとするのが狙いである
なのに信玄は我を妨げ、我もまた信玄を妨げている、互いに認め合い、信玄は上州を、我は武州、相州を得るなら、互いに妨害するのは時と力を無駄にするに等しい、と。
そこで謙信は二月に甲州へ使者を送った
「武田家と上杉家が戦うのは、ただひとえに村上に頼まれての義の一字の為である、これ以後は両家が和睦合体すれば、我は亡父為景の供養のため越中、加賀、能登を攻め取る
あるいは上杉憲政を上州平井の城に還すことのみが望みである、それさえ妨害なければ、我らも武田家の願うことの妨害はいっさい行うことは無い」
これを聞いて、武田の諸将は大いに喜び、ただちにこの申し出を受け入れるべしと言うので、信玄もこれに同意して、五月十五日に両大将は筑摩川を挟み対面した。
所は牛島の渡しより四、五町大室の方に寄ったところであった
両方の川岸に床几を置き、互いに馬を降りて一礼して床几に腰かける段取りである
近習は五名のみとして、以外はすべて離れての人払いしての対面と約定を交わした。
当日、武田入道信玄、上杉入道謙信、馬に乗って川べりにて対面する
謙信はきわめて短気な勇将であるから、信玄に兜の内を見られるのを嫌って、いち早く下馬して床几に腰を掛けた
信玄は悠々と馬に乗ってやって来て、下馬の振りをするだけで謙信に「苦しからず候、馬に乗られよ」と言った
目下に言う態度の信玄に腹を立てた謙信は、さっと馬に飛び乗ると物事云わずに味方の陣中へ戻って行った
そして使者を信玄に送った
「今日の貴殿の無礼は匹夫の如し、主将の振る舞いに非ず、謙信はこれに大いに怒るものである
某が元祖、鎌倉次郎景弘は桓武天皇の後裔、鎌倉権五郎景政の曾孫にて、右大将頼朝卿の側近として働き、以来数代にわたって今某に続くものである
なかんづく、われと同流の梶原平三景時は、右大将家の侍所別当を賜り、富士野牧狩りでも梶原は御前の次であり、その次に武田であることは赤子でも知っていることだ、その上、八年前には管領上杉の名跡を継ぎ、本来武田は我に従うところ傍若無人の振る舞いで更に人倫の交わりにあらず
これより、再び干戈を交わすこと始めと同じである」と申し送った。
これに対して信玄の返書、「怪しげな系図などを持ち出してとやかく言うが、そもそも武田の由緒は我が朝廷、国家において確かであることは申すまでも無い
今さら改めて言うまでもない
古の梶原景時などは右大将家の被官である、わが武田太郎信義と尊卑を比べるなど無礼にもほどがある
また管領職の事も、上杉憲政は武の道を忘れて賞罰に疎く、民をむさぼる人非人である、そのため天罰を受けて国を追われて越後に逃げ落ちた
そのような人非人から形しかない管領職を譲り受けたと有頂天となっている貴殿こそ笑止也
この信玄は大僧正の名をいただき、官位は大納言に準ずるものなり、謙信は無位無官である、われが貴殿に気を使うことなどあろうか
和議を破るとのこと、勝手にするが良い」との返書
これを見て謙信はますます怒り、「憎き信玄の返書かな、やすやすと信玄に騙されて下馬したことが無念である、見よ、近きうちに信玄入道に泡吹かせて、この憤りを晴らして見せようぞ」と越後に帰陣する。