神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (112) 長尾家 25

2024年06月15日 20時23分39秒 | 甲越軍記
 三条で長尾平六郎俊景が謀反の兵を挙げたと、早々に府中に注進があった
屋形の兵庫守定実(さだざね)は長尾晴景に、俊景註伐の兵を出すように命じた。

晴景は老臣諸将を招き軍議を開き、俊景討滅の兵を起こすことと定め、早速に先軍が出発した。
そんなとき、景虎が兄、晴景に密かに囁いた
「某が考えるに、城中の動静に不穏な空気を感じます、特に照田親子の動きに不審在り、その顔相には父為景討死の虚をはかり反逆を企てるのではないかと思います。
今、三条の反乱に兵を送っていますが、三条俊景がいかに謀るとも勢いは恐れるに足らず、三条周辺の城々に命じて囲ませておけば事足りると思われます
府内の兵は、この度は三条に送らず城中を固めることが肝要と存じます
照田には間者を入れて動向を探り万一、照田親子が反逆してもたちまち鎮圧して首を刎ねることができます、三条討伐は、その後でも間に合います」

しかし晴景は「汝、幼稚な心で人の顔色を見て、あれこれ申すは笑止なり
まして反逆とは言葉が過ぎる、人には喜怒哀楽あり、憂いや病の時には顔色さえず、日々変わるものである
ましてや余人は知らず、照田親子は父為景の時からの忠臣旗本である、彼ら父子に限り謀反などあるはずがない、汝も愚かな考えは捨てるべし」
と相手にしようとしなかった
府内の兵は続々と三条目指して発向していくのであった。

そもそも照田常陸介とは、その前は越前朝倉家に仕えた武士であったが、仔細あって朝倉英林の勘気を受けて、越後に流れ来た者である。
常陸介には二子あって、長男を久三郎、弟を久五郎という
その容貌は美麗な上に弁舌巧みの業を持っているので、流石の為景も騙されて兄には五十嵐の遺領八千貫、弟には頚城郡(くびき)の内に三千貫の領地を与えた。
親子らの威勢は為景が後援によって日々勢いを増し、ここに越後の名家、黒田長門守、金津外記、去る永正六年、猿ケ馬場にて討死して途絶えていた当家の家督を照田兄弟に与え、久三郎には黒田和泉守国忠と改めさせ本領の上に黒田の領地を積み与えた
弟、久五郎も金津伊豆守国吉と改めさせ本領に加え、金津の領地も重ね与えた。
このようにして照田親子の威勢は並ぶものない程に勢いづいたが、その重恩を忘れて更に上を目指し暗躍するところに、ある夜、和泉守の城戸を叩く者あり
これこそ越中の大将、神保修理の使者、松野小左衛門であった。


退院後の食事と体作り

2024年06月15日 06時02分42秒 | 病気と健康
 食べて良い食材と、食べてはいけない食材に二分したので結構気を遣う
当初は病院で出ていたのをまねて数日食べていたが、ほとんどが軟らかく煮た野菜
ブロッコリー、大根、人参、キューリ、玉ねぎ、ジャガイモ、長ネギ
2年前までならブロッコリー。玉ねぎ、長ネギは食べれなかったが、今は平気で食べることができるようになった
しかも空腹の病院で慣らされたから、今は家でも毎日食べている、それも大嫌いだった柔らかいとろける食感で・・・変われば変わるものだ。

それにしても、牛肉が食べたい、ウナギを食べたい、いかの天ぷらを食べたい
だけど全てダメ、脂がある食材、消化が悪い食材、揚げ物はすべてNG
刺身は脂が無い物なら良いというので、退院後初めて食べた
一人前パックで500円していたから、2匹入り300円の丸ものを買って、自分で刺身にしたから、安くて家族で食べることが出来た
私は量的に多くは食べられない、小鉢風に5品ほど少しずつ食べる
ごはんも、18日の第一回目の外来通院まで全粥で通そうとしている、

