どの大名の家来かも名前も知らぬが侍大将が居た、仮に、安野五郎三郎としよう。
安野は此度の晋州攻めでも手柄を立てた剛の者であったが、酒癖、女癖の悪い武士であったから、晋州の町に入って以来、町屋や小料理屋で狼藉を繰り返していた。
評判の悪いことは上司にも知れたが、これまでの長い間の転戦で皆、心がすさんでいたし飢えにも苦しんでいたから上司も多めに見ていたのだった。
ある小料理屋に酔った安野が、家来数人と入り、さらに飲んで「芸者はおらんのか、芸者を呼べ」と暴れんばかりであったから、驚いた店主はすぐに妓生(キーセン)を呼んだ
「なんだ、こんな女しかおらんのか、酒がまずくなる」と盃をたたき割った
「朝鮮にはファンジニとか言う絶世の美女がおると言うではないか、それを呼べ!」と怒鳴った。
通訳も安野の剣幕に恐れながら店主に伝えると、店主は困った顔をしたが
「ファンジニとは、大将様よくご存じでございますねぇ、しかし彼女は松都(平壌)の妓生で、しかも100年も前の人間でございまして・・・へ~い」
と薄ら笑いをした。
その顔が面白くなかったのか、店主に詰め寄って胸ぐらを捕まえて、後ろに押し倒した
「いないなら、つべこべ言わず晋州一番の妓生を今すぐ呼べ!、早くしなければ、この店に火をかけるぞ」
店主は驚いて「わかりました、いますぐ呼びますから短気を起こさないでください」、置屋へすっ飛んでいった
「大将様、妓生は準備がありますから、来るまで私で我慢しておくれやす」と
最初の妓生が機嫌を取ると
「仕方あるまい、来るまでお前で良いわ、歌でも唄って舞ってみよ」
見るもの、聞く歌、珍しいものばかりで安野も気分が治まったのか、ようやく良い酒になって来た
30分ほど過ぎて新しい妓生がやって来た
「おお、これだこれだ、こういう朝鮮の美女を待っていたのだ、店主おまえも一杯飲むがよい」
女はこの町一番と言うだけに客あしらいもうまく、安野も部下もすっかりご機嫌になった、「おい女、名前は何と申す」
「私の名前は、論介(ノンゲ)と申します、どうかよろしく」
歳は20歳を少し出たくらいであろうか、朝鮮一とは言わないが、かなりの美人でしかも雰囲気も良く、遊ばせ上手である
安野はすっかり気に入ってしまい、「親父、この女、連れて行くぞ」と帰りがけに言うと、店主は驚いて
「申し訳ありません、ノンゲはこう見えて亭主持ちなので、ご勘弁ください」と言った、そんな言葉で「はい、わかりました」などと言う、安野ではない
店主に掴みかかって怪我をさせる勢いである、周りにいた朝鮮の男たちも色めきたった。
一触即発である、中の一人がノンゲの亭主を呼びに行った。
やって来た亭主もなかなかの偉丈夫で「大将様、倭国のことは知りませんが、妓生と言っても人間でございますよ、まして亭主もいるのだから、どうか許してくださいよ」とはっきり言った。
すると安野はますます、いきり立って「無礼な!」と言うと、いきなり刀を抜いて亭主に切りつけた、
刀は太ももを切り裂いた、血が噴き出し、床に倒れる。 ノンゲは驚いて亭主のもとに走り寄って、チマチョゴリを引き裂くと腿をきつく縛って血止めしようとした。
すっかり興ざめした安野は「帰るぞ」と部下に声をかけて出て行った
ノンゲの亭主はその夜、出血のため家で息を引き取った
日本軍の誰にも抗議できず、泣き寝入りするしかなかった。
半月後、この町で一番の楼閣に、各大名の侍大将クラスの士官が集まって饗宴を行った、妓生も20人ほど呼ばれて、大宴会となった
ここにノンゲと安野が再会した。
「おお、おまえはノンゲと申したな、この前は亭主に悪いことをしてしまった、傷はどうだ? 治ったか? これは些少だが薬代にしてくれ」
