見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

道教の神様たち/博物館に初もうで+常設展(東京国立博物館)

2025-01-31 23:13:38 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館 特集『博物館に初もうで-ヘビ~なパワ~を巳(み)たいの蛇(じゃ)!-』(2025年1月2日~1月26日)

 1月も最終日となってしまったが、新年の東博初参観の記事をまだ書いていなかったので書いておく。今年は京博の『巳づくし』展が先になって、そのあと、東博を見に行った。

 干支の特集展示は、ナーガ上のブッダ坐像(タイ)とかパイワン族の祖霊像(台湾)とか、日本以外の造形が目についた。つまみが蛇になっている『金印 漢委奴国王』も出ていて、ホンモノ?!と思ったら、さすがに模造だった。「ヘビは中国の後漢から見た南方の異民族を示しました」という解説には納得。

 関東では弁財天といえば江ノ島だが、北条時政が子孫繁栄を願って江ノ島の岩屋に参籠すると、弁財天が現れ、時政の願いを叶えることを約束して、大蛇となって海に消えたと言われている。北条氏の三つ鱗文の由来でもあるのだが、長い目で見ると、この願い、叶ったような叶わなかったような…。

 私がいちばん目を奪われたのは『天帝図』(元~明時代)である。中央には道教の神様である玄天上帝。足元に玄武(絡み合った亀と蛇)を描くのがお約束。背後には、北斗星の旗と剣を持った二人の従者が控える。前方には、関元帥(関羽、赤面)、黒衣の趙元帥(趙公明、黒面、黒虎に跨り金鞭を持つ)、馬元帥(馬霊耀、白面、華光大帝→黄檗宗では華光菩薩)、温元帥(温瓊、青面、温太保とも)の四元帥が従う。狩野探幽、徳川吉宗の蔵を経て、霊雲寺に伝わったという。「霊雲寺」という文字を見て、2023年の『中国書画精華』で見たことを思い出した。全体画像は当時の「1089ブログ」に掲載されているので、私の好きな部分を挙げると、まずはこの、応援団の団旗みたいにデカくて黒い北斗七星の旗。

趙元帥の足元にうずくまるのは黒虎(黒豹?)。ウナギイヌみたいでかわいい。

 道教の神様は設定が細かいので、調べれば調べるほど面白い。

 もうひとつ、楽しかった特集は『拓本のたのしみ-明清文人の世界-』(2025年1月2日~2025年3月16日)。碑拓法帖と明清時代の文人による関連資料を展示し、書の拓本に魅せられた明清文人の世界を紹介する。台東区立書道博物館との連携企画を名打っていたが、三井記念美術館『唐(から)ごのみ』と共通・関連する作品も多かった。

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あれもこれも盛りだくさん/HAPPYな日本美術(山種美術館)

2025-01-30 22:16:59 | 行ったもの(美術館・見仏)

山種美術館 特別展『HAPPYな日本美術-伊藤若冲から横山大観、川端龍子へ-』(2024年12月14日~2025年2月24日)

 山種美術館の新春企画は、いつもお正月らしい華やかな気分を味わうことができるので、毎年、楽しみにしている。今年は、長寿や子宝、富や繁栄など、人々の願いが込められた美術に焦点をあて、現代の私たちにとってもラッキーモティーフといえる作品を紹介する。

 冒頭は横山大観の『天長地久』(だったかな)。斜面に点々を連なる松林。大観の松はすぐに分かる。三人の画家が松竹梅を競作したセットが2件出ていたが、どちらも大観は松を描いていた。竹内栖鳳の「梅」が私の好み。春の大地が、茶色から若草色に変わりゆくところが、和菓子の色合いのようで美しかった。干支の巳を描いた小品もいくつかあったが、奥村土牛が描くとヘビもりりしく愛らしくなる。

 めでたい「生きもの」のセクションには鶴が多数。すらりとした立ち姿は美しく、饅頭みたいにまるまった姿(古径『鶴』)も可愛い。若冲の墨画『鶏図』(個人蔵)が何食わぬ顔で混じっていたのには笑ってしまった。鳥たちに囲まれて、なぜか『埴輪 猪を抱える猟師』(古墳時代)と、木製の『迦陵頻伽像』(室町時代)が展示されていた。どちらも個人蔵。

