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空想歴史小説 貧乏太閤記37 稲葉山城落城 

2022年10月17日 18時55分06秒 | 貧乏太閤記
「半兵衛、この山の裏手に敵に見つからずに登れるところはないかのう」
稲葉山本丸の裏山は険しくてとても登れそうもない、だが秀吉の脳裏には登れる小道のイメージが出来上がっている
「できる」と自分を信じさせると、たいがいできることを知っている、今までも、そうして難題をいくつも乗り越えてきた、それは天性の才能と言ってもよい。
なぜだかわからないが、成功のイメージを脳裏に描けた時点で成功が約束される。 今までと違い今度は軍師竹中半兵衛もいる、これぞ「鬼に金棒」だ
「拙者の手の者に稲葉山の間道を知っている者が何人かおりまする、それを利用いたしましょう」
「うむ、頼んだぞ」
「堀尾可晴(よしはる)が適任かと、さっそくお会いになりますか」
「うむ、ことは急ぐ故、われらから出向こう、案内せよ」

金華山から続く森の中に小さな堀尾家があった、半兵衛の話では可晴の父は岩倉織田信賢の家臣であったという
信長に敗れた後、美濃に流れて住み着いたというが斎藤家に仕えるつもりはなく浪人暮らしに甘んじているという
ここにきて間もなく父は病死して、可晴は母親と二人でその日暮らしをしているという。
可晴が金華山や森の恵みを得て暮らしを立てているので、このあたりの間道は知り尽くしているらしい。
堀尾可晴は秀吉と同年代に見える、浪人はしていても武士の誇りは忘れていない、身動き一つせず凛として秀吉をじっと見ている。
「織田上総介様の家臣、木下藤吉郎秀吉でござる、仕官なさるおつもりはないか」
ずばりと切り出した秀吉に対して
「上総介殿(かずさのすけ=織田信長)は、わが主君の仇ですどうして仕えましょうか」
「そうはいわぬ、儂じゃ、この秀吉に仕えて見ぬか」
「あなた様のことはよくは存じませぬ」
「ならば半兵衛でもよいぞ、半兵衛なら知っておろう」
「知っております、美濃の重臣でありながら何ゆえに美濃を捨てて、織田殿に仕えておるのじゃ」
半兵衛が口を開いた
「織田殿ではござらぬ、儂は木下様に仕えておるのです、仕えて損はござらぬ、仕えて見なさい、織田様とは正反対の殿様じゃ」
「だが大身ではない」
「大身の器をお持ちの方でござるよ、先物買いじゃ、儂も殿様の将来を買って斎藤家を捨てたのでござる」
「ふ~む わからぬが」
「わからなくてもよろしい、堀尾殿も儂と同年代と見ゆるが大器の相が見える、だが主君を誤れば滅亡の相じゃ、
殿様との相性はよろしい、仕えてみなされ、そなたの迷いの森に道が開けるであろう、しかも今日が百年に一度の大大吉日、その初手柄の日と出てござるよ」
「ははは、たいそうに吹かれたものよ、拙者は何をすればよろしいのか」
「稲葉山城の裏手より入り、大手門を開ける仕事でござる」
「ふむ・・ふむ・」
「家名再興でござる、見なされ母御もうなずいておられる」
いつの間にか可晴の母が来ている、こちらも凛とした武家の奥方だ
「可晴、縁と言うものはそうそう降ってくるものではありますまい、それが今日降ってきたのですよ、
おやりなさい門出になるやもしれませぬ、山の中の生活には疲れました、また尾張に戻れるやもしれません」
「母者、わかりましたやります」

こうして堀尾可晴は秀吉の道案内を引き受けたのである
あとは俗書と同様、裏山の滅多に人など通らぬ険しいけもの道を可晴を先頭に藤吉郎と蜂須賀党の面々は上っていき、
ついに敵の手薄を突いて大手門の裏に攻め込んだ、切りまくり大手門のかんぬきを抜くと合図一閃、城まじかでやり過ごしていた織田方正規軍が一気に攻め込み、ついに稲葉山城を攻め落とした。

城主斎藤竜興は僅かな兵に守られて山の間道を落ち延びて、越前の朝倉義景を頼った。
朝倉はこの年、隣接する若狭(福井県西部)の若狭武田氏を攻めて勝利、若狭守護武田元明を捕虜として捕えて若狭を併合した。
朝倉もまた強国の一つであった。
案内した堀尾可晴は、「可」と読みが同じ藤吉郎の「吉」をもらって「吉晴」と改め、秀吉の家臣となった。

ついに稲葉山城を落とし、宿願の美濃一国を手に入れた信長は稲葉山を「岐阜」と改めて、岐阜城に本営を移した。
尾張、美濃二か国の太守となった信長のその領地は120万石とも、最盛期の今川義元をも超えた、兵の動員力も最大5万にも及ぶ
尾張に割拠して信長の言うことを聞き流していた一門、一族、土豪たちも信長の家臣に組み込まれて信長は完全なる絶対君主となった。
清州、岐阜という二つの都市を得て町を整備して楽市楽座で商業を繁栄させ、さらに津島の湊の税収入も増えて行った
120万石は米の収穫量だが、商業から上がってくる税も含めれば200万石相当の大名と言える。
信長が知る範囲の大名でこれだけの実収を挙げているのは関東一帯を制圧する北条氏政、甲斐、信濃、上野の一部を領する武田信玄くらいではないだろうか。
信長は一気に躍り出たのである。

信長が美濃攻略の論功行賞を行った、第一等の勲功を挙げたのは東美濃を味方につけて斎藤家を弱体化させた丹羽長秀
第二に西美濃を平定した木下秀吉と伊勢を懐柔した滝川一益とした。 長秀には3万石、秀吉と滝川には各々2万石と大名級の賞を与えた。
秀吉は大出世を遂げた。 
そして岐阜城下と京に屋敷を賜り、岐阜に中村から母と妹を呼び寄せた
また竹中半兵衛は藤吉郎の家来のまま信長から別途1000貫を賜り、秀吉は蜂須賀家政に2000貫、堀尾吉晴と、前野長康、弟の小一郎秀長に500貫を与えて
家老とした、
そして小一郎もめでたく妻を迎えた、妹の、あさは家臣の副田(そえだ)甚兵衛に嫁がせ、添田には300貫を与えた。。

この年は徳川家康にも転機と言える動きがあった
家康も三河一国を領土として20万石の大名になっていた
徳川と武田が手を組んで(同盟ではない)今川領に攻め込み今川領を二分しようという密約を交わした。
その武田は嫡男の義信が妻の実家今川を父信玄が攻めることに反対
親子の決裂となり武田家中も保守信玄派と革新義信派に分断、先手を打って信玄が義信を幽閉、取り巻きの家臣を処刑した
そして後日嫡男である義信を自害させ、義信の妻を今川に返した、これが後々の武田家の痛恨となるのだ

















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