時々ラーメンを食べたくなる、週5回は食べていたラーメン
ラーメンは油脂が多い上に、消化が悪いと来ているから大腸の手術後には最も適さない食事だ
ところが我が家の台所、私の部屋には生めん、カップ麺、袋麺が幾つもある
いったいいつになればラーメン解禁なのか、賞味期限が切れる前に解禁してほしいが
ただ食べ物については最近神経質と言うか、慎重になっていて栄養士がダメと言ったものは自然に我慢できるようになった
また、良いというものは、嫌いだった食材でもおいしく食べられるようになった、これは不思議なことだ。
私が通っていた同級生の食堂にもずっと行かなくなった、きっと「どうしたんだろう」と思っているだろう、彼は私の入院を知らないはずだ

こんど、ある会で7月に歓送迎会をすることになった
私は秋まで酒宴には参加しないと言ったが、今回は本格的な日本料理のコースだというから参加することにした
さっぱりした白身魚のさしみはOKということだし、焼き物や煮物も脂が無ければ大丈夫だ
茶わん蒸しや吸い物も大丈夫、野菜の煮物ならなおさら良い
量的に食べすぎてもいけないから、そこは考えながら食べることにして、飲み物は皆さんは飲み放題にしたが、私については幹事がすでに店主に頼んで飲み放から外してもらった、ウーロン茶か番茶のがぶ飲みで宴席だ

11月には、この会の旅行もある、去年初めて行い評判が良かった
私が二日間運転手を買って出て好評だった、今年もやることが決定しているので、すでに8人乗りのレンタカーは先月中に予約してある
私としては、今年も運転をする気でいるから11月までに万全の体調づくりをしたい
「食べたい」「遊びたい」をエネルギーにして体の全快を計ろうと思っている
私にとって未知の病、18日の医師との面談で、これからの生活方法がわかる
まずは、そこに向けての体つくりだ

手術前68㎏だった体重が今は62㎏、6㎏痩せたが3㎏は不要物が体内に在ったのを取り出したので、実質3㎏の減だ
ありがたいことに胃から下のポッコリが無くなって、スマートなラインになった、この体形は維持したい
それに健康診断の度に62㎏が標準体重だから、そこまで減らすように言われていたから今がベストなのだ
不健全に痩せていなければ良しだ。

昨日は鳥ももの開きを買ってきて、塩こうじに付け込んで焼いたら旨かった
それで今度は豚肉の赤みを買ってきて、塩こうじ塗って寝かせた
塩こうじは肉を柔らかくして、しかも旨い、塩分過多に気を付ければよいおかずになる。
あとはヨーグルト系を毎日食べて腸内を整える。

今飲んでいる薬は一種類だけだが、これは肝臓の薬だそうだ
退院前、血液検査で肝臓数値だけが、標準の少し上に行っていたということで薬の継続となった、一時はかなり高かったが、ぐっと下がってあとひと踏ん張りだと医師が退院前に言った
薬の影響なのか?血圧と体温が低めだ、血圧は100台、体温は35.5度
但し体温は入院前からずっと私の平熱だから問題ない、血圧がもう少し上がった方が良い
入院前は110~120くらいだったから。あと少しなんだがなあ。
いずれにしても、今後は病院と仲良くしていくことになるだろう。

昨日の夕食  野菜の卵とじ ブロッコリー ナス田楽
ひきわり納豆、アジのさしみ 全粥 麦茶



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (111) 長尾家 24

2024年06月14日 19時52分56秒 | 甲越軍記
 この三条長尾家に金津新八という士が仕えていたが、彼は景虎の幼き時からの守役の金津新兵衛の弟である。
新八は近頃の主人平六郎の暴悪を憎み、しかもこれから討とうとしている景虎に従う唯一の従者が兄であることを知り、この危機を知らせねばと百姓に身をやつして、浄安寺に走り、このことを告げた。
景虎は、これを聞いても少しも慌てず「さようなこともあろうかと思っていた、速やかにここを出て府内に戻ることとしよう」と言って、新兵衛と寺を去った。

その後に間もなくして股野荒河内が三十人の士卒を率いて馬を飛ばし、浄安寺に着き、寺内をくまなく調べたがどこにも景虎主従の姿は無かった。
「これは気が付いて既に逃亡したのであろう、ここで取り逃がしては館に顔向けできぬ、直ちに街道を追って、何が何でも首を取らねばならぬ」と揉みに揉んで後を追った。

