:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 創造と進化 ⑦ =7日目以降も続く神の創造の御業=

2020-07-25 00:00:10 | ★ 創造と進化

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創造と進化 ⑦

7日目以降も続く神の創造の御業=

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コロナの話題やホイヴェルス師の追悼ミサ関連が続いたが、「創造と進化」の哲学的考察をやめたわけではない。これは哲学者ホイヴェルス師の愛弟子を自任する私の最後で最大のテーマだからやめるわけにはいかない。

31日にアップした《「創造と進化」⑤=ビッグバン=やっと本題の入口へ》や、313日のシリーズ⑥ の「時計職人のたとえ話」の次は、「創造と進化」シリーズ第 ⑦ 弾として、旧約聖書の創世神話「神様は無から天地万物を創造され、6日目にご自分の姿に似せて知的生物≪人間≫を作り、7日目に休息に入られた」というところから始めたい。

 

 

バチカンのシスチーナ礼拝堂の天井画。ミケランジェロによって描かれた『アダムの創造』。父なる神の手がアダムに生命を吹き込む図像。

 

人間が知り得る神様の創造の御業の最初の瞬間は、いわゆるビッグバンだ。というのは、それ以前に何かあったとしても、この時空に住む我々の経験と想像力がそれ以前の状態にまでは届かないからだ。

ビッグバンを起点として神様の無からの創造の意思は、宇宙の神羅万象の存在を維持し進化を導く仕事を神様はお一人で孤独に進めてこられた。そして、進化の頂点に人間を創造すると、その人間の手に宇宙を託し、自らは安息に入られた。

では皆さんは、神様は宇宙の創造から手を引いてしまったと思われるだろうか。

どっこいそうはいかない。このシリーズの一つ前の ⑥「時計職人のたとえ話」をとっくり読み直していただきたい。時計職人は時計を完成すると、ねじを巻いて、時計がコチコチと時を刻み始めると、時刻を合わせて仕事台の上に完成したばかりの時計を残して、工房のはす向かいのカフェに行って一休み。コーヒーをすすりながらカフェの主人と世間話に時を過ごし、しばし自分の作ったばかりの時計のことを意識の外に置き忘れるかもしれない。それでも、時計は仕事台の上で忠実にコチコチと時を刻み続けている。

宇宙の場合はどうか?宇宙の場合はそうはいかない。なぜか?職人の作った懐中時計の場合、その素材まで職人が作ったわけではなかった。材料と部品は職人の手の届く範囲に存在していたものを調達してきたものだった。

神様は宇宙を無から呼び出された。つまり、神様はご自分と無関係に存在した宇宙の素材に依存することなく、全てを、素材ごとご、自分の創造の意思によって無から創造界に呼び出されたのだ。だから、宇宙が存在し続けるためには、神様の持続的創造の意思によって、一瞬、一瞬無から存在へ呼び出し続けられなければならないのだ。

言葉を変えて言えば、もし神様が被造物をご自分の意識の中に保つことをやめ、一瞬、一瞬存在へ呼び出し続けることをやめられたら、被造物はその瞬間に元の素材、つまり無に還ってしまうことになるのだ。

神様は一旦宇宙を創造し、存在を与えたら、その宇宙を存在界に置き去りにして、どこか別の場所に行って、そこで天使たちと面白い話にうち興じて、しばし自分の創造した宇宙のことを忘れて意識の外に置いてくつろぐことは出来ない。何故なら、もし宇宙が神様の持続的創造の意思の外に置かれたら、その瞬間に宇宙は元の素材の「無」に還ってしまって、その痕跡すら残らないことになるからだ。

そして、この持続的創造の意思を別の言葉に置き換えれば、それを神の「愛」ということが出来る。しかしこの愛については多くのことを語らなければならないので、今は深入りしない方がいいだろう。

宇宙の最高のマジシャン、創造主なる神様は、世界よ、在れ!と叫ばれれば世界は忽然と存在界に姿を現わし、神様の創造的意思が持続する限り世界は存在し、その意志がと切れた時、世界は忽然と元の素材、つまり、「無」に帰ってしまうのだ。

さて、神様は被造物の頂点に人間を創られた。まるで、 蒔かれた種が芽を出し、茎を伸ばし、葉を茂らせ、蕾をつけ、ついに花を開かせたように、宇宙は神様のご計画の通りに成長し、その進化の頂点に咲く花のように人間を生み出した。そして神様はその人間に神様の命の秘密、神様の存在原理である「理性」と「自由意思」のひとかけらを贈られた。その時人間は「小さな神」になった。

聖書には、神様は6日目に人を創り、7日目に休まれた、とあるが、正確に言えば、7日目からは進化をご自分一人で導かれることをやめられた、というべきではないか。

人間は神様の秘密の能力、「理性」と「自由意思」をいただいて,小さな神となって、「私」であること、つまり、自我に目覚めたものとなった。神様は人間に、「お前は私の産んだ子、私の愛の果実」と呼ぶことが出来、人間は神様に向かって「神様、あなたは私の創り主、私の父」と呼ぶことが出来るようになったのだ。

神様は人間に、今後、私は宇宙の創造的進化を一人で導くことはやめた。これからはお前と手を取り合って一緒に宇宙の進化を導こう、と招かれた。

ホイヴェルス神父様が、「歴史は神様の営みと人間の営みの 二本の紐を撚り合わせたもの」という意味のことを言われたが、それは、人間の出現以降の宇宙の創造的進化の過程の仕組みを言い当てたものと考えることもできるだろう。

 

 

いかがですか?頭の芯が疲れましたか?それとも、息切れしないで、ここまで私の論旨にすらすらと付いてくることが出来ましたか?

頭が疲れましたか?ではひと休みしましょうか。私は何も難しいこと、変なことは言っていません。ただ、皆さんがこういう思考パターンに馴れていないだけです。わかりにくかったら、落ち着いて、頭を冷やして、もう一度最初からゆっくり読んでみてください。そのうち、なるほど、と納得されるに違いありません。

 

 

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (悠子)
2020-07-25 12:18:17
宇宙の始まりなんて、わからないとするのが、常識だと思う。
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悠子さんへ (谷口幸紀)
2020-07-26 09:21:37
誰がそんな常識を決めたのでしょう?
それは、人間の知性の営み、科学も哲学も放棄した敗北の論理、不可知論の居直りではないでしょうか?
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Unknown (富永夏樹)
2020-07-27 04:04:00
創世紀を書いた人は、人間より先に存在していたのか?
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富永夏樹さまへ (谷口幸紀)
2020-07-27 07:14:02
富永様
それは無いでしょう。
創世記に書かれた神は人間より先に存在していた、は成り立ちます。
自然宗教の神、人間が考え出して自然の脅威に貼りつけた山の神、海の神、火の神、水の神 etc. は人間の後に生まれた。
天地万物を創造した超越神は人間より先に存在していた。この神は始めもなく終わりもなく永遠の今に存在している。彼は存在の源であり、命であり、愛である。
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