 三角帽子をかぶった『猪を抱える猟師』は、右目と左目がアンバランスで、口もひん曲がっており、不思議な表情をしている。しかし鼻筋が通っていて横顔はイケメン。ビートたけしに似ているなあと思いながら、この埴輪は見たことがあると思い出した。記録を調べたら、2019年の『日本の素朴絵』展に出ていたもので、のちに『芸術新潮』上で「古墳時代のビートたけし」と呼ばれている。

 『迦陵頻伽像』は、細見美術館の『末法』展などで見たものだと思う。キャプションに「にこやかでやさしい表情」とあったが、私はこの微笑みが逆に恐ろしいのだが…。覚園寺の日光菩薩の光背に付いていた可能性があるという。鎌倉の覚園寺、そんなに大きな仏像があったんだっけ。久しぶりに行ってみたくなった。

 川端龍子は、象のインディラ来日に触発された『百子図』、わんこにしか見えない獅子と牡丹を描いた『華曲』など大作も展示されていたが、『鯉』2幅が恐ろしくよかった。左に黒い真鯉2匹と緋鯉1匹、右に真鯉2匹がたゆたっている。初めて名前を聞いた新井洞巌(1866-1948)の『蓬莱仙境図』も気に入った。山の緑がきれい。最後の南画家と呼ばれているそうだ。

 富士図は、青を基調とした土牛の『山中湖富士』と小松均の『赤富士図』がきれいだった。司馬江漢の『駒場路上より富嶽を臨む図』(個人蔵)というオマケつき。10人ほどの人々がぎゅうぎゅうに寄り集まって富士を遠望する図。マンガみたいな筆致である。

 下村観山の『寿老』は、雪舟作品を思わせる妖しさ。鹿が頭を撫ぜられてなついている。品のいい大黒天の絵があると思ったら、『オタケ・インパクト』の尾竹竹坡の作品だった。

 第2展示室には、生まれたばかりの仔牛を描いた山口華楊の『生』が出ていたが、この作品はこういう狭くて薄暗い空間のほうが合っているように思った。若冲の『伏見人形図』には口元がゆるむが、『蛸図』(個人蔵)はぞわぞわして不思議な作品。めずらしい個人蔵作品をたくさん見ることができてお得感もあり、楽しかった。

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公設浴場の普及/風呂と愛国(川端美季)

2025-01-29 22:59:10 | 読んだもの(書籍)

〇川端美季『風呂と愛国:「清潔な国民」はいかに生まれたか』(NHK出版新書) NHK出版 2024.10

 「まえがき」に言う。現代に暮らす日本人の多くは、毎日風呂に入るのが当たり前だと思っている。しかしいつから私たちは毎日風呂に入るのが「当たり前」だと思うようになったのだろうか――。同じような問いかけは、何度かSNSで見たことがあって、昭和の生活を知る世代から、むかしは毎日は風呂に入らなかった、という体験報告が語られたりした。私は1960年代、東京生まれで、家に風呂はあったが、毎日は入らなかった気がする。いつの頃からか、我が家は毎日風呂を沸かすようになったが、必ず毎日入っていたのは、入浴好きの父親だけだったように思う。いまの私は、毎朝シャワーは浴びるが、めったに湯船には浸からないので、本書の「日本人」像から外れるなあ、と思いながら読んだ。

 はじめに前近代の日本の湯屋について紹介する。光明皇后の逸話に始まり、仏教寺院に湯屋や設けられた浴室の説明があるが、それとは別に、営利目的の恒常的な浴場は、遅くとも鎌倉時代には存在していたという。江戸時代初期には、蒸し風呂と湯に浸かる温浴が混合したものが現れた。そのひとつが「戸棚風呂」で、やがて「柘榴口」という様式が主流になった(挿絵つきで分かりやすい)。また「湯屋」と「風呂屋」は、湯に浸かるところか蒸気浴かという機能の違いとともに、「風呂屋」は性行為を目的とする店であったという説もある。

