〔エゾ鹿〕 この間、ウサギさんは、良心の中身は人によって、時代によって、文化によって、かなり違う相対的なものだといったね。しかし、「これは、善いことだからしなさい!これは、悪いことだからしてはいけない!」と心の一番奥深いところで聞こえてくる良心の声の中身は、個人によっても、時代によっても、環境によっても変わらない絶対性を持っているとは思わないかね?それと、良心の声は自分の声ではなく他人の声だということも、万人に共通な絶対的真理だと思うけど、どうかね?
もし、良心の声が自分自身の声だとしたら、自分にとって好ましいこと、心地よいこと、得になること、自分のほしいままな欲望を満たしてくれることを「善」と呼び、好ましくないこと、やりたくないことを「悪」だと自分で決めれば、厄介な良心との葛藤など生まれてこないわけではないだろうか?葛藤があるということが、良心の声が自分の声とは違う、自分から独立した、他者の声だということの決定的証拠になる。自分の存在のもっとも奥まった深いところに響く他者の声、それが「良心の声」の本質だとは思わないかい?
〔ウサギ〕 他者って誰さ?善い天使?それとも、あなたの神様自身?けど、「良心の声など聞くな!恐れずお前の欲望を満たせ!」と誘惑する、悪魔の囁きもあるものね!?
〔エゾ鹿〕 たまには君もいいこと言うね。しかし、せっかくだが、その枝道に入り込むと、話が複雑になって収拾がつかなくなるから後回しにして、今はもう少し先まで進んでみることにしよう。
〔ウサギ〕 ちぇっ!またはぐらかされた。仮に、百歩譲って、良心の声は決して「悪をなせ」、「善から遠ざかれ」とは言わない、という限りにおいて、良心の絶対性を認めるとしよう。また、その絶対性が時代によって逆転することもなかったという意味で、普遍性も認めるとしよう。さらに、自分の深奥に響く声でありながら、自分の恣意的な思いによって微動だにしない、誰か他の人格からの声えであることも認めてもいい。
しかし、良心の声を強くはっきりと聞く敏感な魂と、遠く小さくしか聞こえず自分の行動に余り大きな影響を感じない魂と、ほとんど良心の声など聞いたことのない鈍感な魂とあるように思われるが、この強弱の相対性はどう説明してくれるのですか?
〔エゾ鹿〕 おや、ウサギさん、今日は馬鹿に冴えているね。その点はまさに相対的で、百人百様、何か納得の行く説明が必要だね。しかし、今日はここまで。
〔ウサギ〕 なーんだ、つまらない。せっかく話が面白くなりそうになったのに。実は、困っているのではないですか?また、長考一番なんてやらないでくださいよ!