景虎と新兵衛は道を急いでいたが、こちらは徒歩である
まもなく後方から馬の集団の音が聞こえ、土埃舞い上がる姿さえ見えるようであった
「さては進退ここに極まった」と景虎は言い、新兵衛を密かに農家の小屋に隠れさせて、自分は近くに居たみすぼらしい孤児らしい少年に声をかけた
「そなたの着物と儂の着物を取り換えようではないか」と言って、早くも脱ぎだすと、孤児は喜び、きらびやかな衣装に手を通した
景虎はシラミまみれの、つぎはぎだらけの上に、なおも破れたる汚れた衣を身に着け、髪を乱れさせた。
そして孤児に、「そなたは、この街道を西に向かって急ぎ足で歩いてゆくが良い、かならずや良きことが待っているであろう」と言った
孤児は喜び勇んで街道を走って行った。

景虎は辺りを見回すと、少し高い山際に辻堂があるのを認め、そこに入って内から石を当てて戸を閉めた
そして忍んで街道を見れば、先を行く孤児の跡を馬を走らせた武士が近づくと韋駄天の如くたちまち追いつき、白刃一閃の早業、声も無く童の首と胴は真っ二つに分かれて倒れた。
荒河内は童の首を衣の袖に入れて、勇み立って馬首を翻して一団となって去っていった。

景虎と新兵衛は頭が無い孤児の遺体をねんごろに葬り、「われが世に出た際には、厚く弔いを致すゆえ許し賜え」と言って、その場を去った。
府中に着いた景虎一行は、まずは屋形兵庫守にまかり出て挨拶をした
兵庫守は景虎の才覚を愛していたので、晴景に景虎を府内の城中に住まわせるよう命じた、以後兄の養育を得ることとなった。

暑いので浜辺へ行って来た

2024年06月14日 06時56分31秒 | 散歩道
 この数日は30度前後が続き、不快感極まりない
それでも夜になれば涼しくなり、昨日はシャワーを浴びて少し寒さを感じていたから、まだ夜の寝苦しさは無い。

私が20日近く入院したことで、我が家のルーティンもいささか狂ってきた
特に食事の事と、毎週の息子とのドライブの二点が大きく変わった
食事は特に食べて良いものと悪いものが決まっていて、それは女房殿と私が、管理栄養士さんから指導を受けたので理解したが、作業分担が最初はかみ合わなかったが、そこは栄養士と調理師の夫婦だから今はようやく分担がうまくいきだしている。

もう一つの息子とのドライブは、今までは長野と高岡へ毎週交互で行っていたが
私の体調からみて、距離的に無理があるし、毎週もきついだろう
それで片道15km以内に決めて、更に隔週と言うことにした
隔週案は私の入院以前から考えていた、それは諸物価高騰が原因だった
ガソリン代、高速代、おやつ代、食事代がかかるが、去年と比べても確実に30%以上上がっているので、収入が年金だけでは家計的にも厳しい
それで隔週を考えていたが、今度の入院手術でいやおうなく決定した。

今日は、一昨年の夏に毎週行っていた浜辺に久しぶりに行って来た
午前3時間、午後2時間、二度にわたって行った
浜辺は暑い気がするだろうが、一昨年の経験で家にいるより遥かに涼しいことを知っている、日差しがあっても海岸は涼しい
風が通るし、意外にひんやりしている、車の中でも窓を全部空けて、本を読んだり昼寝をしたりしたが良い風が通って気持ちよかった。

こんな状態でも散歩は必要なので、午前と午後二度散歩をした、流石に砂浜はきついから、ウオーキングロードを中心にして、後は草原の中をカメラ片手にプラプラゆっくり歩いた
小幅でゆっくり歩き、時折立ち止まって花や景色を撮って歩いた、ウォーカーやランナーが追いこしていく
二回の散歩で4000歩近く歩いたので、我ながらビックリした。
隔週で近間ということで気分的にもゆとりが出来た、散歩でちょっと停滞気味だった腸の動きも良くなってきた
無理せず、やわやわと夏を乗り切ろうと思っている。

 


 











「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (110) 長尾家 23

2024年06月13日 19時23分16秒 | 甲越軍記
 越中で守護代の長尾信濃守為景が討死、松倉城に在った宇佐美定行も越後に撤退してきて、府中の城内では「越中勢が勢いのまま府内に攻め込む」という噂が広がり、上へ下への混乱となった。
事実、神保、江波、松岡の越中の軍勢は国境を遥か超えて府内に迫っていた