 明治期になると、男女混浴の禁止(江戸時代にも禁止令は出された)、「湯屋の二階」(男性客の社交場だった)の禁止などによって、湯屋は現代の公衆浴場に近づいていく。また西洋医学や衛生行政の立場から、身体に適した入浴方法が論じられるようになった。さらに明治30年代には「入浴好きな日本人」という言説が登場する。背景には、欧米の日本に対する偏見(黄禍論)があり、それに対抗するために「我が那には古来淋浴の美風がある」「欧米では上流階級も頻繁に入浴しない」ということが唱えられたのではないかという。おもしろいけど、対抗できるのがそこかと思うと物悲しい。なお、この時期は、日本の浴場の水質が汚いことが指摘され始めた時期でもある。

 大正期には、工業化によって東京や大阪の労働者人口が急増する中、欧米の公衆浴場運動を知った社会事業家たちが、下級労働者やその家族に入浴回数が非常に少ない者がいることを問題として取り上げ、生活保障としての浴場の設置が行政レベルで展開されていく。公設浴場は「労働者」や「貧民」の慰安と労働力回復のために必要な施設とされた。本書には、大阪について、「中流以下の市民」を対象にした市営住宅が造営されたこと、その市営住宅地域内に公設浴場が設けられたことが紹介されている。なんだか大正期のほうが、いまの地方自治体より、行政のなすべきことをよく分かっている気がする。そして、「入浴好きの日本人」の原点は、近世以前の湯屋の伝統などではなく、むしろ大正期の公衆浴場普及の成功にあるのではないかと思った。

 このほか、女性は家庭において入浴習慣を実践・継承する役割を期待されたこと、明治期の「国民道徳」の論者が、あたかも清潔な身体の重視と歩調を合わせるように、日本人の精神の「潔白」を重視したこと、さらに国定修身教科書では清潔・健康が「世のため国のため」の徳目となっていることを紹介する。ただし、この末尾の3章は、結論ありきの感があって、好みが分かれると思う。私は大正期の社会事業や細民救済施策の実態をもっと知りたくなった。ほかの本を探して読んでみよう。

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下り坂の先に/東京裏返し 都心・再開発編(吉見俊哉)

2025-01-26 23:05:38 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉『東京裏返し 都心・再開発編』(集英社新書) 集英社 2024.12

 2020年刊行の『東京裏返し』では、都心北部を歩いて歴史の古層を探索し、「東京についてのあまりにも自明化されたリアリティ」を「裏返し」していく実践を示した著者が、本作では都心南部(南西部)をフィールドとする。もとは雑誌「すばる」2023年11月号~2024年5月号に掲載した内容に加筆修正したもので、集英社新書編集部の担当者、カメラマン、ライターと著者の四人で朝早くから歩き回った旨が「あとがき」に記されている。

 著者は街歩きの鉄則として「狭く、曲がった、下り坂」の愉しみを挙げる。上り坂は坂の頂上に意識が向かうが、下り坂では、細かい路地や長屋風の集落など、変化に富んだ風景に出会うことができる。こうした下り坂を探すのに重要なのが川筋だ。東京は、東に向かって張り出した武蔵野台地の東崖に形成された都市で、西から東に流れる大小の河川が、武蔵野台地を削って、台地と低地を繰り返す、複雑な地形を築いている。

 私は東京育ちだが、生まれが武蔵野台地の外側(東側)の下町低地だったので、東京の地形に対する感覚は鈍かった。かなり大人になって、中沢新一の『アースダイバー』(2005年)を読んだ頃から、ようやく東京都心の複雑な地形に気づいた。本書には、渋谷川、古川、目黒川、北沢川、烏丸川、三田用水、蟹川、鮫川など、川の名前が頻出する。しかし、いま私が住んでいる東京東部の河川の存在感に比べると、都心西部の川は、暗渠になったり断ち切られたり、現存していても、街づくりにその魅力を生かせていない場合が多いようだ。

