上部画像:クレマチス3種
上部画像:ヒメヒオオギ2種
相変わらずと言うか、案の定と言うべきか・・・屋敷内も畑の花壇も(畑は近所住まいする妹が「草茫々農法」とかで使用しているので手は出さない)雑草取りが進まずに、連日の雨模様天気に入ってしまった。
まさか、「既に梅雨か?」とは思わないものの、この連日の雨は、さぞかし雑草にもいい影響を施すだろうと予想は出来る。
だから、雨が上がり、眩いばかりの太陽の光を浴びた後の畑や花壇の惨状が思い浮かんで、我が心は萎えるのである。
以前にも言ったと思うけれど、最近の我が周囲の出来事を思うにつけ、元気でいたいと思っても、明日の自分だってどうなるかは本当に未定なのだと実感しており、一つ一つの出来事を完璧に解決するのでなくても、少なくとも、後で後悔しない程度には解決を図って置きたいと考えようになった。
で、先日亡くなった親戚であり同級生でもあった知人には、幼馴染であり、また私にも同じく同級生であった友がいた。
知人が病に伏していることを聞いた幼馴染の友は、自分もお見舞いに行きたいから、今度自宅に同行させて欲しい旨、依頼されていたのだが、私自身の気持ち的に、どうしても快く受け入れることが出来なくて、とうとう生前に会って貰うことが出来なかったのだ。
しかし、私自身がモットーとしている「もうこれが最後になるかもしれない」という考えとズレているということは、十分、承知しているから、随分、葛藤はあった。
ただ、何故躊躇していたのか、自身でも、どう解明したらいいのか消化出来ていない、そのうち理由を説明できる日が来ると思う。
そんなことで、心にしこりとして残っている事に対して、如何に説明したところでもう遅い事と承知しつつも、お詫びがしたいからと同級生をお茶に誘った。
知人に会わせるか会わせないかは、当然、私が決めることでなく、知人の判断に任せるべきだったが、その点に決断が下せなかったと正直に詫び、それでも同級生は快く了解してくれた(のだと思う)。
もうやり直しが出来ない事なので、くだくだ言い訳したところで何の意味もない。
ただ素直に受け入れてくれた同級生に対して、感謝しつつ申し訳なさを感じた。
但し、この出来事自体を、私にとっていい教訓となったことがせめてもの救い(そう思う傲慢さもあるよな)と、反省材料(別れに際しての決断)として心にしかっと刻んだのだった。
今は何より、「雑草取り」優先で行かねばならない・・・だけれどねぇ、雨が