信玄の不遜な振る舞いで、純粋な快男児謙信は怒って越後に引き上げた
長年決着のつかない不毛な戦を終わらせるという謙信の申し出は、両家の重臣たちを安堵させた、それなのに決裂して両家の将は大いに落胆した
中でも山本道鬼入道は深く歎いて、信玄の前に出て問いただした
「此度、上杉との御対面のおり君の御振る舞いで、謙信が立腹したのは、もっともなことと同情せざるを得ません
いったい、どのような思惑があって和平を破る振る舞いをなされたのか」
すると信玄はにっこりと笑い「そなたたちが、そのように思うのはもっともである、 我は上州を望んだ時、北条に妨げられて一時はあきらめた
されども北條は、上州に於い謙信と干戈を交えることとなり、さらに上州の諸将も謙信の後ろ盾を得て北條に立ち向かえば、氏康はこれに手を焼き、我に上州を任せたのである、そして我らは武威をしめして上州を押さえつつある
ここで謙信と和睦すれば、我らは上州をあきらめ、北條は我らが沈めた上州を濡れ手に粟で奪うであろう、それ悔しき也
二つには、今川義元は上洛の気運高まり、天下統一を志しているが、後ろから襲われることを恐れて、父信虎公を介抱しているのは、我との好みで北條が攻め来るのを妨げさせようという魂胆である
故に我は謙信と和議を結ばず、謙信との干戈を理由にして今川の留守を守ることを断る方便とする
そうなれば、今川は引き返すか、さもなくば上洛途中で討死となるやもしれぬ
このようなわけで上杉との和睦を破ったのである
速やかに上州を平定して、今川に先駆けて上洛をして天下統一を成す所存である」
信玄がそう言うと、山本道鬼が謹んで申すのは「君の御深慮はもっともな妙策であります、されどもそれは当方だけのお考えであります
上洛の御意志あるならば、尚更に上杉と和睦すべきでありました、交わりを厚くして、更に駿州より、御父君を迎えられて甲斐の留守をお頼み申せば、何の憂いも無く上洛の途に就くことができます
上杉も好き後ろ盾となりましょう、謙信と云う人は性質勇優れて義に厚く守る人なれば、留守を狙う敵あれば、たちまち謙信がそれを妨げるでありましょう
また謙信には天下統一はおろか、領土的野心も無く、越中に攻め入るのは父君の仇討ちの為、信濃に攻め来るは村上への義、関東に攻め寄せるのは上杉憲政への義の為であります
それなのに恥辱を与えたことで怨恨が残り、以後和議を結ぶのは敵い難くなるでありましょう、されば上杉を滅ぼすと言えども容易ならざることであります
今川、北條は御縁者と言えども変身することも大いに考えられます、上杉のような義将こそ世に少なければぜひとも和議をなすべきでありましょう」
と諌めたが、信玄は聞く耳持たず、道鬼は深くため息するのであった。