しかし越後は大国である、たちまち府内には、まずは長尾の一族古志駿河守秀晴、長尾平六俊景、上田越前守房景、館四郎兵衛景高、上田修理進景国、刈羽相模守景親、栃尾佐渡守景冬、飯野右馬允景久をはじめ、長尾与力の諸将、追々府内にかけ集まり城中の詰まり詰まりを厳重に固めた
これを見て、府内に在った為景の家士、照田常陸介、同将監、その子、黒田和泉守、金津伊豆守を始め、大いに力を得た。
そして越中勢が攻め寄せたなら、我らは真っ先に打って出て駆け散らさんと勇み立つ。

神保ら越中勢は国境に陣を張っていたが、越後国府に長尾の一門衆が続々と集まっていると聞いて「為景亡き後、長尾勢は弔い合戦の意味もあって死に物狂いで仇を討つ戦をするであろうから迂闊に手を出しては、こちらが危うい」
神保修理はそう言ってから「このような状況で勝利するには、敵を謀で内部から崩れさせるのが一番である、幸いに為景の旗本である照田常陸介親子は欲深く、欲を持って誘えば、こちらに寝返る気持ちは大である」
そして腹心の勇士、松野小左衛門を呼んで言い含め、越後府中に遣わせた。

しばし膠着状態が続き、越中勢の攻め寄せる気配も無く、府中では為景の仏事作善を営み、嫡子、長尾弾正左衛門尉晴景をもって館と定め、みな忠誠を誓った。
晴景、このとき四十歳、性質は暗弱にして父の仇を果たす気概など毛頭なく、深閨に美女を集めて夜となく昼となく酒色にふける有様であった。
政治も怠る様を見て、忠誠を誓った諸将もいささか疎かに感じるのであった。

そんな中、中越後の三条には長尾一門の、長尾平六郎俊景という領主があった
その祖先は長尾高景入道魯山の嫡子、長尾上野介入道性景の五代孫である。
代々三条に住めば、三条長尾殿と一門から呼ばれて一目置かれている
俊景の武勇は人に勝り、周りもそれを認めるがために、俊景は常に府中の長尾家を押し倒して越後をわがものとする欲望を秘めていた
しかし為景がいるうちは、流石に手を出せずにいたが、この度為景が討ち死にしたのを幸いに、暗弱な晴景に反逆の意をあらわにした、これは越後守護上杉兵庫守定実にも背くことである。
いよいよ府中へ攻め入ろうと考えて、味方を募った。
これに呼応して、下越後、中越後の諸将、柿崎和泉守、同弥三郎、篠塚宗左衛門、森備前守などが三条に集まり、たとまち近隣を侵して、従わざるものは討ち取り、あるいは放火をして、士卒らは民間の家々に押し入り、略奪を繰り返し、婦女子を奪い乱行は目もあてられない。

平六郎俊景は、府中の館、長尾弾正左衛門は年長と言えども愚将ゆえ、少しも怖れぬが、末子の喜平治景虎は幼年と言えども、行く末恐ろしき者であると思い、後々の災いとなる前にこれを滅するべしと考えた。
幸いにも、景虎は為景の不興を買って今は家臣も無く下越後の浄安寺にいるので、殺すはやすしと股野荒河内という猛将に「急ぎ景虎の首を討って持ち帰れ」と命じた。


退院して一週間過ぎた

2024年06月12日 18時49分15秒 | 病気と健康
 50年前、盲腸の手術で入院した時は、オナラが出るまでは退院できないと確か5日位入院していた。
手術後の1~2日間は患部の痛みが強くて、何度も痛み止めの注射を太ももだったに射ったので、退院後には今度は足がこわばって、なかなか歩くのに苦労した
正常に戻るのに数日を要した記憶がある。

