半日村において、日光を求めて、高く高く伸びる「百日紅」の脇に、新しい木が一本伸びてきた。
高く伸びすぎた親木の方を、思い切って切ってしまおうかと、考えているが・・・
暑い暑い8月も今日で終了・・・何となく、気分的にはホッとしているが、戸外は、相変わらずの陽射してある。
個人的には(多分、私の勉強不足もあるだろうとけれど)、言葉の言い換え(差別的表現以外の)・・・例えば、百姓(農民)を農業従事者に換えるとか・・・が嫌いである。
基本的に差別用語とは違うような気がするからだが、言い換えたところで、現実な問題は何も解決していないと思うからだ。
6月5日付毎日新聞「香山リカのココロの万華鏡」欄に、「高齢者という重み」というエッセイが掲載されていた。香山氏は精神科医である。
以下、簡単な抜粋で転載。
・・・長寿社会を迎える中、「高齢者」という名称の見直しを求める動きが政治の世界でも起きている・・・しかし、私自身は「高齢者」という響きも悪くないなと思う・・・「高齢者」という言葉から、年齢を重ねてきた人が誰でも経験する苦労と身に着いた知恵を連想するからだ・・・もちろん、年齢が高いからといってもそれだけで偉いという訳ではない。とはいえ、70歳の人には70年間の、80歳に人には80年間の苦労と経験がある。それに対しては、私たちはやはり「すごいですね」という敬意と、「そこから学ばせてください」という謙虚さを持たなくてはならないのではないか。「高齢者」という言葉には、それだけの重みがあると思うのだ・・・。
先週の事、急に、先輩友人(80歳を超えている)からのお誘いがあった。
私がランチの代金を一括支払をして、友人からは少し多めの現金で頂いた。
その後、美術館に行き、先程余計に頂いたから、チケット代1000円を私が持つつもりだったが、チケット代といってお金を差し出すので、見てみると4000円ある。
「あら!、チケットは1000円よ」と言うと、「さっきの食事代も・・・」と言うのだ。
「貰ってるから安心して、先輩が忘れても私が忘れないから」と、冗談も入れて話した(納得してくれたようだ)。
これに始まって、その後も、小さな勘違いが多々あったが、本人も「この頃忘れっぽくて」とくり返すのを、「私もそうよ、人にはあまり言わないだけ」と慰めにもならない言葉で返した。
頭脳明晰であった先輩友人がボケた・・・と言う報告では無い。
頭脳明晰な人でも、例外無く老いは来る・・・という事なのだ、勿論、私にだって・・・ね。
先輩友人とは50年近い付き合いであるから、今日に至るまで数々のご教授を受け、それに感謝をしている。
「高齢者」という響きが嫌だというのは、何故なのだろうか・・・と、むしろその方が私には理解出来ない。
今の状態で判断するのでなく、今日に至るまで歩んできた道は、成功しようが、平凡であろうが、かけがえのない人生なのだから、大いに「高齢者」となった自分を誇っていいのだ・・・と思っている。高齢者たちよ、チャラチャラした名称など拒否しよう!
残暑厳しい中、半ボケ状態の頭でこんな事を叫んでみたが、核心がブレているかもしれない事をお許しあれ。