 本書に紹介されたスポットで特に気になったところを挙げておく。渋谷川の章では、著者の現在の所属大学である國學院大のキャンパスに立ち寄り(ただし本務はたまプラーザキャンパスとのこと)、國學院大學博物館を「絶対にイチオシの施設」と紹介していて嬉しかった。しかしすぐ隣の渋谷氷川神社には行ったことがないので今度行ってみよう。三田用水の章では、荏原畠山美術館と、すぐそばの豪壮な白亜の邸宅の記述がある。「誰もがよく知るIT長者」の邸宅だそうで、私も年末に久しぶりに荏原畠山美術館を訪ねて、成金趣味まるだしの豪邸に呆れたばかりだったので、とても共感して読んだ。ちなみに白金の地名が、中世に「白金長者」と呼ばれる富裕な豪族の館があったから、というのは初めて知った。

 また白金台の常光寺は、長く福沢諭吉の墓があった寺で、今でも慶応義塾による「史蹟 福澤諭吉先生永眠の地」の記念碑があるが、1977年に福沢家の宗旨の問題で、麻布の善福寺に移転したのだそうだ。改葬の際、ミイラになった福沢の遺体が発見されたが、遺族の意向で荼毘に付されてしまったとのこと。『医者のみた福澤諭吉:先生、ミイラとなって昭和に出現』という中公新書があるようだが、今でも入手できるかな。

 著者が、ときどき都心北部と都心南部を対比させているのも面白かった。たとえば上野寛永寺と芝増上寺。両寺はどちらも明治維新後、新政府に抑圧され続けた。焦土となった寛永寺は、博物館や動物園など近代化のシンボル空間に変容させられたが、増上寺は本堂を教部省(宗教関係を所管する官庁)に献納させられ、仏教寺院であることを否定され、代わりに天照大神などを祀る神殿が置かれたという。とんでもないな、明治政府。なお、増上寺の将軍家霊廟は徳川家が所有することを許されたが、1945年3月10日と5月25日の空襲で焼失してしまう。さらに戦後、御霊屋部分の土地を購入した西武鉄道の堤康次郎は、徳川歴代将軍の墓を掘り起こしてまとめて一箇所に改装してしまった。なんだろうなあ、この酷い仕打ちの掛け合わせ。

 堤康次郎については、むかし猪瀬直樹の『ミカドの肖像』を興味深く読んだが、本書には石川達三の小説『傷だらけの山河』が紹介されている。そして本書は、堤康次郎的な開発主義は戦後復興期だけの問題ではなく、東京では今日も「街の殺戮」が繰り返されていることを告発している。

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水道橋でいつものイタリアン

2025-01-25 20:52:32 | 食べたもの(銘菓・名産)

久しぶりにむかしの職場仲間と新年会の相談がまとまり、いつもの水道橋駅前の「ワイン処Oasi(オアジ)」で食事をしてきた。前回と同じ、飲み放題つきのイタリアンのコース。

色とりどりの野菜がたっぷり盛られた前菜が嬉しくて、思わず「最近、野菜が高くてねえ」という愚痴がこぼれてしまう。

グラタン→ピザ2種→パスタ→肉料理と続いたのだが、美味しいので、写真を撮り忘れて、そさくさと食べてしまった。

3時間飲み放題は、スパークリングワイン→サングリア2種→ワイン→カクテル…とゆっくり楽しめてお得。最後はコ-ヒ-とデザート。

かつての同僚の近況情報を交換する中に、お亡くなりになった先輩の話も聞いた。まあ誰もがいつかは行く道なので、元気なうちに人生を楽しんでおこうと思う。
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2025年1月関西旅行:中国陶磁・至宝の競艶(大阪市立東洋陶磁美術館)

2025-01-22 21:17:54 | 行ったもの(美術館・見仏)

大阪市立東洋陶磁美術館 大阪市・上海市友好都市提携50周年記念特別展『中国陶磁・至宝の競艶-上海博物館×大阪市立東洋陶磁美術館』(2024年10月19日~2025年3月30日)

