〇天野郁夫『帝国大学:近代日本のエリート育成装置』(中公新書) 中央公論新社 2017.3
何の因果か、国立大学の事務職員という仕事を選んで20数年になる。自分の職場が、どのような歴史を背負っているのか興味があって、これまでもいろいろな著作を読んできた。本書は、帝国大学の誕生から、戦後、国立総合大学に生まれ変わるまでの70年間、さまざまな資料とデータに基づき、七大学の全貌を描いたもの(台北と京城の二大学には簡単な言及のみ)。
大学の誕生から帝国大学への変貌、第二の帝国大学・京都大学くらいまでは、だいたい知っていることの復習だった。しかし、そのほかの、東北・九州・北海道・大阪・名古屋の帝国大学が、どのような順番(左記にあげた順である)、どのような事情で設立されたかは、初めて知って興味深かった。帝国大学といえば、国費でつくられた大学と考えがちだが、大蔵省が予算を出ししぶる中、古河財閥の多額の寄附によって、東北帝国大学と九州帝国大学の設置が可能になったという。また北海道帝国大学も、創設費のほぼ半分は地元や財界の寄附でまかなわれた。地元に帝国大学を置くということが、どれだけ待望されたか、分かるような気がする。果たして、今、これらの大学は、地元との深いつながりを保っているのだろうか。
帝国大学には高等学校という制度が附属しており、高等学校を卒業すれば自動的に帝国大学に進学できた。自由な学生生活の思い出と結びついて語られることの多い戦前の高等学校だが、実は、専門学校化しようとして挫折したり(井上毅)、大学進学を望まない地方紳士のための教養教育を主としたり、やっぱり大学の予科(予備教育)の役割に戻ったり、試行錯誤の跡があるのは面白い。高等学校のカリキュラムは外国語の比重が非常に高かった。まず英・仏・独の語学を習得しなければ国際水準の大学教育に進めないのが、後進国・日本の現状だったのである。そのため大学入学者の平均年齢は、先進諸国に比べて高かった。この説明はよく腑に落ち、再び同じ状況に戻らないでほしいと思っている。
熾烈な受験競争を緩和するため、高等学校の入試制度には何度も変更が加えられている。綜合試験にしたり、分割にしたり、二班制(二期制)にしたり。この迷走は今日に続いており、結局、どれも一長一短なのだということが分かる。それにしても、交通通信手段が未発達な明治末年に全国一斉の「綜合試験」を実施するというのが、どれだけ困難だったかは想像を絶する。面白かったのは、大正デモクラシー期(大正前期)の帝国大学で行われたさまざまな改革。学年・学級制を廃止し、試験結果を点数評価から段階評価に変更し、恩賜の銀時計に加え、なんと卒業式と卒業制度まで(!)廃止してしまった。「学術の蘊奥を極める大学において、修業年限を設け、一定の課程を強いるのは不可である」というのだ。この意気込みはいいなあ。私たちが「長い伝統」と思っているものも、けっこう紆余曲折があり、途中で中断したりしているのだ。
明治期の大学院が「ユニバーシティホール」という珍妙な英語訳を持ち、さまざまな理由で、卒業後も学業を続けたいと考える「学士」たちのたまり場であったとか、戦後も長く継承された「講座制」が、帝大教授のポストをより魅力的にするため、待遇改善策として井上毅が取り入れたものだというのも初めて知った。
戦時中は、学問の自由が大きく損なわれたという点で、帝国大学にとって「受難の時代」だった。その一方、政府・文部省は、科学振興と帝国大学の整備拡充につとめ、研究者の待遇改善、研究費の増額などが行われた。昭和14~20年の間に七帝大に25の付置研究所が設置され、多くは戦後も存続した。しかし帝国大学総長会議で文相が「研究所は戦場と心得、研究成果を第一線に応用する熱意をもってすること」と訓示したというのはやりきれない。いや、どことなく似たような世相になってきた気もするが。
終戦後、帝国大学から新制国立大学への転身はやや駆け足で語られているが、重要な役割を果たしたのが、南原繁と天野貞祐であることは分かった。天野は、旧制高等学校および帝国大学制度の温存を願ったが、最終的に南原に敗れた。しかし、七大学は各地域の中心校として別格扱いを受けるとともに、講座制を温存することで、校費配分上のアドバンテージを享受し続けた。その講座制は、大学法人化によって姿を消したが、いまも七大学が日本の代表的な研究大学であることに変わりはない、というのが本書の結びである。さてしかし、旧七帝大が「研究大学」という同じカテゴリーで肩を並べていられる状況が、あとどのくらい続くだろう、と少しペシミスティックに考えた。
