多分、「八朔」です・・・何時花が咲き、何時実を大きくしたのか、まるで気づかなかったのです。
最近になって連続しない記憶に気づく瞬間(トキ)があります、老化現象と決めつけるには、ちょっと恐ろしい気もするのですが、一方で、受け入れている自分がいることも自覚しているのです。
それでも、毎朝、自然に落ちている八朔の実を拾い、中身を取り出してヨーグルトをかけたデザートを食する時間は、私の至福の時間なのです。
またもや「申告作業」は中断中・・・完了という達成感のない半端な気分を、理解しろ!と言う方が、ま、勝手が過ぎるのだろうと自問自答している。
この頃、ほんの些細な出来事なのだが、周囲の反応が自分と微妙に違う事を察するようになった。
いや、だからと言って自分の気持ちに同調してくれとは言わないけれど、「えっ、どうしてそう考えないの?」と、しばしば、立ち止まってしまう事が出てきたのは何故だろう・・・と考えている。
例えば、少し認知症になったのでは?と感じる友人の事を友人の家族に連絡しておきたいと妹に話した時、妹は、それはお節介だと言うのだが、そうなのだろうか?
自身、友人に付きっ切りという訳には行かないし(時間的にも距離的にも)、その上、友人の携帯電話に不具合が出て来て連絡も儘ならない状況になり、とても自分のみでは対処できないと思えることが多くなったから、ある意味では、責任を分担して貰いたいと思ったのだが・・・
またある日、友人の車で出かけた時、ぼちぼちと目立ち始めた観光客からある目的地への道順を尋ねられた。
そのあとの彼らの行動が違う方向へ進んでいるように見えたので、友人に彼らを追ってくれとお願いしたら、友人は、分からなかったら、また、誰かに聞くでしょうから・・・と言う、いやいや違うでしょう?間違っていることが分かっているのに、私は見過ごせないと言って彼らを追って貰った。
等々、こんなどうでもいいことかも知れないが、それを放っておく自分自身が許せないと思ってしまうのだ。
今までは、他の意見などは参考にしても、それに基づき行動する選択はして来なかった。
だから、何が正しくて何が間違っているかより、自分が行動を起こさないでいることである種の罪悪感みたいなものがしこりとして残ってしまう。
昨日も、先日に、一応、約束したことを自分の都合(と言っても用事があってでなく、天候不順で気分が乗らなくて)でキャンセルした、そんな自分の偽善者的行為を見るにつけ押しつぶされそうな気分になる。
しかし、そこはイイ加減を併せ持つ身としては、こんな自分自身を納得させる手段も、当然、用意してあって、これは、行動力が無くなって、すぐ行動も解決策も講じることが出来ないでいる自分を正当化しようとしているに過ぎない・・・とね。
身軽に気楽に動けないことも、もう、受け入れるべきなんだろうな・・・