あれから50年後に大腸がん(腸閉塞)で二度目の手術をしたわけだが、手術前も手術後も少しの痛みも無かった
それは当然で、全身麻酔と背骨からの点滴麻酔で手術をしたあと、背骨の麻酔(痛み止め=麻薬成分入り)は退院まじか迄ずっと外さず点滴を続けた
これは腕からの点滴と違い、ボトルタイプの液ビンから液体がくるもので、流し込む量を調整できる
手術直後の夜には、血圧が70にまで下がったので、ある意味一回目の危機だったのだが背骨点滴量を半分にしたことで血圧が100近くまで回復した。
その後もずっと背骨から離れず、退院3日前くらいに最後に抜いた管の仲間となった
これのほか点滴にも別の痛み止めが流し込まれていて、ずっとダブルの痛み止め注入、そのおかげで一ミリの痛みも感じなかったのがありがたかった。
点滴が終わった後は、飲み薬の痛み止めに変わった
それでまた痛みはまったく感じなかった、だがなんとなく腹部の違和感の感覚が出て来た
退院後は痛み止めの飲み薬も終わり、とうとう痛みを知らずに終わった
だが痛み止めばかりでなく腹部の感覚全てをマヒさせていたので、それが無くなった今は腹部のツッパリ感や、少しの痛み(というほどではないが)を感じる
なんとなく違和感があるのだ、だがこうした処置が無ければ、その痛みは盲腸の比ではなかっただろう
本当にありがたかった。

手術が終わり請求書が来た、内科医による深夜6時間の救急処置、9時間の外科手術などの費用は膨大な金額になった
100%の請求額だが、私の年金の約7か月分、それが保険制度で2割負担で済み、さらに高齢者の所得による上限額で差額ベッド代(空き部屋が無く一週間そこに居てから大部屋に移動)を加えても年金1か月分以下で支払いが済んだ日本の社会保険制度の優秀さを見た気がした。
父も何度も入院をしたので支払いのたびに「老人は入院費がかからんようになっとるから心配せんでいい」とよく言ってたが本当だった。

アメリカあたりでは(知らないが聞いた話)こういう制度は脆弱でほとんど自己責任、生命保険、入院保険に頼るのだとか。
もちろん国がただで全額出してくれたわけではない、私も18歳からずっと健康保険を55年間かけてきて(会社も同額拠出してきたので積立額は2倍)、健康体ゆえそれをほとんど使わず国にプールしておいたのを今回返してもらったという感じか。
それでも、それが無ければうやむやの内に使っていた金だから、こういう制度はありがたい。

今日の夕食




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(109) 長尾家 22

2024年06月12日 08時02分11秒 | 甲越軍記
  攻寄る越石に、若武者も声を上げて応え、物々しやと思う間に槍を上げて突きかかってくる
縦横に討ち合うが、越石は新手でしかも老練の武者、ついに若武者の冑は突き落とされた
すると大童(おおわらわ)となった髪を振り乱し、その丈までの長い黒髪、よくよく見れば、年頃二十ニ、三の女である
眉を抜き、化粧して黒々と歯を染め、唇に紅を施した若武者は、小姓ではなく、為景の妾、松江という女であった。

この女、姿は妖艶美貌といえども、性質は勇力あって男子に勝れば、為景はことに寵愛して常に戦場に伴い、その都度、高名の手柄を上げていた
此度、為景の最期を見て、その身も討ち死にと定めているためその勇威には、当たりがたく、冑を飛ばされながらも松江は越石をも突き殺した

松江の勇威は、古の木曽義仲の愛妾、巴山吹と並び立つと思うほどのものであった
もはや一騎打ちで松江に向かう者はなく、ただ遠矢にて射るばかりであった
松江の鎧は蓑の毛のように矢だらけになった
そこへ蒔田主計と名乗りて疾風の如く松江に駆け寄る武者一騎、松江もござんんなれと、これを最後の戦と迎え撃ち、上に受け、横に流して戦ったが、もはや疲労の限界に達していた
松江の一撃が反れたのを見て、「いまぞ」と蒔田は槍を投げ捨て、松江に組み付き、共に馬から地上に落ちた
そして力に勝る蒔田は松江を幾度も叩き伏せて、ついに生け捕った。
蒔田は松江を縛って本陣に連れ帰った
神保はしばらく考えてから、この女の勇力を思い、蒔田に預けることにした
蒔田は壮年と言えども独り身であったから、松江を妻に迎えようと思ったが
松江は婦の道を守り、両夫にまみえるを恥じて、ことに敵国の夫に従うことなど有るべからずと、その夜、自害して果てたという。

