花壇の雑草を取ってから、ゆっくり「アジサイ」の撮影をするつもりが、先に花が枯れて来てしまいました。
相変も変わらずの後手後手で・・・再び?三度?かな、ここで一挙に掲載して辻褄合わせを致しました、いえいえ、手抜きをしたい訳ではありませんが・・・でも、これって、どう見ても手抜きですよね
花壇の雑草を取ってから、ゆっくり「アジサイ」の撮影をするつもりが、先に花が枯れて来てしまいました。
相変も変わらずの後手後手で・・・再び?三度?かな、ここで一挙に掲載して辻褄合わせを致しました、いえいえ、手抜きをしたい訳ではありませんが・・・でも、これって、どう見ても手抜きですよね
上記:5月29日現在
最近、少し手抜きをしていた「イワタバコ」で・・・そう、つまり、昨年より株が小さくなっていると感じて、このまま放置していたら、来年の花は大丈夫だろうか?と不安になり、今頃になって「水遣り」をした。
このところ、我が家の他の山野草も、何故か、育たないように見えるが、「気候変動」の所為と言えば責任を逃れられそうだが、やはり、手入れ(愛情不足? or 興味が薄れてる?)が足りなくなっているのだろうと思っている。
少~し「燃え尽き症候群」的な状態だった私なので、相変わらず、強制的に無駄なエンジンを吹かして、重い体を動かそうと試みているが、目の前に累積している作業(主に草取りであるが)は思うように捗らない。
この時期だからだろうが、作業が、漸く一つ片付いたと周りを見まわすと、却って二つ位作業が増えている感じがする・・・あぁ、やれやれ・・・と溜息を吐く。
先週(9日)に友人と「美味しい珈琲」を堪能する予定だったのが変更(16日)となり、目標が遠のいて気持ちが落ち込み、余計体が重く感じて一層、エンジンの掛かりが悪い。
そんな状態の時に、また、街に住む友人が、突然、訪ねてきた。
友人には「我が家に、何時、来ても構わないけれど、家を出る前に連絡をして」と何度も話してあるものの、全く効果なし・・・もう、何も言う気力もない。
ま、それでも「何かあったの?」と聞くと、友人の知人が「個人破産」をしたのを聞いて、眠れないほどショックを受けてしまったと言うのだ。
私自身は、その人に面識は無いから「ふ~ん」と言うしかない、だから、「貴女が心を痛めているとしも、その人の力になれることがあるの?私には、貴女の悩みは意味は無い事だと思うよ」と告げた、そして、「もしもその人が貴女を訪ねてきたら、黙ってお茶にでも誘ってあげたら?」と話したが、私って優しくない人間だ・・・と、友人は思ったことだろうと感じた。
私には、ちょっと認知気味の友人が面倒に巻き込まれて欲しくない方が大事だったからだが・・・友人は我が家に一泊して帰って行った。
夏野菜の栽培を止めた姉が、それでも「九条ネギ」だけは植え替えたいと言う。
で、すっかり草畑になってしまっている畑に出向き、とりあえず、雑草を刈り取った、後は甥が耕運機を入れるだけなのだが、甥の都合がつかない様だったら、私が耕運機を入れられるよう気持的準備(すぐに立ち上がれないからね)はして置く。
19日午前10時半。
友人の車でのお迎えを受けて、待ちに待った「ランチ&お茶」に出かける。
毎度馴染みのカフェなのだが、店内のテ-ブル配置にゆとりがあるので、ホントに、の~んびりと寛げて気分が解放される・・・とりとめのない話を3時間程しながら、ランチ(ホットサンドセット)、ブレンド珈琲2杯、デザート(抹茶モンブラン?)を味わう。
珈琲はやや濃いめで私向き・・・ちょい残念だったのは、思う程、珈琲の香りに包まれなかった事かな?
とは言っても、香りが感じられなったのは私の嗅覚がオカシイからで、お店には何の罪もありません!
私のこの癒された気分は、さて、どのくらい維持出来るのかなぁ・・・最近の感覚では、癒しの維持は短くなっていると思うのは、何故だろう?
明日からも、まだまだ強制的エンジン始動を試みる必要性は消えそうもない。
根の管理下にある「ブラシの木」は、オーストラリア全域からニューカレドニア辺りの花木だそうだ。
この木の背丈が、大分、高くなっているので、通常の目線では開花したのが分からない事が多いが、姉宅の2階から見ると「豪華絢爛」に咲いているというので、早速、カメラを持って2階ベランダに赴いた・・・ホント、目が覚めるようなカレイさである・・・でも、日本の田舎風景には合わないような気もするなぁ。
ここ数か月は、珈琲専門店で焙煎された珈琲(殆ど貰い物だが)を飲んでいた為か、一般のスーパー等で購入できる珈琲が、何故か、香りも味もあまり感じられない(殆ど無いと言ってもいいような程)気がする。
かなりの中毒と認める私だから、美味しくないって言いながらも、一日、大きなカップでちょい濃いめを、最低でも3杯、多い時は6杯(夜中でも飲む)くらいが日常なのだが、やはり、満足感が無いので、常に、珈琲に対して飢餓感を感じているのだ、当然、飲んでも飲んでも癒されないのである、それが辛い・・・のかも。
でも、その原因は珈琲其の物と言うより、我が味覚が、大分、イカレて来ているのだと思う。
その証拠に、どんなに豪華・贅沢なものを食しても美味しいと感じられないのだから・・・殆ど終末的状態な気がする。
唯一残されている楽しみである「食べる事」に満足感を得られないのでは、もう、生きてる目的が無いのじゃないか・・・ま、そこまで大げさではないとしても、かなり真実を突いていると思える。
今は何よりまず、香り高い珈琲に包まれ、ゆったりと癒される時間を過ごせたらならば、きっと、「美味しい珈琲」を飲んだという実感も沸き出そうと、自分勝手に想像する、で、そこに「美味しいパン」もあったら、もう申し分ない・・・とね。
そんな訳で、今週はある珈琲専門店(サンドも、結構、好みだし)に出かける予定を立てた。
人間は(否、自分だけ?)、ホント、傲慢で、贅沢で、身の程知らずで、無いものねだりで・・・分かっているけれど、今は唯々、「美味しい珈琲」を飲んで癒されたいのである・・・私って、疲れてる?