 2024年が大阪市と上海市の友好都市提携50周年にあたることを記念する特別展。同館のホームぺージには「本展の主な見どころ」4点が掲載されている。

 第一に、出品作品50件のうち、海外初公開作品19件を含む日本初公開作品22件が含まれており、さらに最高級ランクの「国家一級文物」10件が含まれていること。展示構成としては、第1室「至宝精華」に上海博物館所蔵の12件が展示されており、このうち一級文物が6件だった。元時代の『青花牡丹唐草文梅瓶』とか、展覧会のメインビジュアルにもなっている『緑地粉彩八吉祥文瓶』(清時代・乾隆)とか、黒の濃淡のみで絵付けした『琺瑯彩墨竹茶碗』(清時代・雍正)とか、目を奪われる名品揃いの中で、私が惹かれたのは『釉裏紅四季花卉文瓜形壺』(明時代・洪武)。私はこれまで「釉裏紅」という技法をいいと思ったことが一度もなかったのだが、初めてその魅力が分かったように思った。

 見どころの第二は、清朝宮廷御用磁器の希少なアップルグリーン色の作品が日本で初出品されていること。全く事前情報を仕入れていなかったので、展示室で『蘋果緑釉印盒』(清時代・康煕)を見たときは呆然とした。手のひらに収まるくらいの小さなやきものだが、人間が造ったものとは思えない、絶妙の味わいがある。

 上海博物館の所蔵品は第1室以外にも展示されている。上海博物館には、これまで“空白期”と呼ばれていた明時代・15世紀の正統・景泰・天順の三代(1436-1464)の景徳鎮磁器の優品が多数所蔵されており、第7室「至宝再興」には、近年の研究と再評価によって注目されているこの“空白期”の作品14件を展示する。これが見どころの第三。『青花玉取獅子文盤』(明時代・正統~天順)は、飛び跳ねまわるような獅子のトボけた表情がかわいい。

 さらに「至宝競艶」と題した3つの部屋で、上海博物館と大阪市立東洋陶磁美術館コレクションの比較・共演を楽しめるのが、見どころの第四。しかし、超一級の上海博物館の優品に対して、ひけをとらない東洋陶磁美術館コレクション、やっぱりすごい。大阪の、いや日本の宝だとしみじみ思った。

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2025年1月関西旅行:大シルクロード展(京都文化博物館)

2025-01-21 22:50:32 | 行ったもの(美術館・見仏)

京都文化博物館 特別展・日中平和友好条約45周年記念『世界遺産 大シルクロード展』(2024年11月23日〜2025年2月2日)

 一年ほど前、東京富士美術館でやっているなあと思ったが、我が家から八王子は遠くて行き逃してしまった。そうしたら、ちょうど京都に巡回しているというので見て来た。洛陽、西安、蘭州、敦煌、新疆地域などで発見されたシルクロードの遺宝約200点が来日しており、「世界遺産認定後、中国国外で初めて行われる大規模展覧会」という触れ込みである。世界遺産登録っていつ?と思って調べたら、2014年に「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の名称で登録されていた。

 私は1980年代のシルクロードブームを記憶しているけれど、当時はあまり関心がなかった。90年代には、年1回の中国ツア-旅行を繰り返して、新疆地域にも河西回廊にも行った。本展は文物のほかに、遺跡や景勝地の大きな写真パネルが掲示されていて、ベゼクリク石窟!高昌故城!天水の麦積山!!など、懐かしさで息が荒くなってしまった。

 展示品は基本的に撮影自由。本展のメインビジュアルになっていたのが、この『瑪瑙象嵌杯』(5-7世紀)。1997年に新疆ウイグル自治区イリ州の古墓から出土したものだという。

 マニ教の僧侶に送られた年賀の手紙(11世紀初め)。縦書きで左から右へ読むソグド文字で書かれている。受取人への敬意を示すために極彩色の絵を添える。マニ教とかソグド文字と聞いてわくわくするようになったのは、比較的最近のこと。

 『草花文綴織靴』(1-5世紀)。1995年に新疆ウイグル自治区ニヤ遺跡の墓地から出土。女性被葬者が履いていたというくるぶし丈の愛らしいブーツ。一目見て、これは見たことがある!と確信したのだが、どこで見たのか思い出せない。2005年の江戸博『新シルクロード展』があやしいのだが、残念ながら自分の参観記録には記述がなかった。

