グアムに着いた最初の月曜日、先ず日本クラブを訪れた。そこで再会を果たしたNさんを通して、私は一冊の本に出会った。それは、「地獄の虹」と題する一人の牧師の数奇な運命を綴ったものだった。
かつて、住友銀行の取締役に就任したばかりのエリート銀行マンが、ある日突然仏門に入った、というニュースが小さなショックを伴って丸の内、霞ヶ関を駆け抜けたことがあった。私が外資系の投資銀行を辞めて、カトリックの司祭になった時、その国際版として、「ウオールストリートからバチカンへ」と持ち上げる人たちがいた。
しかし、この本の主人公の生涯は、そのスケールの大きさ、運命の悪戯の過酷さ、転進のダイナミックさにおいて、全く他との比較を超えていた。私は、その夜、一睡もせずにむさぼるよう読み進み、空が白むはるか前に、興奮のうちに読み終えて、やっと短い眠りにつくことが出来た。
戦前の沖縄。貧しい父親が、妻子を残して、太平洋の島テニアンの農場に出稼ぎに行った。貧困に耐え切れなかった母親が、子供たちを棄てて男に走った。8歳のとき、長男の荒垣三郎だけが、父親の後を追って島を出てサイパンへ渡り、その後、熱心な軍国少年として実業学校に通っていた。17歳のとき太平洋戦争がサイパンを襲った。大本営から切り捨てられた南洋諸島の守備隊の運命は過酷を極めた。
民間人として、何度も死線をさ迷いながら、九死に一生を得て生き延びた三郎は、ゲリラ戦の中で一人の憲兵に出会い、彼に付き従った。その憲兵の命令で、アメリカ軍に投降した日本兵の捕虜収容所に潜入し、アメリカに協力的な捕虜のリーダーを二人暗殺する命令をうける。
実行後、収容所から逃亡して抵抗部隊に戻るが、結局、憲兵ともどもアメリカ軍に捕まり、日本軍が米兵に加えたのと同じ方法による殺人的拷問を受ける。裁判では、暗殺を命令した憲兵の裏切りで、殺人の単独犯として死刑が確定、グアムに移送される。
あとで、憲兵が自分に全ての罪を着せて、自身は無罪放免になったのを知り、怒りと絶望で野獣のような日々を送る獄中で、たまたま聖書に出会った。彼は、信仰の光に照らされ、洗礼を望み、模範囚となり、死刑から無期懲役に減刑され、さらに多くの人の嘆願が実って、9年間の獄中生活の後、トルーマン大統領の特赦で刑を解かれる。その後は、獄中で立てた誓いを守り、沖縄に帰って牧師として働くという展開である。
牧師として成功を収めた荒垣三郎は、民放テレビ局のドキュメンッタリー番組制作のため、自分の歴史を辿る旅に出る決心をする。
収容所内の最初の殺人現場に立った牧師は、凶器として使った銃剣を握り締めるように右拳を固め、その手を見つめて言った。(以下、本からの引用)
「この手で・・・・。この手で、私は、やってしまいました・・・・。」
声が重い。悔いであろう、その頬がかすかに歪む。
「あの、死んでいった人の最後の声・・・・。今も忘れられません」
牧師の目が陰り、しばたく。
「私は、間違っていました。(私が殺した)Aさんこそが、正しかったのです。事態を正しく認識していたのです。(私たちの)脅しにも屈せず、正しいと信じることを貫いた・・・。私は、右も左もわきまえず、ただ憲兵の命令を遂行することが、天皇陛下のため、御国のためと思い込んで、罪を犯してしまいました。これ以上恐ろしい罪はありません。胸元で固く握り合わせた両の手が、かすかに震えた。「いまはひたすら、許しを求め、Aさんのご冥福を祈るほかありません。罪を悔い、神に祈りを捧げます」瞑目し、頭を垂れて動かなかった。白日のもと、カメラの眼に身をさらして、荒垣牧師は立ち尽くした。その目から涙がこぼれ落ちた。