かくして、長尾勢は散々に蹴散らされて越後に逃げ帰る者、松倉の城に落ち延びた者、引きも切らず
越中勢は敗残兵を追い、松倉の城に付け入らんと攻め寄せた
松倉城の宇佐美定行は、大将長尾為景討死を聞き、直ちに兵を送って迫りくる越中勢を追い返した。
そして敗兵を快く城内に入れて、兵を集めて休ませた
宇佐美定行がかっては長尾為景と五分以上の戦をしていた越後最高の智将であり勇にも仁義にも厚い名将であることは越中にも鳴り響いていた
越中勢も勢いのままに追ってきたが、迂闊に攻めることもできず、ただ遠巻きにして陣を構え、たまに矢合戦をするばかりであった。

宇佐美は、このような膠着状態にもはや、ここに居る意味も無しと考え、城中の蔵を開き、武器、兵糧を取り出し、城下の町人を招き入れ配り与えた
ねんごろに暇乞いをして越後にしずしずとひき退くのを、城下のものたちは、日頃の宇佐美の仁慈の計らいに感じ入り、数千人が弓鉄砲を持って、越中、越後の国境境川まで警護して見送った。
越中国の住民なれども、宇佐美勢を子が父母とわかれる如く涙を流して見送った。

編者(速水春暁斎)曰く
 長尾為景は性質、勇猛大胆にして、数百回の合戦在り、これは世の将にも其の類を聞かず
また主を弑する悪逆ありと言えども、和歌に通じる風流も持ち合わせて数百首を残す、その中の一首
「蒼海のありとはしらで苗代の水の底にも蛙なくなり」
この一首、まことに叡感ありしとなり。


動き回った一日

2024年06月11日 19時56分50秒 | yottin日記
 今日は夏日で28.5度まで上がった、夕方もなお西陽は暑く、畑に水をやるでさえ汗をかいた。
午後7時半になっても二階のわが部屋は29度のまま、風も無く、ぼ~とした暑さに不快指数は上がるばかり。

退院後のブルーな気持ち、ネガティブなブログ日記とは裏腹に、日中の活動は、また元気を取り戻しつつある
朝は相変わらずの病人食を作り、10時からヘアカットに美容院へ行き、帰り道に病院へ寄って保険の手続きを済ませた。
また昼ご飯を作り、食べてからしばしテレビを見てから昼寝、しかし熟睡する前にかって取引があった業者から、自販機の引き取り日時の打ち合わせ電話が入って起きてしまった。
それで、もう寝る気も無くなり車に乗って、県の役所に自動車税の減免申請に行って来た、その後、入院時に励ましてくれた友人二人の会社と自宅、それぞれを訪ねて回った
戻ってくれば、もう夕食を作る時間で、仕込みをして自動調理機のボタンを押してから、庭の畑に出て野菜に水やり、ナスに追肥をした
そして夕飯を食べればもう夜だ、これから風呂に入って、ブログをチェックすれば、もう就寝時間の22時になる
夜はテレビを見ないから、自由時間は2時間ほどある、退院以降就寝は22時、疲れた時は21時に寝る
朝は4時過ぎに起きていたが、流石に意味も無く起きているのは体に良くないと、4時だろうが5時だろうが目が覚めても布団から出ないで、時には二度寝もする
朝は特にスローな時間をこころがけるようにしている。
明日は久しぶりにボランティアの会合に参加する、事前通告なしなのできっと驚くだろう、人を驚かせるのも趣味の一つなのである、悪趣味ではあるが・・。

今日の昼食はソーメンを食べた、「揖保乃糸」が一番好き







「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(108) 長尾家 21

2024年06月11日 06時11分07秒 | 甲越軍記

             長尾為景討死

 再び、越後長尾勢は越中勢の罠に陥り、大軍も粉々に打ち砕かれ、日頃は勇武を競う強兵も、今は我先に逃げんとして右往左往する始末
大将、長尾信濃守為景は逃れるところがないと知ると、死賊となって群がる敵の中に喚き叫んで切り裂いて進んだ

神保左京進は千騎を率いて越後勢を斬りまくったが、遥か向こうに為景の姿を認めると、部下の中から精兵を選りすぐり「あれに見えるは敵の大将長尾為景である、あれ一騎を討ち取るは百騎、千騎の雑兵を討ち取るよりも勝るべし、手柄を立てよ」と励ますと、精兵は我先に為景めがけて馬を飛ばした。

