IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

おばさん二人中国紀行(後記)

2008-09-13 07:54:08 | 旅の足跡

1988年4月・東京で
―ラサでの入院(3/3)・・・Wさんの手記より―

朝、目が覚めた感じでは、大分調子が良い。

隣のチベット婦人の朝食(家族が届けてきた)の中から、羊の乳が入ったお茶と青麦をつぶした粉を貰う。
お茶の方は病み上がりの身には、少々きついが、思ったよりおいしかった。
青麦はきな粉のような風味で、懐かしい味である。

昨日のチベットおじさんが、朝食を誘いに来た。
せっかくのお誘いでもあり、体力回復の為にもと、食堂に向かう。
こういう時、中国の粥は何よりだ。お粥と漬物を持って戻ろうとすると、チベットおじさんは、「それでは少な過ぎる。
あれも持て、これも持って・・・」と、勧める。
おじさんの親切は嬉しいけれど、私、昨日まで下痢で苦しんでた病人で、しかも胃袋の小さな日本人ですよ・・・全世界制覇を遂げた中華料理の「これがルーツだ!」というお国の方とは違うんです・・・とは、私の言語力では言える筈もなく、「普段から少食なんです」と言って、曖昧な笑いを浮かべてごまかすしかなかったのです。

昨夜からの「好了」が功を奏して、退院許可が出た。
ホテルの服務員が、病院まで迎えに来てくれるとの事で一安心。
医師にも看護婦にも、「このご恩は一生忘れません」と教科書で習った表現ではあったが、心を込めてお礼を言った。
そして、たった一晩の行きずりの外国人に対し、チベット婦人の親切には感謝の気持ちで一杯である。

若い服務員との自転車相乗りで、ホテルに向かう。
デコボコ道は病み上がりの身には少々堪えるが、彼女の暖かい背中に掴まっていると、何となく幸福な気分になってくるのだった。(完)


 


これで「郷愁のおばさん二人中国紀行」の紀行文は終了。

2002年8月、再度訪れたチベットの風景。
ラサはすっかり変貌を遂げていたが、ラサを一歩出ると、雄大な景色が展開し、心が洗われる感じであった。
Wさんが、過酷な体験にも係わらず、チベットに深く思い入れ、1986年の旅以降に、再びチベットを訪れたと聞いた時、私にも、その思いが多少理解できる気がした。
チベットは、そんな風景、そんな空気を持ったところである。 (伊豆の花)

 


標高4000メートルの高原に咲く、青い花。魅惑的な雰囲気がするのは、青い花を見慣れない為だろうか・・・。

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おばさん二人中国紀行(後記)

2008-09-12 08:39:21 | 旅の足跡

1988年4月・東京で
―ラサでの入院(2/3)・・・Wさんの手記より―

入院病棟で再び(三度?)診察。
先に渡された薬を見せると、「これは違う薬だ。捨てなさい」と言う。
この医師は、私が少しばかり中国語が話せることが面白いらしく、ニコニコしながら、病気とは無関係の質問を次々としてくる。
質問攻めには、多少慣れたと言うものの、この体調の悪さ、しんどくて・・・と思いながら、またまた、誤ったサービス精神を発揮して、苦しい笑顔で答えてしまう始末。
おまけに彼氏ときたら、立て続けにタバコをふかしているのだから、たまったものではない。
中国で「嫌煙権」という言葉が生まれるのは何時になるのだろうか・・・そういえば、硬座車の長い旅でも、ちょっとタオルを窓の桟に干して置くと、どうしようもない程、タバコの臭いがついてしまった。

点滴を受ける前に、まずトイレへ・・・。トイレが室内にあるとは有り難いと思いながら行くと張り紙がしてある・・・「大便は外で」。
下痢の私としては何とも辛い張り紙だ。
ウマイ話には裏がある・・・十分に納得した。
そこで、ハタッと気が付いた。
着の身着のままで来てしまい、一番大事なトイレットペーパーを忘れていたのだ。
ティシュペーパーさえも持たずに・・・・。
ここでトイレットペーパーやティシュペーパーを探すという事は、本当に生易しい事ではないのだ。
作業は中止し、とりあえず便意を催さない事を神に(紙に?)祈りつつ、ホテルに戻る男性服務員さんにYさんへ伝言を託した・・・「ペーパー頼む」。
点滴は手の甲に打たれている・・・その私に女性服務員さんが付き添ってくれた。

