神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

新潟県のこと 上杉謙信 田中角栄

2024年11月27日 13時28分26秒 | 地理
 新潟県は北の海上には世界遺産になったばかりの金山の島、佐渡島、更に日本海を乗り越えていけば大陸沿海州へと続く
北東の端は村上、胎内で海上には粟島、海沿いに山形県に続き、少し下がって村上市坂町からは荒川の狭くて美しい峡谷に沿って、山形県小国町から山形県最南端の米沢市へと出る

東北東は新潟市、阿賀野を越えて阿賀野川の渓谷を福島県会津地方に続く
東は長岡市から魚沼、湯沢を経て山間の穀倉地帯越後平野を越えて、群馬県に入る

南西には上越市から妙高市を経て長野県長野市へと続く、長野市は近い
西の端の糸魚川市から南の狭い姫川峡谷を下り、長野県北部小谷村、白馬村、大町市へと続き、右手には2900mの峰々、後立山連峰(北アルプス)の白馬三山がそびえる、こここそ日本列島を二分するフォッサマグナの西の端
糸魚川からはもう一路、西に向かい天下の険、親不知(おやしらず)を越えて富山県東部に入る。

新潟県の政治、経済の中心は明治以降は新潟市であるが、戦国時代から江戸時代まで今の上越市が越後国(新潟県)の中心だった
上越市直江津地区には戦国時代よりさらに昔、国分寺があり政治の中心であり
直江津の湊は青苧の交易で大いに栄えた
同じく春日山には武田信玄と共に戦国最強と言われた上杉謙信の居城がある
ここから越後国内の諸豪族を統率したのだった
さらに下れば、越後高田は江戸時代初期には徳川家康の六男、松平忠輝が75万石の大身として信州川中島を含む広大な領地を治めて、名実ともに越後国の中心であった。

新潟県は北東から南西に海岸線が伸びる長い県で、面積は福島、長野に続いて全国5位の広さ、それゆえに高速道路の総延長でも北海道に次いで全国2位である(2021年)
新幹線やJR+三セク鉄道の総延長でも日本トップクラスの長さである
ところがこれでもカバーできない地域が多い、西端の糸魚川地域からは県庁新潟市への直通列車が一本もない
そのため東京には2時間、長野市まで30分足らずで行くのに、新潟市へ直通で行くためには高速道を2時間走る、JRだと3時間かかる、まるでどこの県かわからない状況である
富山県が県内を鉄道路線網でくまなくカバーしているのに比べると不便この上ない新潟県なのだ
上越地域の中心、高田からも新潟市への鉄道路線の利便性は不自由だ
これはJR東日本と西日本が新潟県内で別れているためで、高速道路も同じである
糸魚川から直江津の区間だけが交通網では関西圏に属している
だから三セク線は直江津から富山県の泊駅までと越境しているし、大糸線は糸魚川から長野県大町までだから大糸線なのだが、長野県の南小谷で終点となる
これは電化の関係で、糸魚川から南小谷まではジーゼルカーの為である
これがネックとなって、全国有数の赤字路線となって廃線寸前である。

上越市直江津、柏崎市も北陸新幹線から外れているし、十日町市も上越新幹線から外れている
県が広く、山間部が多いので交通網が行き届かないのだ

かっては群馬県に行くのに三国峠を越えなければならなかった、冬は雪崩の巣窟で大勢が犠牲になっている、豪雪地帯なのだ。
関東管領になった上杉謙信の越後兵は冬、関東に出るために三国峠を越えることもあったらしい、その苦難はそうとうなものであっただろう

昭和になっても、戦後になっても、三国峠は新潟県から関東平野に出る障害であった
新潟県西山町で生まれた田中角栄も大臣、総理大臣になって三国山脈が新潟県と関東平野を閉ざしていることが新潟県の経済、交通の妨げであることに心を痛めた
そして三国山脈に穴をあけて関東と結ぶという誇大妄想的な考えを持った
当時は確かに、この考えは誇大妄想と言われるほどの難事だったのだ
田中角栄は演説で「三国山脈に穴をあけて、その土砂を日本海に入れて、佐渡島と本土を陸続きにすればいい」と言った
佐渡とはつながらなかったが、三国山脈には現在は新幹線も高速道路も一般道も通り、僅か数分、十数分で新潟県から関東に入ることができる。

謙信が関東へ出るために山脈を越えた。越山である
田中角栄の後援会は「越山会」といって、強固な郷土愛で結ばれた、これこそ京の都から遠く離れた辺鄙な越後で、上杉謙信のもと越後諸将が一致して山を越え関東平野になだれ込んだが如し
上杉謙信、田中角栄の二人の越後の英雄は共に三国山脈に挑んだのであった
そんな新潟県だが、ここ数十年、大臣が一人も出ていない、今度の衆院選では五選挙区すべてで自民党が立憲民主に敗れたパーフェクトディズとなった。
草葉の陰で田中角栄は、だみ声で「なにやってんだか?」とあきれ顔でいることだろう。

