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教皇フランシスコの新枢機卿-②
-教理省長官ミュラー枢機卿の誕生-
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今回のブログのタイトルは 「教皇フランシスコの新枢機卿-②」 だが、では ① はいつ書かれたのだろう? 私は当初このテーマが尾を引くとは思わず、この1月16日に 《〔速報〕教皇フランシスコ新枢機卿の名前を発表》 と言うブログを書いた。私はそれを後付けで ① としたいと思う。そして、新枢機卿について今後さらに特筆すべき話題を見つけたら、それを ③ 以降に書こうと思う。
前教皇ベネディクト16世は、2012年6月2日にドイツのレーゲンスブルク教区のゲルハルト・ルートヴィッヒ・ミュラー司教を教理省長官に任命し、同時に大司教とした。
ミュラー大司教は、「解放の神学」の唱導者の1人であるグスタボ・グチエレス神父と親しく、『貧者の側に=解放の神学、教会の神学』 を共著したことで知られているという。
教皇フランシスコはそのミュラー教理省長官を2014年2月20日に枢機卿に任命し、さらに、ミュラー新枢機卿の近著 『教会の使命,貧しい人のために』 という本に教皇自ら序文を寄せた。
私のブログの読者に、わざわざこの教皇フランシスコの序文を訳して送って下さった人がいた。読んでみて、現教皇の考え方がよく表れていると感じたので、教皇のインタビュー記事の間に挟んで紹介することにした。
教皇がどのような人を教会のトップに重用し、その人にどのような言葉を贈られるかは、神様が今日の教会をどのような方向に導こうとしておられるかを知る上で有効だと思う。訳者は匿名を望まれたので、その意向を尊重することにした。
ゲルハルト・ルートヴィッヒ・ミュラー枢機卿著
『教会の使命,貧しい人のために』
-豊かさは他者を助けるなら善である-
〔教皇フランシスコによる序文〕
言葉だけであっても、「貧しさ」に立ち向かうということに、戸惑いを感じない人はいないでしょう。貧しさといっても、肉体的貧しさ,経済的貧しさ、心の貧しさ、社会的貧しさ、モラルの貧しさと様々ですが、資本主義社会においては、貧しさとはすなわ、経済的貧しさのことであって、貧しいことが良くないことと考えられています。実際、資本主義国家は豊かな経済力の上に成り立っており、お金によって獲得した力は、他のあらゆる物をも凌駕しているようにさえ見えます。そのようなわけで、経済力が低いということによって、政治、社会、果ては人間のレベルでさえも低いとみなされてしまうのです。お金を持たない人たちは、蚊帳の外に置かれていると言ってもよいでしょう。このため、経済的な貧しさを、人々はとても恐れています。こうなってしまうのは仕方のないことかもしれません。なぜなら、お金を手にすることで、世俗的な自由度が増すからです。その自由の中で人は行動し、世の中を操作し、未来を創造することができるのです。お金は、それ自体よいものであって、自由に使え、私たちの可能性を広げてくれます。それにもかかわらず、お金は、時として人間の足を引っ張るものとなってしまいます。お金と経済力は、時として人間から人間性を失わせ、自己中心主義、利己主義をもたらす要因となってしまうのです。
イエスは、福音書の中で、アラム語語源の「マンモーナ」という言葉を使っていますが(マタイ6,24 ルカ16,13参照)、これは、本来隠された富を意味するものです。経済力が富を生んでも、それが隠され、みんなのために使われなければ、正しいやり方ではありません。それどころか、本来経済力が持っている意義さえ失うことになります。そのようなことを、私たちに悟らせてくれています。また、パウロがフィリピの信徒への手紙の中で用いたギリシア語「アルパグモス」には(フィリピ2,6参照)、捨てられないもの、あるいは強奪されたものの意味があります。確かに私たちは、富を、大小にかかわらずごく親しい間柄の連帯社会の中だけにとどめ使ってしまいがちであり、一度受け取ったものを返すことはしたがらないものです。あらゆるものを超越した神の希望の中に生きる人間であるにもかかわらず、無償で与えるという喜び、善を施す喜び、その単純で美なる善を忘れてしまったかに思えます。(ルカ6,33以下参照)