女性服務員も、身の回り品を届けてくれたYさんも帰って行った。
一人になると、同室のチベット婦人がしきりに世話をやいてくれる・・・点滴の落ちが早いといって遅くしてくれたり、白湯を飲ませてくれたり・・・彼女、何の病気か、入院生活も長いようで、看護婦さんたちとも、すっかり親しくなっている。
陽気な看護婦の一人は、彼女のベッドの布団に座り込み、盛んにトランプ占いに興じたりして、4、50分も大油を売っているのだった。
日本だったら、どうなるのかな・・・。
先程の煙鬼の医師が薬を持ってきた。
中葯と呼ばれる漢方薬だ。
私に中葯を飲んだことがあるかと聞くので、「モチロン!」と大見栄を切る。
その上、「良葯苦口(良薬は口に苦し)」などと余分な事まで口が滑ってしまう。
サービス精神旺盛で、A型血液にO型が混ざっていると言われるのも無理はない。
その良薬、一口、口に含んだだけで、「もう、ダメ!」だった。
こんなに苦いものは、今まで経験したことがない。
筆舌に尽くしがたい苦さである。
だから表現できない。
例の陽気な看護婦さんが、私の口に無理やり押し込んでくれるのだが、喉の方が受け付けない。
どうしても拒否して入っていかないのだ。
チベット婦人の友達のチベットおじさんが、自分の薬の入った特大カップを持ち上げて、こう飲むのだと実演し、飲み終わった空のカップを「どうだい、飲めただろ」と言わんばかりに見せるのだった。
おじさんと薬草のみ競争をするには、薬は苦いし、カップはでかいし・・・。チベット婦人が砂糖をいれたらと提案すれば、入れないほうが良いという意見が出るなど、日本人の中葯体験を巡って、病室は盛り上がって行くのだった。

明日の予約済みの飛行機、キャンセルの手続き、再購入など、諸々考えると、明日は必ず退院しければと気持ちが焦る。
「好了」の状態には程遠いが、「好了、好了」を医師に連発して、明日退院の許可を求めれば、明日の状態次第との返事。
明日は必ず回復を・・・と、神や仏に祈りをささげて、まだ明るいチベットの夜、私は眠りに就いた。
(明日に続く)

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おばさん二人中国紀行(後記)

2008-09-11 18:46:15 | 旅の足跡

1988年4月・東京で
―ラサでの入院(1/3)・・・Wさんの手記より―

1986年7月24日、初めて西蔵(チベット)の地を踏む。
それから2年近く過ぎた。
日常生活に追われ埋没している今、西蔵に対する憧れは、西蔵を訪ねる以前より、ますます強くなったように思う。
西蔵に対する思い入れ故に、西蔵での自分の気持ちを、今、書こうと思うと、全て嘘になってしまいそう・・・。
そこで、西蔵での忘れ難い体験談、「ラサの病院に入院」した事について書いてみよう。

拉薩(ラサ)滞在も残すところ2日になった夜、生まれて初めてといっても大袈裟でない程の下痢に見舞われ、七転八倒・・・・眠れないまま朝を迎えた。
原因は・・・と考えると、毎日毎日食べ続けたスイカか、それとも、昼間、写真家の大先生(日本人)からご馳走になった青麦の酒(チャン)のためか・・・タダ酒と思う故、たいして強くも無いのに飲んでしまった卑しさ・・・はたまた、喫茶店で食べたヨーグルトか・・・北京で食べたヨーグルトのあまりの美味が忘れずに飛びついてしまったのだが・・・そういえば、あの店、冷蔵庫から出してくれたけれど、電気コードがはまっていなかったし、味もかなり異様だった。