為景は既に今日が最後と覚悟を決めたので、よせ来るこれら敵の精兵をもものともせず斬りまくり、早くも六、七騎をたちどころに切り落とした
阿修羅の様なその姿に、神保勢は誰一人近づくこともできず、遠くより矢を射かける、すでに為景は蓑の毛のように全身に矢を受けていたが、その勢いは少しも衰えない
神保勢が為景を恐れて道を開くと、今度は、それに代わって江波勢が為景に向かってきた
為景が頼りとする旗本、元吉八郎、渡邊備中、大郷新八郎らは切っ先を揃えて押し寄せる敵を薙ぎ立てていたが、それぞれに壮烈な討死を遂げた
なれど為景はただ一騎、数か所の傷を負いながらもなおも勇気凛々として少しもひるまず、ますます猛って江波勢を悩ませた

そこへ江波の勇士、江崎但馬が槍をしごいて為景に討って懸かる
為景は眼をクワッと開き、陽に開き、陰に閉じ上段下段と戦ったが為景の運もついにここに尽きた
但馬の槍を受け損じて胸板を貫かれ馬よりどっと落馬した
江崎但馬は駆け寄って馬乗りになって為景の首を取った

ここに長尾勢より容顔美麗なる若武者が一騎緋縅の鎧に、中二段を紫革にて縅したる、半月うちたる冑の緒を締め、片鎌の手槍をしごき、江崎を見て突いて懸かる
江崎但馬、槍を合わせて討ち合うところに「それがしにその敵を任せたたまえ」と神保勢の中から岡島太蔵が馬をかけて江崎に代わり、敵の若武者にかかったが、この若武者の槍先は鋭く、ついに岡島太蔵を突き落とし、なおも進んで討って回る
その槍先は当たりがたく、藤本三弥、水輪田之助、教来興次郎が若武者のために命を落としたほか手傷を負うたものも五、六人。
越中勢はわずか一騎の若武者を恐れて、遠巻きにこれを見る
若武者も、しばし馬を休め槍を休めて凛々しく立つ姿は、あたかも牛若丸の様である
見る者の目を驚かし、肝を冷やす

神保左京進は遠めにこれを見て「あれなるは為景の小姓に違いない、あたらあのように見事な若武者は殺すに忍びない、誰ぞ生け捕って儂の前に連れてくるように」と言えば、越石縫殿(こしいしぬい)がさっと馬を走らせて、若武者に挑みかかった。


 


前の生活、後の生活

2024年06月10日 21時13分15秒 | yottin日記
 春のドラマ「くるり誰が私と恋をした」を見ている
あるOLが階段から転落して記憶喪失になり、性格まで変わってしまう
以前は結構嫌な女だったらしいが、今は性格も良く周りからも愛される女性になっている
彼女を巡って三人の男が争奪戦を繰り広げるドラマ、そして多少のサスペンスもにおわせる。

まったく違う話になるが、私も入院前の生き方と、今の生き方がかなり違ってきたと自覚している
それより、入院前の自分が考えていたことや、やっていたことがだんだん記憶から抜けていく、しかも入院前の考えを否定し始めている
中途半端な断捨離で一向に進まなかったのが、今は未練も無くどんどん思い出の品や、生涯保存版だった品をゴミ箱に捨てている。
やはり死生観が大きく変わったのだと思う、かなりリアルに現実的に思うようになってきた
そうなると持っていても仕方ないものが見えてくる、更に言えば持っているものの80%は無くても良いものに思えて来た
何もない身軽さに今は魅力を感じている、これからはシンプルな生活が良いと思う。
もっと言えば、「年甲斐もなく」を結構やって来た、これからは「年齢通り」に生きていくのが楽だと思う。
「年甲斐もなく」とは年齢以上に無理をした状態であり、また煩悩をどんどん増やしていくことである
もう煩悩は卒業しよう、74歳と同時にこんなことになったのは、やはり天啓なのだと思わざるを得ない。
「スローな生活」も悪くない、好々爺で生きていくのがもっとも人間らしい生き方なのだと思う。

風に吹かれて・・・ボブ・ディラン