見もの・読みもの日記

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理非と淋しさ/私の個人主義(夏目漱石)

2016-06-24 23:09:16 | 読んだもの(書籍)
○夏目漱石『私の個人主義』(講談社学術文庫) 講談社 1978.11

 1ヶ月前くらい前、SNSで「行き過ぎた個人主義」という言葉を見かけた。戦後民主主義を否定して、憲法改正をもくろむ現政権とその支持者に近いあたりから出た言葉らしいが、明確な出典はよく分からなかった(舛添知事を追及する自民党都議が使っていたことは確認)。考えてみると、復古的な主張をする人々が、かなり前から使っていた表現かもしれない。

 その言葉を見たときから、漱石の「私の個人主義」(大正3/1914年)を読み返したくなった。高校の現国の授業で(一部を?)読んだ記憶がある。その後、全文を読みたいと思って買ったのも、この学術文庫版だった。本書には、標題に加えて「道楽と職業」「現代日本の開化」「中味と形式」「文芸と道徳」の5本の講演が収められている。40年ぶりに読み返してみると、以前と同じ感銘を受けるところもあれば、少し違った感想を抱いたところもあった。

 たとえば「現代日本の開化」では、明治日本の開化は「外発的」で「皮相上滑り」であって、地に足をつけず、ぴょいぴょい飛んで行くようなものだと説かれている。これを私が初めて読んだ1970年代の日本は、高度経済成長の名残りで、やっぱり「ぴょいぴょい飛んで行く」ような変化の時代だったから、明治の慌ただしさが十分想像できた。ところが、いまや日本社会は、すっかり成長に減速がかかっている。これではいけないと考える人もいるようだが、私はむしろ、ようやく近代日本が腰を落ち着けて「内発的開化」に取り組む時代が来たと思うと、少しほっとしている。低成長万々歳ではないかと思う。

 本書収録の講演の4本は、明治44年(1911)大阪朝日新聞社が企画した関西での連続講演である。最後の「私の個人主義」だけは、学習院で生徒たちに向かって喋ったものだ。漱石は半生を振り返っていう。自分はこの世に生まれた以上、何かしなければならないと思って文学に志し、留学先でも文学について考え続けた。その結果、文学とは何かという概念を根本的に自分で作り上げなければ、ついに不安を逃れられないことを悟る。人真似や受売の「他人本位」から「自己本位」への転換である。他人の人真似で安心が得られる人はよい。そうでない人は、苦しくても自分の鉱脈を掘り当てるまで、どんどん進んでいかなければならない。これが第一の要点。

 自分がそのように個性の発展を許されるならば、他人の個性も尊重すべきである。自由の背後には義務がなくてはならない。これが第二の要点。ただし漱石は、学習院という場所がら、将来、金力や権力によって他人の自由を妨害し得る上流階級の子弟が多いためにこう言ったのである。「義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがない」は、昨今、気楽に発せられる「権利には義務が伴う」という俗論とは大きく隔たっている。

 自分の自由を愛するとともに他人の自由を尊ぶという観念が行き届いた国として、漱石はイギリスを挙げる(私はイギリスを好かないのです、と注釈をつけながら)。義務の観念を離れない程度に自由を愛すること。それを漱石は個人主義と呼ぶ。

 私が大事だと思うのは、「党派心がなくって理非のある主義なのです」という説明。「朋友を結び団縁を作って、権力や金力のために盲動しない」とも説いている。権力や金力を持ち出されれば、それが好ましくないことは納得しやすい。だが、党派心というのは、必ずしも権力や金力によって起こるものではない。たとえば、漱石が朝日新聞の文芸欄を担当していたとき、三宅雪嶺の悪口(批判)を載せたことがあった。すると雪嶺の子分というか同人たちが、怒って取消を申し込んできた。漱石は、雪嶺と同人たちの関係を「時代遅れ」で「封建時代の人間の団隊のよう」と評しながら、その強い紐帯をどこか羨んでいるフシがある。羨むは言い過ぎにしても、自分と門人たちの、近代的で淡泊な人間関係に引き比べて「一種の淋しさ」を感じたことを告白している。

 この機微は、高校生の頃はよく分からなかった。「槇雑木(まきざっぽう)でも束になっていれば心丈夫ですから」というのをヘンな表現だと思ったことは覚えているが、いま読むと、漱石の絶望や自嘲が込められているように思える。理非に立脚する個人主義には淋しさがつきまとう。それは宿命なのだが、集団主義に付け込まれやすいのはこの点だと思う。

 さらに漱石は、個人主義が国家主義と対立するものではない、という説明を展開している。私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、個人主義でもあるのです等、全体に言い訳がましい論調だなと思って読んでいたら、「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える」という大胆な発言に出会って、にやりとしてしまった。そうそう、徳義心の高い者に、国家主義は耐えがたいのだ。やっぱり、どこまでも個人主義で行くべきである。
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