 『献馬図』。唐太宗の葦貴妃墓出土。これも見たことある!と興奮したもの。2005年の江戸博『新シルクロード展』のサイトが残っていて「世界初公開」の文字とともに画像が掲載されていた。まあ私は、所蔵元の昭陵博物館にも行っているので、現地で見ているかもしれない。

 武威市雷台墓出土の『車馬儀仗隊』の一部や、敦煌壁画『反弾琵琶図』の模写も懐かしかった。一方、もちろん初めて見る出土品も多数あった。2000年以降にも貴重な文物が出土し続けていることには、単純に感歎する。

 『連珠対鹿文錦帽子』(7-9世紀)は、このところ中国ドラマで宋代の「帽妖案」に接していたので目に留まった。

 あと、洛陽の白居易故居遺跡から出土した石硯(円形)というのがあって、しみじみ眺めてしまった。

 展示会場の出口に巨大なラクダの剥製が展示されていた(東京富士美術館所蔵)。1985年に開催された『中国敦煌展』を記念し、敦煌研究院の段文傑院長から池田大作氏に贈られたもので、常書鴻氏が「金峰」「銀岳」と名づけたのだそうだ。40年を経ても大事に保存されていてよかったね。

 また、本展の文物は、中国国内27か所の博物館から集められたもので、その写真付き紹介パネルもあった。いやあ、知らない博物館がたくさん誕生しているんだなあ…行ってみたい。

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2025年1月関西旅行:抱一に捧ぐ(細見美術館)他+後日談

2025-01-20 22:16:25 | 行ったもの(美術館・見仏)

細見美術館 琳派展24『抱一に捧ぐ-花ひらく〈雨華庵(うげあん)〉の絵師たち-』(2024年12月7日~2025年2月2日)

 1泊2日の新春関西旅行、日本美術関係の見たものをまとめておく。2日目は大阪で少し遊んだあと、京都で細見美術館に寄った。

 江戸琳派を確立した酒井抱一(1761-1828)は、文化 6年(1809)、身請けした吉原の遊女とともに下谷根岸の百姓家に移り住む。同所はのちに「雨華庵」と呼ばれ、晩年の作画の場、弟子たちを指導する画塾となり、抱一没後は門下の絵師たちに継承された。本展は「雨華庵」ゆかりの絵師たちを多角的に蒐集した「うげやんコレクション」の協力を得て、江戸琳派の作品を展覧する。

 酒井抱一、作品はよく知っているけれど、これまで閲歴にはあまり興味がなかったので、姫路藩主の孫として生まれ、37歳で出家、50歳を目前に吉原の遊女を身請けするなど、なかなかドラマチックな人生だなとあらためて思った。抱一の没後、「雨華庵」を継いだのは、養子の鶯蒲、鶯一、道一、抱祝。彼らの作品は、いかにも江戸琳派らしい、さわやかな美学を受け継いでいる。この中では、私は比較的、抱祝の作品をよく見ているけど、抱祝の没年が1956年と聞くと、環境や趣味の激変の中で、抱一の後継者が途絶えてしまったのもやむを得ないかと思う。

楽美術館 新春展『様相の美 文様の美』(2025年1月7日〜4月20日)

 続いて楽美術館に寄った。今回は、樂焼では珍しく、文様に焦点をあてた展覧会。確かに楽焼というと無地または自然な釉薬の流れを愛でるものが多いように思うが、意図的な文様を施したものもいくつかある。二代・常慶の『赤樂菊文茶碗』が、初めて楽茶碗に文様が入った例として紹介されており、その後も文様入りは赤楽茶碗が多い印象だった。十六代(当代)吉左衞門の『富士之絵赤樂茶碗』は、赤楽茶碗に黒い影が入っていて、釉裏紅を思わせた。

 この日は、久しぶりに晴明神社にも立ち寄って、羽生結弦くんのアイスショーの成功祈願をして帰京した。

 さて、その翌日(成人の日)、東博と書道博物館を訪ねるついでに、根岸の「雨華庵」跡に立ち寄ってみたくなった。ネットで検索すると「根岸5-11-36」という番地が出てくる。書道博物館から徒歩15分程度の距離があるが、ぶらぶら歩いていくことにした。ネットには、書道用品販売の精華堂の建物の写真が載っている記事もあるが、行ってみると、ふつうのマンションになっていた。精華堂さんは2012年に破産し、社屋も取り壊されたらしい。

