:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ イタリア人神父のブラックユーモア or 悪魔祓い

2008-05-07 12:07:57 | ★ ローマの日記

 

 

今日12月8日は聖母マリアが罪の穢れなく母の胎に宿ったという「無原罪の御宿り」の信仰の祝い日で、高松の神学校(今はローマに亡命中)の設立20周年記念日です。はたして、それにふさわしい話題かどうか?

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イタリア人神父たちのブラックユーモア or 「悪魔払い」

と題して送ります。

 


私はリーマンなどの国際金融業界を去って、放蕩息子のように教会に帰り、とうとう念願の神父になった。
その教会では、
高齢化は進み、数も急速に減って、最近神父のなり手不足が世界的に大問題化している。しかし、さすが教皇のお膝元、ローマでは、日曜日に千人も、二千人もの信者がミサにあずかり、5-6人の神父たちが忙しく立ち働いているような教会もまだ少なくない。私が一年間世話になった下町のトール・サピエンツァ(知恵の塔)教会も、そうした活発な教会の一つだった。
そんな教会の司祭館の日曜の夕食時には、一日の仕事を終えた開放感とともに、極めて和気あいあいとした神父たちだけの内輪の団欒がある。肉料理と赤ワインで腹いっぱいの上に、消化促進剤と称する食後のリキュールが入る頃には、舌の滑らかさは絶好調である。サッカーの話や政治家のこき下ろしが一巡すると、決まってお得意の冗談や駄洒落が飛び交う。オフサイドぎりぎりのXXネタまがいの話まで飛び出すのも、別に驚くには当たらない。神父といえども、れっきとした健全な男たちであることに変わりはないからである。
とは言え、生真面目な人をキリスト教に躓かせてはいけないから、ここでは飛び切り上品な例を一、二ご紹介するに留めよう。

「イタリアにはハンティングを趣味とする人が結構いる。ローマ郊外の原野と同じように、天国の郊外にも、自然保護のため禁猟期間というのもが設けられているそうだ。禁漁期間の終わりが近づくと、聖ヨゼフは口笛を吹きながら猟銃の手入れに余念がない。解禁日の朝、犬を連れたヨゼフは野原に行って、ポンと鳩を撃って、ご機嫌で帰ってきた、とさ。」それだけの話に、ほろ酔いの神父たちがどっと笑って、ではこんなのはどうだいと、次の小話に移るのだが、その前に、何の話だかよく分からなかった方のために、少々解説を加えておくことにしよう。
目に見えない神の聖霊は、ヨーロッパの宗教画では白い鳩として描かれる決まりになっている。その聖霊が、自分が寝床を共にする前の婚約者マリアに、子供を孕ませてしまった。処女懐胎のくだりである。それで、天国に行ったヨゼフは、猟が解禁になるのを待ちかねて、仕返しに不届きな鳩を撃ちに行ったと言う話である。

では、こんな話はどうだい、といって続いた小話を、次に紹介しよう。
「姦通の現行犯で捕まった女が、広場のイエスの前に引き出され、『こういう女は石で打ち殺せと、モーセの律法にはあるが、あなたはどう思うか』と言う者たちがいた。イエスは無視してしゃがんで地に字を書いていた。しかし、彼らがあまりしつこく問い続けるもので、身を起こして『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女に石を投げなさい』と言った。すると、小さな石がころころと女に向かって転がっていった。イエスは叱って、『ちょいと。母さん、やめて下さいよ!話が壊れるではありませんか』と言った。」神父たちには説明が要らないのだが、念のためにこれにも解説を加えておこう。
カトリック教会は、1864年に、聖母マリアの「無原罪の御宿り」を教義(ドグマ)として宣言した(今日12月8日がその祝日に当たる)。 2000年の歴史を持つ教会が近世に入ってドグマ(教義)を変更又は追加するのは異例中の異例だが、マリアはその母の胎に宿った瞬間から、アダムとエヴァの最初の罪(原罪)と、その後の人類の全ての罪の穢れから免れ、自らも罪を犯すことなく生涯を終えた、と正式に信じることになったのである。だから、イエスの、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女に石を投げなさい」と言う言葉に応えて、まずマリアが小石を投げた、と言う話である。(別の言葉でいえば、マリアにだけその資格があった、と言うことにもなる。)
 