朝になり、Yさん(同行者)がいろいろ治療法を試みてくれたが、貴重なる梅干が入った白湯さえ吐き気を催すほどである。
入院という最悪の事を考え、Yさんは銀行へ走った。
私はベッドで寝て居ても、どうにも我慢がならず、這うようにして服務員の所へ行き、医者に診てもらいたい旨を伝えた。
この場合、へたな言葉より、その顔色が苦しさを伝えるのか、都市以外では車をチャーターするのが非常に難しい中国で、速やかに車が手配された。
その上、運転手の外に、二人の男女服務員が私に付き添って病院まで行ってくれるという。

病院までの道すがら、今にも吐きそうな気分のくせに、同行の三人に対して、何とか感謝の気持ちを伝えなくては・・・と、乏しい語彙の中から「ありがとう」を探し、尚且つ、「ラサの高度は日本一の山と変わらない」なんて事まで語り続けた。
もしもその為に、私が車の中で吐いてしまったら、もっと迷惑が掛かるというのに・・・間違ったサービス精神なのだ。

病院での挂号(受付)を同行の服務員さんが済ませてくれ、いよいよ診療室へ・・・女医さんである。
先生、まず、私に紙を持っているかと聞く。
はぁ?・・・何の事か分からない。
てっとり早い方法として「没有」と答えた。
すると、先生は傍にあった紙を折りたたみ袋状にした。
そして、「これで便を取って・・・」と言う。検便である。
一瞬驚いたが、女性服務員に付き添って貰い、外にあるトイレへ行く。
戸外にあるトイレは、例外なく、仕切りは無し・・・。
この形式のトイレにも、すっかり抵抗感はなくなっていたが、ただ、憔悴している体には、どこにもすがる所の無いのは辛いものだ。

無事、検便を済ますと、又、別の診察を受ける。
そして、しばらく待つ。女性服務員が、自分の上着を脱いで、私に掛けてくれた。
体も気持ちも弱っている時、何気ない心遣いがジンと響く。
多量の薬を渡された後、入院の必要ありと宣告された。
お金の支払いは別の場所で、再び車に乗って向かう。
入院の保証金として300元必要だと言う。
財布を逆さに振って、やっと支払った。
300元(当時のレートでは12.000円程)と言うのは、一般人民にとっては大金である。
医療面にも、外国人料金が、すっかり行き渡っているものと察する。

払い込み事務手続きに、又、時間を費やし、ようやく入院病棟へ・・・ところが、ただ今、昼休み中。
病棟の門は閉まっており、門番の子供は服務員の説得にも拘わらず、頑として門を開けようとしない。
そこで、こちらも実力行使と、柵を乗り越えて鍵を開けた。

ここまでに費やした時間は1時間半、診療時間は10分。
私が重病患者だったら、とうに死んでしまっているだろう。(次回へ続く)

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郷愁のおばさん二人中国紀行(64日目)

2008-09-11 08:04:04 | 旅の足跡

1986年9月11日(水)
―北京より帰国の途へ―

タクシー代(市内~空港) 45元
(レート 1元=約42円)

Wさんは、しばらく、北京に滞在する。
私は、本日、帰国。

飛行機は来た時と同様に空席が目立つ。
一時に比べて、中国旅の熱が落ち着いて来たのだろう・・・今回の旅では、あまり団体の日本人観光客に出くわす事が無かった。
隣の座席には、北京に単身赴任をされているご主人の、お見舞いに来たというご婦人、何度も北京に来ているらしい。
彼女、「北京は何もありませんね。お買い物も楽しくなくて・・・ずっとお部屋に居りました」と話す。
そうね、確かに、いわゆるブランド商品が並んだ店は無かったし、ウィンドショッピングを楽しむような通りも無かったかも知れない。
でも、奥様、北京の街を、ゆっくりと散歩をして見ました?。そこには、日々を一生懸命生きている人々が見えると思いますよ。
それを見つけると、体制を超えて、何かほっとしたものを感じます・・・あぁ、みんな頑張ってるなぁ・・・私も、もうちょっと頑張ってみるかな・・・私は、そう感じました。

それに、この旅で出会った人たち、地元の人、通りすがりの人、すれ違った旅人、中国人、日本人、香港、パキスタン、オーストラリア、ドイツ、フランス、etc・・・ただ座って待っても、出会うことは無い人たちだ。
出会った事の偶然を楽しんだ旅だった。
出会えた皆さん、お世話になった皆さん、ありがとう。
何より旅を可能にしてくれたWさん、ありがとう。
お疲れ様でした・・・そして、Oさん本当にごめんなさい。