第二の殺人現場は、収容所の外だった。第一の殺人のあと、収容所にいられなくなった憲兵と荒垣は、脱走してジャングルの元の部隊に身を寄せていた。今回、テレビカメラを伴った追憶の旅の果てに、苦労して探し当てたその場所で、(以下、本からの引用)
「ここだ、・・・・」
つぶやき、じっと葦原を見まわす。視線が止まり、緩やかに地に落ちた。
荒垣牧師は目を閉じ、黙して動かなかった。
(撃て、の指図に従って、三郎は拳銃の引鉄をひいた。元日本兵Bは茅原に倒れ込んだ。とどめを!と憲兵がいった。三郎は心を凍らせ、第二弾を放った。)
「ここです。第二の殺人を・・・・」
ようやく顔をあげた牧師の目は昏く、苦渋に満ちている。
「私は、なんという罪を・・・・」
荒垣牧師は瞑目して頭を垂れた。
「神よ、・・・・。亡き方の冥福とご家族の平安を・・・・」
牧師の頬がかすかに震えた。
「天の主なる神様、私はきょうここに再び立ち、この恐ろしい罪を心から悔いるとともに、亡くなった方に哀悼の意を表わし、神の前にいまひとたび、罪の赦しを求めるものであります。あのような戦争が二度と起こらないように、世界の平和のため、人類の救いのために、私は神の福音をかかげて、献身したいと思います。罪深い弱い私でありますけれども、神にきよめていただき、力を増し加えていただきまして、神のみ業のためにお用いくださいますように・・・・」
引用すべき箇所をもう一つだけ選ぶとすれば、それはやはり、裏切り者の憲兵との再会の場面だろう。荒垣は、執念で彼を探し当てていた。
戦後9年。新宿の繁華街の裏通り。そこは、二階建ての古い下宿屋だった。城島健男はいるか・・・・。家の前に立って、三郎は気持ちを静めた。遠く雷鳴が聞こえた。
玄関の戸を開け、声をかけると、50年配のおかみが出てきた。三郎は尋ねた。
「城島さん、いますか」
「はい、2階に。どちらさんで?」
「友達の荒垣が来たといってください」
「はいはいお待ちを」
おかみは気さくに受けて、脇の階段を上がっていった。
「城島さーん。お客さんですよー!」
おかみの声は聞こえるが、答える声は聞こえない。
「もうすぐ下りてきますから」
「すみません」
三郎は頭をさげた。城島は降りてこない。
外で待とう、と思った。雷鳴が聞こえた。見上げると、空に灰色の雲がひろがっている。
腕を組み、じっと待つ。こうして、グアムの刑務所では処刑のときを待った。死の恐怖に苛まれ、城島憲兵伍長に対する怨念に燃えて・・・・。あの頃のことが、遠い、悪夢のように思える。
15分あまりたった。まだ城島は下りてこない。
30分は経過した。三郎の中に疑念がひろがる。
稲妻が光った。雷鳴が響きわたった。三郎は立ち上がった。
(逃げた!?)
三郎は走った。建物の裏へまわって、二階を見上げた。外に出られるつくりにはなっていなかった。表にもどって、窓を見上げた。洗濯物が干してあり、窓から逃げた気配もない。城島は部屋にいるはずだ。
一陣の風が砂ぼこりをまきあげた。三郎は、また戸口の石段に腰を下ろし、考えた。
(彼は、いま、何を思っているのだろう?)
(三郎が復讐に来た、と・・・・)
彼は、秀れた勇敢な軍人だった。祖国を護るために献身する彼の信念に、三郎は心酔した。
三郎は、徹底した軍国主義教育を受けた。その結果、天皇のため、国のためと確信して、彼に命じられるままに、殺人の罪を犯した。
彼もまた、軍国主義の教育を受けた男である。ともに民族の危急存亡にかかわる戦争の時代を生きなければならなかった、同じ哀しみを背負っていた・・・・。
戦い終わったとき、ひとを裏切っても死から逃れようとした、人間の弱さ、ずるさ・・・・。それも、生まれながらにして原罪を背負った、人間なればこそか・・・・。
(彼も苦しんで生きてきた・・・・?)