これくらいなら、イタリア語の表現に少々分からないところがあっても、ただ笑って付き合っていればいいのだが、中にはただ笑っては過ごせない話もあった。
「いなかの教会に赴任してきたハンサムな若い神父さんが、超美人のオールドミスに関心を持ったそうだ。彼女は筋金入りの模範信徒で、皆の尊敬を集めていた。けれど、その本質は、プライドが高く、嫉妬深く、猜疑心が強く、吝嗇だった。その若い神父は、彼女の魂の醜い内面を見抜き、このままでは彼女は放蕩息子のお兄さんみたいになってしまう
と心配した(この件は私の本 「バンカー、そして神父」 (亜紀書房) http://t.co/pALhrPL に詳しく書いた)。 そして、放蕩息子のように、遠い国で魂の飢えと心の闇を体験しないと、改心して父の家に帰ることが出来ないだろうと彼は思った。そこで彼は彼女に対する愛から、彼女を誘惑して、密かに彼女と罪を犯す決心をした。数日後の日曜日、入り口に優しいお爺さん神父の名札があるのを確かめて、彼女は懺悔のため告白場に入った。彼女は、神父に犯されたこと、祈りながら必死で抵抗して、心では罪を犯さなかったことを淡々と報告した。しかし、抵抗するふりをしながら、体では、生まれて初めての快楽を陶酔の極みまで味わい尽くしたことには一言も触れなかった。格子窓の向こうの暗がりの中に、その若い神父がいた。神父は泣いていた。朝、具合が悪くなった老神父の代わりに彼がそこにいることに、女は気が付いていなかった。」
私は、この話を聞いたとき、二十歳のころ見た「尼僧ヨアンナ」というポーランド映画のことを思い出した。フランスの史料に記録されていた物語を、17世紀ポーランド・バロックの豊かな歴史的色彩を背景に取り入れて構成した幻想的な作品で、確かカンヌ映画祭で特別賞に輝いた秀作と記憶する。寒村にある尼僧院の院長ヨアンナが、悪魔に取り憑かれる。その調査と悪魔祓いに遣わされた神父が、美しい彼女に同情して何とか救おうとするが、悪魔は神父にその心の隙を見つけて、彼女を出て彼に取り憑く、という筋書きである。
この二つの例の教訓は、人の改心とか、悪魔祓いというようなことは、生易しい事柄ではないと言うことだろう。同情や、出来心や、力不足では、関わった神父の方が反対にやられてしまうのが落ちである。思い詰めた神父の悲しい結末と言う点で、何か共通するものを感じた。

私が、「空の墓の問題」 (これも私の本の中の一章) に拘ったのは、暗号解読に伴って、必要とあらば自分に死ぬことをも受け入れるためには、最終的には、この空の墓に対する信仰が要求されると言いたかったからである。それは、死の彼方には虚無しかない、という人生観では、とても支えきれない要求だからである。大江健三郎氏が息子の光さんとの関係で述べている復活、それも肉体の復活に伴ってこの物理的時空の宇宙も高められ霊化されて再生することをも含む彼岸の宴、「放蕩息子の帰還を喜ぶ父の催す祝宴」が永遠に続くと信じられれば、命を与える愛は可能になる。

この一文は、一度は私の本の一部として書かれ、結局その中には含められなかったものである。その本の中には、悪魔とどこかで関係するかもしれない記事(エピソード)が少なくとも3つある。この短い一文は、私の本の前後関係の中で読まないと、十分に意味が通じないかもしれないが。


シャルトルの広場で
コメント (1)
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