夕刻、成田空港に着陸。
リムジンバスで東京駅へ・・・運転手が道路の混雑状況を無線で連絡し合っている・・・話の内容が分かるのが、いやに耳に障って、煩わしく感ずる・・・中国旅ではBGMだったものなぁ。

午後8時、我が家に帰宅・・・これにて「おばさんにも出来る地球の歩き方・中国編」は終了となる。

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郷愁のおばさん二人中国紀行(63日目)

2008-09-10 09:05:55 | 旅の足跡

1986年9月10日(水)
―北京の休日、この旅の終章―

バス代(市内移動) 1角
おみやげ品(琉璃蔽で) 45元
敦煌壁画模写品 124元
昼飯代(都一のしゅうまい) 14元
みやげ用漬物 1元5角
コーヒー代 4元
タクシー代4回分(市内移動) 54元4角
雍和宮入場料 1元
地下鉄運賃 4角
夕食代(日本食 白雲) 118元5角
宿泊代(華園飯店) 32元
(レート 1元=約42円)

2ヶ月の間、何かにつけておすがりした様々な神様、仏様にお礼しようと、雍和宮に行った。
キンキラである・・・一昨年、ここを訪れた時には、瓦屋根も、石畳を敷いた中庭も草が茂っていたけれと゜・・・仏教が見直されているのか、それとも観光のためか・・・ま、それはさておき、「是非、是非、これだけは・・・」と、お願いした事は叶えられなかったが、命に別状無く、こうして再び北京に帰ることが出来たのは、ひとえに、神様皆々様の御加護だろうと、心から感謝する・・・本当にありがとうございました。

地下鉄に乗ろうと駅に向かっていると、前方よりにこやかな笑顔で近づいてくる男性あり・・・誰?。
しばし、ポカンとした顔をしていたのだろう、彼は「ウルムチでお会いした日本テレビのKです。やぁ、ますますお元気そうで・・・」と言う。
「ああ、Kさん・・・お久しぶりです」我等もにっこり笑った。
誰でも我等の(私だけかも)の真っ黒に日焼けした顔を見れば、お元気そう・・・と思うでしょうが、まずは誉められたと思いましょ。
それにしても、会いたい、会いたいと思う人には会うことができずに、思いもかけない人に、こんなに奇遇なくらいに出会うって・・・神様、どういうことでしょうか・・・でも、再会は嬉しいものですね。

市内、琉璃蔽で最終的なお土産品を購入、北京一おいしいという「都一のしゅうまい」を食し、漬物専門店で「ザーサイ」を仕入れた。
このザーサイは株のままの姿で、スライスしてない。
初めてザーサイの原型を知る。

旅の最後の夕食は日本食(特に日本食が食べたい訳ではなかったが、最近流行っている日本食店だというので、好奇心が優先しました)にしようと「白雲」を探した。
Wさんも場所を詳しくは知らなくて、どうしても見つからない。
道行く人に尋ね、尋ねしても分からない。
でも、しつこ~く探しましたよ・・・まだ、旅の粘りは残っていたようで・・・。

寿司、松茸のお吸い物、焼き鳥、焼き魚、旨煮にお新香、etc・・・勿論、ビールは日本製をたっぷり味わいました。
で、120元・・・高くない?・・・この店には、中国人客も見えたけれど、一般人民は来るのかしら・・・何時か、普通にぶらりと来られるような店ができたら良いなと思う・・・しかし、この店のビールは、断然、旨かったですねぇ。


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郷愁のおばさん二人中国紀行(62日目)

2008-09-09 08:26:34 | 旅の足跡

1986年9月9日(火)
―北京に帰り着きました―

タクシー代(国際旅行社~京倫飯店~ホテル) 45元5角
予約料(CITSに・・・宿の手続き代?) 6元
昼飯代(京倫飯店洋食バイキング) 76元
宿泊代(僑園飯店) 32元
スイカ・瓜 4元5角
国際電話料 31元
夕飯代 9元
ビール 3元

