武田信玄は、鰐が岳の敵にくい止められて、海野、仁科、高坂の三将が越後に加担の恐れを感じて、挟みうたれれば大事なりと、甘利左衛門尉、相木市兵衛尉、安間三郎右衛門を脇備えとして三将を押さえさせ
先陣を持って、鰐が岳城に押しかかり、ただ一息に攻め落すと揉みに揉んで攻め立てたが
勇猛の越後勢は、恐れることなく城門を開いて馳せ出て防げば、武田勢の死亡多く乱れて下がる
越後勢は勝ちに乗じてなおも攻め寄せれば、原美濃守、加藤駿河守が新手として越後勢に攻めかかる
越後勢は新手の出現にも恐れることなく戦えば、城に戻る道も在れど、義を励み、名を惜しんで「死ねや死ね」と勇敢に戦う
こうなると、さしもの武田勢もしどろに乱れて打ち立てられる
この劣勢を挽回しようと原、加藤自身は槍を振り回して敵に当たる
その時、武田方にて無双の勇士と言われる辻六郎兵衛も踏みとどまり、敵六人を討って落とし、八人に手傷を負わせる
物の具も太刀もしどろに真っ赤な血を滴らせてなおも、打ち回れば、その姿は
鬼神のごとく見えたり
城方の佐野数馬は、これを見て「あっぱれなる敵なり、そこを去るな」と声をかけて近づき、討ってかかる
六郎兵衛尉も金石ならざれば、ついに佐野によって討たれる
原美濃守も乱戦の中で数か所の傷を負い、松木内匠と打ちあい、危うきところを原の郎党が駆け寄って、主の危急を救い陣所に駆け戻る
加藤駿河守もまた手傷多くして、引き下がる
されども信玄は数の優位をもって総攻めに攻め寄せれば、小人数の城方はついに力尽きて落城となる
城から逃げ出した兵も力なく、越後に向けて落ちて行けば、信玄もこれを追って後ろを討たれるを恐れて、追うことをせず
急ぎ川中島に軍を戻して、海野、仁科、高坂入道の反心を責めて三将の首を刎ねた。
海野の名跡を信玄の第二子、盲目の御曹司隆宝(りゅうほう)十八歳に与える
これに付けられた海野の老臣、奥座若狭守は元は百貫の所領であったが、信玄はこれに千貫の所領を与えて隆宝の後見とする。
仁科の名跡は第五の御曹司、油川殿の腹、五郎五歳に与えて五十騎の士を付けられた、仁科五郎信盛と名乗らせる。