などと、さすがに士官クラスが居並ぶ中では悪酔いもできず、過日の安野ではなかった。 しかしノンゲの目は鋭く光り憎悪を一瞬映したが、すぐに商売顔に戻り
「大丈夫でございます、かすり傷でしたから、もう仕事にも行っておりますよ
これはせっかくですからいただいておきますから、もう済んだことは忘れて大いに飲んでくださいな」
安野は、ノンゲの亭主が死んだことは知らない、かすり傷と聞いて安心した
また、ノンゲが優しく接してくれるので、良い気分になり、ますます気に入った。
「大将様、どんどん飲んでくださいましな」
「おいおい、大将はやめてくれ、安野と呼べばよい」
「あら、そうですか安野様、私にもいただけますか」
「おお、よいとも、忘れておったわすまぬ」
「私も、けっこういける口ですの、飲み比べをしましょうか」
「ははは、酒なら儂は負けることはないぞ」
「そうですか、それでは」
二人の飲み比べが始まって、両隣のさむらいたちも面白がってはやしたてる
ノンゲは商売柄、同じ量を飲むと見せかけて、実は安野の半分も飲んでいない
「ああ、さすがは安野様です、私はもう飲めません負けました」というと、安野の膝に崩れた
「おお、儂の勝じゃ、これ酔ったのか」
安野は膝にノンゲの体温を感じて悪い気がしない
「酔ってしまいましたよ、少し肩にもたれて良いですか」
「よいとも」ノンゲがもたれかかると、頬にひんやりとしたノンゲの頬が触れて、さすがの安野もビクッとした、若い妓生のほのかな甘い香りがして、中年男の安野は目がくらみそうになった。
彼もまた日本に妻と子を置いて、はるか遠い朝鮮の地で、望みもしない戦に駆り出されている一人の犠牲者であった。
急に安野の心臓が高鳴って来た、その様子に気が付いたノンゲは
「安野様、酔ったのではありませぬか、外で二人だけで風にあたりませんか」
と誘うと、勘違いしたのか安野は喜び
「そうじゃのう、風に当たるのもよいな」と言って立ち上がった
二人は肩を組んで立ち上がると、ノンゲは、隣の妓生に頼んで安野の、もう一方の肩を支えてもらって、楼閣の中庭に出た
風が涼しく頬を伝い、良い気持ちである
(ここまで会話を書いたが、もちろん日本人と朝鮮人の会話であるから、互いに言葉は通じない、酔った勢いで身振り手振りと口調と表情でも結構、通じるものである、読者にはそう解釈していただきたい)
ノンゲは、もう一人の妓生に言った、もちろん間に居る安野にはどんな会話かはわからない、それに急激に飲まされた安野の足はふらついている
「ファンゲ(華介=もう一人の妓生の名前)私の夫はこの男に殺されました、今仇を討つ絶好の機会です、この男を突き落として私も死にますが、あなたは『酔った二人が過って落ちたと、皆に伝えてくださいな」
「そんな」
「いいから、夫が居ないこの世に未練はありません、子もいないし、仇を討てれば喜んであの世に行って、夫に会えますから」
「・・・」
この楼閣は南江に切れ込む断崖の上に建つ、絶景の妓楼として有名である
庭は、まさにその南江を望む絶景の地にあるのだった
「安野様、こちらに来て私を抱きしめてください」
ノンゲが両手を広げて、ふらふらしている安野を招いている
「そなた、やはり儂を好いていたのだな」
安野は喜んで、ノンゲに近づいていった。 ノンゲが崖を背にしているとも知らずに
安野が抱きついた瞬間、ノンゲの体は後ろに倒れて、二人は一緒に南江へと落ちて行った
「きゃー!!!」
ファンゲの叫び声に、宴会場にいた者たちが庭に出てきた
「二人が、二人が酔って崖から落ちました!」
この話は、国が戦場となって苦難にあえぐ朝鮮人民に、寡婦の仇討として広く伝えられることになる。
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