午前10時、我等は、2ヶ月を費やして、再び、北京駅に降り立った。
相変わらずの混雑である。

早速、宿を探すためCITSに行く・・・友人のMさん(CITSに勤務していた)にも会いたい。
残念なことに、Mさんは既に日本に発っていた・・・そういえば、旅の初めに出会った時、日本に留学すると言っていたのを失念していた・・・旅の話は日本でするとしよう。
市内の一流ホテルはどこも満員というので、中心地からちょっと離れた「僑園飯店」に決める。

足場が定まれば、次は腹具合である。
せめて食事は豪華にしようと「京倫飯店洋食バイキング」に挑戦することにした。
一流ホテルである。
前菜も、メインディシュも、デザートも、もう食べたい放題で、ステーキは焼きあがるのを張り付いて待ってましたよ・・・満足、満足。
しかし、一流ホテルである。
トップファッションに身を包んだ客の中、一応洗濯はしてありますよ、でも、煤けてよれよれの服装に、過酷な待遇にすべての力を出し尽くした靴(初めは白だったんです・・今は茶色のブチとなり、縫い目もほつれて来てた)で、顔も手足も日焼けで黒くなり(これは私ですが・・・何故かWさんも、中国人も日焼けしないのよね)とこんな状態では、ちょっと恥ずかしかったですねぇ・・・でも、すぐ居直ってましたよ・・・目の前の食事を完遂することが、おばさんとしての面目躍如なのですから・・・。 

Oさんの北京での状況を確認するために、Wさんの友人宅(北京語言学院)へ向かう。
我等は、当然、お礼を言った・・・が、彼女はポカンとして「えっ、何のこと?」・・・何のことですって!・・・・8月25日にカシュガルから出した速達便はまだ到着していなかったのだ・・・・Oさん、どうなっちゃったの?・・・同じ思いの二人は、何も言えずに顔を見つめるのみ・・・・。
夜、宿から国際電話を掛けた。
「うそーっ」と叫びたいくらい簡単に繋がった。
Oさんは、何とか一人でも北京観光をしたというので、少しほっとしたが、我等には、ひたすら、ひたすら、謝るしかなった。

僑園飯店の風呂は共同でシャワーのみ・・・でも、シャワーヘツドが付いていない。
頭にかかる水は、さながら滝にでも打たれているようだ・・・反省しろって事かなぁ。
コンクリート打ち放なしの壁も床も、建築以来、掃除なんてした事ないって程汚れていて、ゴムぞうりを履いた足元はぬるぬるとすべるんだもの・・・私は、つるりと足を取られて、しこたま腰を打ちつけてしまった。
これって、罰だね、きっと・・・・神様。


 

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郷愁のおばさん二人中国紀行(61日目)

2008-09-08 08:09:46 | 旅の足跡

1986年9月8日(月)
―上海から北京へ―

朝飯代(洋風) 13元7角
ビール 6元
バス代(市内循環) 2角
珈琲 7元7角
昼食代(友誼酒家) 80元3角
ビール・コーヒー 7元5角
タクシー代(和平飯店~上海駅) 3元5角
月餅・ザーサイ 1元
おみやげ代 20元
夕食代 30元

上海展覧館の友誼酒家で昼食。
ガイドフックにも載っている有名店で、日本人客が目立つ。店内に居るだけでは東京で食事をしているのと変わらない雰囲気だ。
とても清潔で、品良く盛られた料理なのだが、我等の舌が市井の味に慣れてしまったのか、感動が湧かない。
でも、コーヒーはおいしかったな・・・。

午後、タクシーで上海駅に向かう。
この旅の最終行程だ。
初めての軟臥車・・・つまり、一等寝台車・・・4人用のコンパートメントスタイル。
同室の中国人男性2人、今まで旅で出会った人民とは様子が違う・・・勿論、清潔で良い服を着ているのだけれど、何より話し方が違うのだ。同室なのに声が気にならないくらい、ひそひそと話している・・・硬臥車では、夜中でも、でかい声だったものなぁ・・・。