 今はもう、何も痕跡はないのだろうか、と思ったら、隣りの歯医者さん(根岸5-11-35)のブロック塀の前に「酒井抱一住居跡」(2015年2月、台東区教育委員会)の説明板が立っていた。

 地図を見ると、南東にちょっと下れば吉原である。このあたり、抱一の時代にはどんな環境だったのか、調べながら歩いてみたい。

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2025年1月関西旅行:巳づくしなど(京都国立博物館)

2025-01-19 21:49:02 | 行ったもの(美術館・見仏)

京都国立博物館 名品ギャラリー(1階)

 先週末に書いていた名品ギャラリー(3~2階)レポートの続きである。

・『京都の仏像・神像』(2025年1月2日~3月23日)

 1階の大展示室(彫刻)、階段下には愛宕念仏寺の金剛力士立像がお出まし。中央の展示台には安祥寺の五智如来坐像が戻った。展示ケースに唐風装束の凛とした小さな女神様がいらっしゃると思ったら、高山寺の善妙神立像だった。同じく高山寺の白光神立像も白一色のお姿に赤い唇が印象的な美貌。また、膝の上に横たわる幼児(童神)を抱いた女神坐像は市比賣神社のもので、2階の特集『日本の女性画家』とあわせて、女性的なものへの注目を感じた。

・新春特集展示『巳づくし-干支を愛でる-』(2025年1月2日~2月2日)

 新春恒例の干支特集。縄文時代の土器、根付、鱗文の能装束、十二神将の巳神像など。東福寺の明兆筆『五百羅漢図』から、大蛇の口の中で座禅を組む羅漢の図が出ていたのが面白かった。

・『墨蹟-禅僧の書』(2025年1月2日~2月9日)

 正月から地味な特集を組むなあと思ったけど、嫌いじゃない。寺院で所蔵しているものが多いので、やっぱり京都ならではの特集だと思う、

・特別公開『名刀再臨-時代を超える優品たち-』+特集展示『新時代の山城鍛冶-三品派と堀川派-』(2025年1月2日~ 3月23日)

 重要文化財の刀剣3口の寄贈と寄託を受けたことを記念する特別公開。刀剣は1口ずつ公開されることになっており、1月2日~26日は『太刀(銘・国安)』の展示だった。国安(くにやす)は鎌倉時代に栄えた京の刀工集団・粟田口派の一人。1942年、旧国宝(重文)に指定された後、所在不明だったが、現在の所有者から申し出があり、80年ぶりに発見されたものだという。

 同時開催の特集展示では、新刀期(慶長年間以降)の山城(京)鍛冶の双璧をなす三品派と堀川派の名品を紹介する。私は刀剣の魅力はよく分からないのだが、坂本龍馬所用の刀(銘・吉行、子孫の坂本家に伝わったが釧路火災で鞘などを焼失)など、歴史的な由来のあるものは面白かった。

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日本近代文学館のカフェ

2025-01-18 23:38:47 | 食べたもの(銘菓・名産)

 今日は駒場の日本近代文学館で『三島由紀夫生誕100年祭』を見てきた。展示の話は別稿とするが、館内施設の「Bundanカフェ」(週末はいつも混んでいる)に、初めて入ることができた。「シェイクスピアのスコーン」は付け合わせを選べるので、マーマーレードとサワークリームを選択。スコーンはアツアツで、予想の倍くらいの大きさだったので、食べ応えがあった。

 「本日、セットになるコ-ヒ-は芥川だけです」と言われたのでそれに従う。実はほかに寺山、鴎外、敦というブランドもあるので、次の機会に試してみたい。「寺田寅彦の牛乳コ-ヒ-」もかなり魅力的。

 今週後半は軽井沢出張に出かけていた。今日はのんびりして体力回復につとめたので、あらためて中断中の関西旅行の記事を書き続けたい。

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