北アルプスが日本海に落ち込む親不知、20数キロ続く狭い砂浜を寄せ来る波を岩間に避けて旅をした、子が波にさらわれた悲劇が「親知らず、子知らず」の名の所以
親鸞も流罪になって、この海岸を歩いて直江津に向かった
上杉謙信が越中を攻める時は、山越えか船で渡ったのであろう。
藤式部の父、藤原為時は越後守として国府(直江津)までいかなる方法でここを越えたのだろうか。


街角トワイライト(シャネルズ)


「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(260) 甲越 川中島血戦 87

2024年11月27日 06時35分48秒 | 甲越軍記
 時に永禄四年九月十日の東方、すでに明けようとするに、頃は秋の末なれば朝霧深く立ち込めて少しの先も見えず、武田の物見も知ることなく
信玄は正兵の知らせを待てども合戦の是非も未だ届かず、心のうちにいぶり賜う

卯の上刻になり、霧は朝嵐の風に吹き消され四方青々となるところに、遥かに南を見れば、上杉謙信一万三千余人を従えて、忽然と目の前に現れた
姨捨山の東、川中島の広原に大根の折掛けの纏を朝の嵐になびかせて、真っ先に押し立て、戦備え整然として控えるを見て
武田の諸勢これを見て驚き、仰天して「これはいつの間に・・かかる大軍、この地に現れるとは、天から降ったか、地から湧いたかまことに天魔の所業なり」
と、はやる武田の勇将たちも恐怖の色を成す

さすがの信玄入道もしばし目を疑う
謙信の迅速なる手配りに驚きはしたが、ことに動ぜぬ名将なれば、ちっとも騒ぐ景色も無く、信州先方の浦野源之丞という士を召して「謙信の備えを見てまいれ」と命じた
浦野は畏まって馬を馳せだして上杉陣をよくよく見まわして戻って言うに
「謙信はすでに引き取られ候」という
信玄は大いに不審に思い、「謙信ほどの者、宵から川を打ち越して長夜を待ち明かしていたものが、なんぞ一戦も交えずむなしく引き取るか、謙信が引き上げるとは、いかなる証拠をもって言うのか」と糾すと、浦野は
「謙信は味方の備えを回って、断ち切り、断ち切り幾たびも繰り返しながら、犀川の方に去って行ったのであります」

信玄は、これを聞いてニッコと笑い
「これは浦野とも思えぬ事かな、汝は知らぬのか、それは車懸かりと申して、車の巡るがごとく備えを繰り替えて幾回り目に、敵の旗本と我が旗本を打ち合わせて一戦に勝敗を決する陣法なり、甚だ殊勝の備えなり
謙信いかほどに働けど何ほどの事あるべきや」と言い、諸我入道を今一度物見に送る

大将の一言は誠に大切である、信玄にっことして動ぜぬ姿を見て、諸軍はたちまち生気を取り戻し、敵かからば華々しく戦おうではないかと日頃の勇威を表さんと見えたり。

危うきに挑んで勝つことを制するを智将と言う
武田信玄入道は、上杉の機変に動じず諸我入道を敵陣近くに送り、敵状を探らせれば、駆け戻り「御大将が申す通り相違なし、車懸かりをもって挑み来ること疑いなし、これ必死の表れ也、御思慮あそばされますよう」と申す。

車廻しの陣法とは二備え一組となり、交互に攻め方と補い方とが入れ代わり、正面と思えば脇から攻め寄せ、近きかと思えば離れ、離れたかと思えば逆方向から攻め来る
突如として思いがけぬ方向から一気に突入してきて、一撃のもとに去ったかと思えば、別方向からもう一隊が攻め入り、そらが次々と懸かってくる
これこそ謙信の如き名将ならではの用いりがたい戦法である。

信玄は山本道鬼を側に招き「謙信は既に車懸かりをもって、我が旗本を切り崩そうと謀る
我らの旗本は劣勢なり、西條山に向かった正兵一万二千が駆けつけるまで、いかなる戦法を持ってでも合戦を長引かせるべし、速やかに備えを変えて、あしらいながら時を稼ぐようにすべし」と申す
山本は元来武略神通の者なれば、畏まりましたと申して須臾の備えに陣形を変えさせた。
須臾(しゅゆ)とは「しばしの時」を表し、大奇の備えで大正の備えを待ち受ける時の備えであるが、細密の秘法であれば常人には説明しがたい深い奥義故略す。