気配りおじさんにも、にんにく軍団にも、トイレの出水騒ぎにも出会いことなく、火車は、静かに、静かに、北京を目指して進んで行く。
(それにしても、この日の朝食の次に書かれたビールって、何?・・・。和平飯店で朝食にビールを飲んだのか・・・それとも、昼食までの間に何処かでビールだけ楽しんだのか・・・今となっては分からない・・・けれど、それも有り得るな・・・とも、思っている。本当にこの旅ではビールを飲む事が多かったが、一度も悪酔いはしなかった。以後、20数年間、こんなに気持ちのようビールを味わった覚えは皆無に近い)

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郷愁のおばさん二人中国紀行(60日目)

2008-09-07 08:43:29 | 旅の足跡

1986年9月7日(金)
―上海の休日―

朝飯代(洋風) 14元
フィルム 7元5角
上海博物館 1元
傘 7元
急須 17元
ココア 3角
小龍包 9角
豫園入場料 4角
龍井茶・花茶 2元
五香豆(上海名物) 6角
ぶどう 2元4角
夕食代(豫園録波廊) 41元7角
珈琲 6元
(レート 1元=約42円)

田舎の旅を堪能して来た我等の頭は、すっかり緩んでしまっていた。
これから生活をする我が街のテンポに合わせるべく、少し巻き戻さなければと、「大都会上海」を歩くことにした。

まずは朝食から、ホテルレストランにて西洋風を選択。
真っ白いテーブルクロスには、真っ白い食器が並べられ(当然、欠けたりしてません)、制服姿の服務員がテキパキと働き、熱いコーヒーが運ばれてくる・・・都会に気後れして、うつむき加減だった我等も、自然に背筋を伸ばし、優雅な微笑みを・・・段々、都会人の装いを着てゆく・・・昨日まで、Tシャツ一枚で床に転がっていたなんて、誰が想像できるでしょうかねぇ。

食事が済むと、上海博物館へ向かった。
美術鑑賞の知的な時間・・・展示品に通過してきた街を思う・・・窓から博物館の外に目をやると、赤茶色の屋根が隙間も無く続いている風景が見える。都会の景色だ。

豫園商場へ・・・お土産品の調達と有名レストランでの食事のため。
狭い路地にぎっしりと店が立ち並び、観光客や地元民が溢れている。
品数も豊富だし、良い趣味の物も多い。
ついつい、手が伸びる。
価格感覚がまだ田舎標準で、「ちょっと高くない、これ」なんて言ってしまう。
ふっと、田舎の市場を思い出した・・・おもちゃのようなイヤリングやネックレス・・・赤や緑やブルーの派手な色合いの布地・・・山に積まれたトマトやスイカ・・・焼肉の匂い・・・馬糞の匂いもしたなぁ・・・子供たち、よく働いていたっけ・・・笑顔が嬉しかったし・・・いろんな景色が走馬灯のごとく巡ってきて、自然と思い出し笑いを浮かべる私・・・。

豫園を観賞し、小龍包(豫園の名物で、汁たっぷりの熱々包子です)を賞味し、喫茶店でお茶を所望してくつろぎ、レストラン録波廊ではお腹が曲がらないほど満腹した。

夜、和平飯店喫茶ルームにて「上海ジャズバンド」の音楽を楽しむ・・・40年代のスタンダードジャズの演奏である。
フロアでは音楽に合わせてダンスをしている人が居たが、我等女二人は、見ているだけで・・・誰も踊りに誘ってくれないんだもの・・・。
たっぷり優雅に過ごした上海の一日でした。


 

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郷愁のおばさん二人中国紀行(59日目)

2008-09-06 10:15:53 | 旅の足跡

1986年9月6日(土)
―上海へ―

タクシー代(ホテル~空港) 10元
地図 1元
タクシー代(上海空港~ホテル) 14元
宿泊代2日分(和平飯店) 680元
軟臥列車代(上海~北京) 339元8角
シャンプー・リンス・洗剤 21元6角
夕飯代 35元9角
(レート 1元=約42円)

CAACの集合時間が早くて、市内循環バスの始発でも間に合わない。
そこで、昨夜のうちにタクシーを予約して置いた。
どうかなぁ・・・ちゃんと来るかなぁ・・・と、多少の不安も有り・・・が、ぴったり予約時刻にやって来た・・・やれば出来るじゃないの!

