三条で長尾平六郎俊景が謀反の兵を挙げたと、早々に府中に注進があった
屋形の兵庫守定実(さだざね)は長尾晴景に、俊景註伐の兵を出すように命じた。
晴景は老臣諸将を招き軍議を開き、俊景討滅の兵を起こすことと定め、早速に先軍が出発した。
そんなとき、景虎が兄、晴景に密かに囁いた
「某が考えるに、城中の動静に不穏な空気を感じます、特に照田親子の動きに不審在り、その顔相には父為景討死の虚をはかり反逆を企てるのではないかと思います。
今、三条の反乱に兵を送っていますが、三条俊景がいかに謀るとも勢いは恐れるに足らず、三条周辺の城々に命じて囲ませておけば事足りると思われます
府内の兵は、この度は三条に送らず城中を固めることが肝要と存じます
照田には間者を入れて動向を探り万一、照田親子が反逆してもたちまち鎮圧して首を刎ねることができます、三条討伐は、その後でも間に合います」
しかし晴景は「汝、幼稚な心で人の顔色を見て、あれこれ申すは笑止なり
まして反逆とは言葉が過ぎる、人には喜怒哀楽あり、憂いや病の時には顔色さえず、日々変わるものである
ましてや余人は知らず、照田親子は父為景の時からの忠臣旗本である、彼ら父子に限り謀反などあるはずがない、汝も愚かな考えは捨てるべし」
と相手にしようとしなかった
府内の兵は続々と三条目指して発向していくのであった。
そもそも照田常陸介とは、その前は越前朝倉家に仕えた武士であったが、仔細あって朝倉英林の勘気を受けて、越後に流れ来た者である。
常陸介には二子あって、長男を久三郎、弟を久五郎という
その容貌は美麗な上に弁舌巧みの業を持っているので、流石の為景も騙されて兄には五十嵐の遺領八千貫、弟には頚城郡(くびき)の内に三千貫の領地を与えた。
親子らの威勢は為景が後援によって日々勢いを増し、ここに越後の名家、黒田長門守、金津外記、去る永正六年、猿ケ馬場にて討死して途絶えていた当家の家督を照田兄弟に与え、久三郎には黒田和泉守国忠と改めさせ本領の上に黒田の領地を積み与えた
弟、久五郎も金津伊豆守国吉と改めさせ本領に加え、金津の領地も重ね与えた。
このようにして照田親子の威勢は並ぶものない程に勢いづいたが、その重恩を忘れて更に上を目指し暗躍するところに、ある夜、和泉守の城戸を叩く者あり
これこそ越中の大将、神保修理の使者、松野小左衛門であった。