何の因果か、国立大学の事務職員という仕事を選んで20数年になる。自分の職場が、どのような歴史を背負っているのか興味があって、これまでもいろいろな著作を読んできた。本書は、帝国大学の誕生から、戦後、国立総合大学に生まれ変わるまでの70年間、さまざまな資料とデータに基づき、七大学の全貌を描いたもの(台北と京城の二大学には簡単な言及のみ)。
大学の誕生から帝国大学への変貌、第二の帝国大学・京都大学くらいまでは、だいたい知っていることの復習だった。しかし、そのほかの、東北・九州・北海道・大阪・名古屋の帝国大学が、どのような順番(左記にあげた順である)、どのような事情で設立されたかは、初めて知って興味深かった。帝国大学といえば、国費でつくられた大学と考えがちだが、大蔵省が予算を出ししぶる中、古河財閥の多額の寄附によって、東北帝国大学と九州帝国大学の設置が可能になったという。また北海道帝国大学も、創設費のほぼ半分は地元や財界の寄附でまかなわれた。地元に帝国大学を置くということが、どれだけ待望されたか、分かるような気がする。果たして、今、これらの大学は、地元との深いつながりを保っているのだろうか。
帝国大学には高等学校という制度が附属しており、高等学校を卒業すれば自動的に帝国大学に進学できた。自由な学生生活の思い出と結びついて語られることの多い戦前の高等学校だが、実は、専門学校化しようとして挫折したり(井上毅)、大学進学を望まない地方紳士のための教養教育を主としたり、やっぱり大学の予科(予備教育)の役割に戻ったり、試行錯誤の跡があるのは面白い。高等学校のカリキュラムは外国語の比重が非常に高かった。まず英・仏・独の語学を習得しなければ国際水準の大学教育に進めないのが、後進国・日本の現状だったのである。そのため大学入学者の平均年齢は、先進諸国に比べて高かった。この説明はよく腑に落ち、再び同じ状況に戻らないでほしいと思っている。
熾烈な受験競争を緩和するため、高等学校の入試制度には何度も変更が加えられている。綜合試験にしたり、分割にしたり、二班制(二期制)にしたり。この迷走は今日に続いており、結局、どれも一長一短なのだということが分かる。それにしても、交通通信手段が未発達な明治末年に全国一斉の「綜合試験」を実施するというのが、どれだけ困難だったかは想像を絶する。面白かったのは、大正デモクラシー期(大正前期)の帝国大学で行われたさまざまな改革。学年・学級制を廃止し、試験結果を点数評価から段階評価に変更し、恩賜の銀時計に加え、なんと卒業式と卒業制度まで(!)廃止してしまった。「学術の蘊奥を極める大学において、修業年限を設け、一定の課程を強いるのは不可である」というのだ。この意気込みはいいなあ。私たちが「長い伝統」と思っているものも、けっこう紆余曲折があり、途中で中断したりしているのだ。
明治期の大学院が「ユニバーシティホール」という珍妙な英語訳を持ち、さまざまな理由で、卒業後も学業を続けたいと考える「学士」たちのたまり場であったとか、戦後も長く継承された「講座制」が、帝大教授のポストをより魅力的にするため、待遇改善策として井上毅が取り入れたものだというのも初めて知った。
戦時中は、学問の自由が大きく損なわれたという点で、帝国大学にとって「受難の時代」だった。その一方、政府・文部省は、科学振興と帝国大学の整備拡充につとめ、研究者の待遇改善、研究費の増額などが行われた。昭和14~20年の間に七帝大に25の付置研究所が設置され、多くは戦後も存続した。しかし帝国大学総長会議で文相が「研究所は戦場と心得、研究成果を第一線に応用する熱意をもってすること」と訓示したというのはやりきれない。いや、どことなく似たような世相になってきた気もするが。
終戦後、帝国大学から新制国立大学への転身はやや駆け足で語られているが、重要な役割を果たしたのが、南原繁と天野貞祐であることは分かった。天野は、旧制高等学校および帝国大学制度の温存を願ったが、最終的に南原に敗れた。しかし、七大学は各地域の中心校として別格扱いを受けるとともに、講座制を温存することで、校費配分上のアドバンテージを享受し続けた。その講座制は、大学法人化によって姿を消したが、いまも七大学が日本の代表的な研究大学であることに変わりはない、というのが本書の結びである。さてしかし、旧七帝大が「研究大学」という同じカテゴリーで肩を並べていられる状況が、あとどのくらい続くだろう、と少しペシミスティックに考えた。