腹を壊してすっかりへたばっている日本青年に、空港への同行を求められる。
いいよ、いいよ・・・ついといで!

空港ではあれやこれやの手続きを経て、機上の人となる。
シートベルトを締めると飛行機は動き出し一気に高度を上げてゆく・・・う~ん、旅も終ったなぁ・・・いろんな事に出会ったし・・・Oさんには本当に申し訳なかった・・・自由旅を少し安易に考えていたかも・・・だけど、こうして無事に上海にたどり着いたのだから良しとしなければ・・・でも、悪かったなぁ・・・とさまざまな思いがよぎって来る。

昼食が出る頃には、機内が蒸し暑くなってきた。
ウルムチから着てきたダウンジャケットを脱ぐ。
上海は、再び夏・・・否、まだ夏。雨が降っており、蒸し暑さで息苦しい感じがする。
せっかく上海に来たのだから、本日の宿は、かの有名な「和平飯店」にしようと、タクシーに乗った。
どこもかしこも工事中で、空港から市内へはすばらしいハイウェイをドライブ。

和平飯店に着いた。
ツイン、バス・トイレ付(一流ホテルなのだから当たり前なんだけれど)、クローゼット、次の間も付いて一泊340元と超豪華版に決定する。
服務員(制服姿のボーイさん)が部屋に案内してくれるのだが、お客(我等です)ときたら、服は薄汚れ(洗濯はしてますよ)、顔も日焼けして真っ黒け、おまけに荷物は泥だらけ・・・ちょっとホテルの雰囲気に合いませんねぇ。
うつむき加減に服務員の後を歩いていく。
案内されたのが8階で、欧州趣味のしっとりとした部屋。
我等は早速風呂に、いえいえ、バスルームでゆったりと湯に浸り、シルクロードの汗と誇りを洗い流した。
淡いピンク色に統一されたソファーに横たわり、窓からはネオンに浮かび上がった黄浦江を見下ろした。
さながら絵葉書の世界・・・我等だって、贅沢するに時は、きっちりと贅沢をするんです。

和平飯店にあるCITSで北京行列車の切符をとる。
9月8日便だ・・・Oさん、ごめんなさい・・・Oさんは6日に北京を発っていた。

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郷愁のおばさん二人中国紀行(58日目)

2008-09-04 18:54:30 | 旅の足跡

1986年9月5日(金)
―ウルムチ最後の1日―

ナン 2角
バス代(市内循環2回分) 8角
ウルムチ博物館 8角
切手代 4元5角
トマト 2角
干しぶどう 1元2角
昼飯代 13元4角
地図 5角
宿泊代3日分(華僑飯店) 48元
夕食代 7元4角

朝、雪は止んでいた。

友好アメリカ人はトルファンへ行き、そちらで何日か滞在するつもりだが、彼の荷物はこの宿に預けたままにして置くと言うので、「我等は、明日、出発する。このふわふわベットに移らないか」と勧めるたら(ホテルの了解は得ていないが、そこは中国、何とかなるでしょうと軽い気持ちで)、彼、大いに喜んで名詞をくれた。
漢字で書いてある(書かれてた字は忘れてしまったが、ランディ・タフトと読めたその名前は今でも思い出す)
中国のことを大分勉強して来たんだなぁ・・・そういえば、夕べも遅くまで本を読んでいた。
もう彼に出会うことも無いだろうが、我等は互いに「See you again」と言って別れた。

博物館に行ってのんびりと過ごす。
ウルムチはどんどん変わってゆく。否、ウルムチに限らず中国は・・・と言った方が良いかも知れない。
住民にとっては暮らし良くなってゆくのだろうし、それが当然なのだが・・・この街のかけがえない良い雰囲気は残しておいて欲しいと思うのは、決して私が旅人だからではなく、日本が近代的、文化的なものを追求しているうちに、日本中、どの街も特色のないふわふわした軽薄な街に変わり果ててしまったからだ。

私が、最初にこの街を訪れたのは、つい、5年前のことなのに、今、全く違う知らない街を見ているような変化は、返って悲しい思いがする。
本当にうま~く変わって欲しいと心から願う。

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