雨や台風のニュースに踊らされ(と言っても、自分だけの感情で踊っているのだが)ストレス満杯だった「遊びの会」が、とりあえず終わって、全身、力が抜けたような気分。
言いたくはないけれど、つくづくと我が身の年齢を感じてしまう一日だった。
それでも、つかの間の邂逅を楽しんでくれた同級生たちには感謝しかない。
で、ほゞ抜け殻的な脳細胞に、本日も休養を与えることをお許し願いたい。
・・・・「我が家の庭のさつき達」・・・・
本日(7日)現在、ほゞ、80%の花が咲き終わり、ちょっと見苦しい状況だが、これも自然のサイクルと好意的に眺めている・・・と言うのは、まさしく手入れを怠けている言い訳・・・よね。
「デンドロビューム」だと思う・・・母の生存時、「母の日祝」か「敬老祝」かに、誰かに貰ったものだったらしいが、あまり興味が持続しない母が放置していたものを、何時の日からか私がお世話を担当することになっていた。
今年、余りにも密集して来たので、もう母もいないことだし、枯れてしまっても元々と言う気持ちで、イイ加減に三株に分離、別の鉢に植え替えたのが、どうしたことか、三株共花芽が出て、只今、咲き誇って(とまではいかないかな?)いるのだ。
何か、私のイイ加減さを見透かされているような、この花の根性を見る思いである。
6月に入るや否や、もう「梅雨前線」が列島に停滞しているというではないか・・・気持ち、うんざり・・・である。
6月2日金曜日、昨晩から雨が降り、朝方より、かなり大降りになってきているのは、台風と梅雨前線との相乗作用らしい。
気になっていた「遊びの会」開催時の台風は避けられそうな気配に、やはり安堵感を感じている。
今は、何事もなく会が終了出来ることを祈るのみ・・・そう、やはり、この歳になると突発的な出来事も発生するだろうから・・・ま、次から次へと気を抜けないのは想定内。
先月中旬、同級生が行動不如意になり施設のお世話になっていたのを見舞った際、殆ど車椅子でしか行動できない様子に、ある意味ショックを受けた。
と言うのは、たとえ歩行困難であっったとしても車椅子が使用できるならば、施設近隣に外出できるのではないかと思っていたから、私が付き添っていくならば外出は可能かと聞いたところ、同級生曰く、多分、職員が付き添わなければダメだと思う・・・のだそうだ、でも、詳しく施設側に問うた訳でもないから断言はできない・・・でも、それを聞いたら、「そうか、でも面倒が嫌だしなぁ」と思ったのは事実である。
半年に一度、様子見まいをするようにしている先輩友人(93歳くらい?)のご家族に電話をしたら、今、入院中であり、面会は一切出来ないと教えられた。
正直、来るものが来た・・・と思った、それなりに覚悟は出来ているつもりだが、もう先輩友人の顔を見ることなくその日を待つこと自体が切ない気がする、自分勝手な思いだが、それなりに、合ってお別れがしたいと思ってしまうのだ。
本日、思い切って友人の娘さんに電話を入れたところ、今のところ、動くことが出来ず、寝たきりなので筋肉も衰えて食事は介添えを必要としするが意識的にはしっかりしているというのを聞いて少し安堵、その後リハビリの予定もあると言うので、会えるようになったら何時でも連絡して、会いに行く準備はしているからね・・・と伝えた。
もう一人、私の突飛な海外旅行にはいつも同行してくれた旅仲間だ、関東圏に住む彼女も歩行困難な状態にある。
前回会った時、4月になったら、また、会おうね・・・と言う約束をしているが、未だに未実行だ、つまり、私が迷っているからだが・・・何時も東京で会っているが、彼女の歩行困難を考えると東京まで出て来てもらう事に私が躊躇している、でも、彼女は「東京に行くよと」言う、それを尊重すべきと思いながら途中事故でも起こしたらと言う不安も出てくるのだ。
今月中に連絡を取って、どうするかの結論を出そうと考えている。
かように、次から次へと自分から気がかりな問題を作っているのだという認識はあるものの、どれも放置できないでいるのも自分である。
これからは、この状況は、もっともっと増えてくる(自分自身のことも含めて)だろうし、全部のことに対処は出来ないという分別も十分あるつもりだ。
どこに踏ん切るラインを設定するかは、自分自身の問題なのだ・・・雨の日には、そんな思いが募る私である、だから雨の日はちょい辛い。