(それを救うのは、神の愛のみ・・・・)
沛然と雨が降りだした。稲妻が走り、雷鳴がとどろいた。
ふと、背後で戸の開く気配に、三郎は振り返った。
「・・・・!?」
城島健男が立っていた。三郎は立ち上がり、面とむかった。
城島は、うつむいたまま、黙っている。三郎は言うべきことばを失った。
ようやく、城島がゆっくり顔をあげた。いくらかやつれたか・・・、目が暗い。内心のおののきが浮き出て見える。
「城島さん」
三郎は呼びかけた。
見返した彼の目に、ちらと怯えが走った。
「荒垣三郎ですよ」
「・・・・」
城島はうなずいた。
「しばらくです」
城島は、黙って目を伏せた。
「死刑を免れて・・・・、元気で、帰ってきました」
「・・・・」
「恐れないで下さい」
「・・・・?」
城島が顔をあげて、訝しげに三郎を見た。三郎は言った。
「私はもう、昔の荒垣三郎ではありません」
「・・・・?」
「私は、生まれ変わりました」
城島がまじまじと三郎を見た。三郎は微笑んだ。
「イエス・キリストを信じて、クリスチャンになりました」
「・・・・?!」
城島は目を見ひらいた。
「城島さん。昔のことは、忘れましょう」
「ん?!」
城島はかすかに驚きの声を発した。三郎は城島の目を見ていった。
「私は、あなたを、悪くは思っていません」
「三郎君・・・・」
城島の目がたちまち潤み、涙があふれた。三郎は手をさしのべた。
「城島さん」
「三郎君・・・・」
城島は両の手で三郎の手を握りしめた。
「すまなかった! 三郎君、赦してくれ、赦してくれ!」
城島は、はらはらと涙を落とした。
「赦していますよ、赦していますよ、城島さん」
三郎も涙ぐんだ。城島は泣いた。声をあげて泣いた。
風が吹きつけ、しのつく雨がふたりを濡らす。三郎は言った。
「城島さん。私は、神の前に罪を悔い改め、神のために献身することを誓ったんです」
「三郎君・・・・」
「あなたも苦しんだでしょう?」
「うん・・・・、うん・・・・。それに、ながい間、病気をして・・・・」
「私は思います。罪を悔い改め、赦されて、神の愛に生きることですよ。それを、あなたに言いたくて・・・・」
「ありがとう・・・・」
城島は涙を流し、うなずいた。
「おかげで、私はいま幸せです」
「三郎君・・・・」
「互いに、助けあって生きて行きましょう」
「ありがとッ・・・・」
恩讐を越えて、男たちは肩を抱きあい、ともに涙顔で微笑んだ。
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夜を徹してこの260ページ余りの本を読みきったとき、私の心に一つの確信が芽生えた。それは、神はご自分の選んだ人に、望むがままに、ご自分の恵みと照らしを豊かに、あふれるほど、お与えになる、と言うことだ。
誰がその選びにかない、誰がかなわないかは、神様だけが知っておられる神秘に属し、人間の側から理由をただすべきものではないのだろう。
また、たまたま聖書と出会い、その教えに忠実に歩むものには、神様は差別なく、惜しみなくご自分をお与えになるということ。それは、キリスト教の中で言えば、宗派や教派の枠を超えて、限りなく自由に分け与えられるということ。
荒垣三郎牧師の場合は、たまたま彼を導いたのはセブンスデー・アドベンチスト教会だった。
私は、正直に告白すれば、カトリック教会からそう教えられてきたから、キリスト教の他の宗派に対して、いささかの偏見を持っていた。
その後、ルッターなど、もともとローマカトリック教会の真面目な神父だったものが、腐敗した教会の改革ののろしをあげ、その後プロテスタント教会を形成していった歴史の必然に対しては、それなりの理解と評価と敬意を持つようになったつもりだった。しかし、それ以外の、特に、その起源に対する十分な知識のないキリスト教諸派に対しては、今日まで一定の偏見を植え付けられたままでいた。それが今、新たな照らしを受けた気がする。
荒垣牧師の例が示唆するところは、神の霊は望むとき、望む人にその賜物を送り、力強い信仰の証を立てさせることができるということであった。
カトリックも、プロテスタントも、もろもろの教派も、みな同列に並べて相対化しようというものでは無論ないが、どんな教会、教派の中にも、神に愛され、立派な信仰の証をする魂は生まれ得るということは紛れもない事実であり、その裏返しは、どんなに立派なオーソドックスな教会の中にも、神をも恐れぬファリサイ人や偽善者が大手を振ってまかり通っていることをも意味する。
最も優れたユダヤ教徒でもあったナザレのイエスの前に立ちはだかり、彼を抹殺した当時のユダヤ教の指導者たちは、イエスから「まむしの末裔」と呼ばれ、「天国の鍵を独り占めにして、人々が入るのを妨げ、自らも入ろうとしない」という痛烈な非難を浴びせられた。
時代は移ろっても、その構図はいつの世も変わらない。大切なのは、教派・教団のスケールや、歴史的正当性ではない。一人ひとりが、いかに忠実に福音を生き、回心の実を結ぶかであろう。このことは、キリスト教の枠を超え、あらゆる宗教、イデオロギーにも当てはまりうる。神の霊は、自由に神の望むところに吹くのである。
私は、荒垣牧師に是非あやかりたいと願う。しかし、その反面、彼が今日あるために通らなければならなかった数々の試練、困難、苦しみを知るにつけても、その十字架の大きさ、重さの前に、心震え、強くたじろぐものである。