しかし、教会要理にもあるように、すべての人と結びつくという連帯社会の本来の意味を教えられていれば、富を独り占めすべきできないということが分かります。このような連帯社会の中で歩むことをすれば、他人に与えることを拒否し、自分の中に引き留めておいても、富は、遅かれ早かれ、自分から離れていってしまうことを知るようになるでしょう。いみじくも、イエスは福音書で、自分のためだけに積んだ富が錆や虫によって荒らされてしまうたとえを用いて、このことを教えてくれています。(マタイ6,19-20 ルカ12,33参照)一方、積んだ富も、自分のためだけに使われるのでないならば、その価値をずっと増し、思いもよらない所産をもたらすこともあります。実際、利益と連帯社会とを根源的に結びつけている何かがあるようです。それは富を獲得することと分け与えることが、折り重なり合いながら回っているようなものであり、そこでは罪さえも砕かれ、ばらばらに散っていくように思えます。私たちキリスト者には、この利益と連帯社会の本質的かつ理想的な一致を見いだし、その中に生きることが求められています。そして、現代社会の中で、すべての人にこの真実を伝え知らせていかなければなりません。それが社会の中に受け入れられることによって、経済的な貧しさによる苦しみも減少していくはずです。
しかしながら、私たちは、経済的な貧しさ以外にも、貧しさが存在することを忘れてはいけません。イエスは、私たちの命は「財産によって」どうすることもできないことを教えてくれています。(ルカ12,15参照)元来、人間は貧しく助けが必要な存在です。生まれたとき私たちは、生きていくためにまずは親の世話を必要とします。私たちは、いかなる時代においても、人生のあらゆる段階において、他者からの支援を必要としない完全な自立を果たすことはできません。決して単独では超えることができない、人的あるいは物的な壁というものが存在するのです。神によって「創造された」私たちは、自らの力だけで何者かになれるわけでもなく、必要とするものを得ることもできません。これらのことを誠実に受け止めることこそが、生きるために必要欠かさざる徳であり、それによって私たちは謙虚になれ、勇気をもって連帯社会を実現することができるのです。
いずれにせよ、私たちは、人や物に頼らなければ生きていけない存在です。まったく頼らなければ生きていけない人もいますが、そうでない人もいます。そうでない人は、自らがその源泉となって、他者を顧みることのできる社会、すべての人がそれぞれ価値ある者として尊重される社会を築いていかなければなりません。どのようにすれば実際にこのような責任ある社会を築くことができるのか、富が個人や公に帰属していることを考えれば、その方法を見出すことは容易ではありません。何より、新しい物の見方や考え方が必要です。互いが互いを思いやり気づかうという方向へ、考え方を変えなければいけません。人間は、誰でもみな同じように生まれてきますが、同じように生まれながらにして他者と互いに繋がっています。生まれながらにして「兄弟」であって、だからこそ、公の富が、言葉だけのものにならないような社会の実現が可能なのです。
こうような考えのもと社会が築かれるならば、生まれながらの貧しさというものは、もはや私たちが生きていく上での障害ではありません。むしろ貧しさはすべての源であって、貧しさが人を豊かにするのです。与えられた富が、恵みとなってまた人々に還元されていくのです。貧しさこそはまさに希望の光とでもいうべきものであって、福音書でも、貧しさについて顧みることが説かれています。貧しさを希望の光とすれば、イエスがなぜ山上の垂訓で「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6,20)と語ったかが理解できるでしょう。
私たちは、知力をふりしぼり、弱者への無関心を排除して、互いに必要なものを与え合っていかなければなりません。個人では、どんなに力があったとしても、越えられない壁があるからです。このことを、しっかりと自覚していきましょう。他ならぬ神ご自身がイエスを通してへりくだったように(フィリピ2,8参照)、私たちの貧しさの前に身をかがめ、私たちを支え、私たちの力をもってしてはとうてい得ることのできない富を与えてくれるのです。
そのようなわけで、イエスが「心の貧しい人々」(マタイ5,3)を幸とするのは、彼らが本当に必要なものを知っており、自分の貧しさを認め、神を信じ、その身を神に委ねることを厭わない人々であるからです(マタイ6,26参照)。私たちは、神から富を与えてもらうことができます。この富には、他のいかなる支配も及びません。なぜなら、死の支配に打ち勝つことで私たちに示してくれたように、神はどんな支配をも超越する存在だからです。主は、豊かだったのに自ら貧しくなりましたが(2コリ8,9参照)、それは自分を低くすることによって私たちを豊かにするためです。主は私たちを愛し、弱ささえも認めてくれます。主の目には、私たちはすべて同様に、はかり知れない価値を持った存在と映るのです。「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(ルカ12,7)
実に明快な文章だ。難解なところは全くない。
教皇フランシスコは従来の教皇が手を染めてこなかった新しい改革に挑もうとしているのが分かる。
それは、貧しさの神秘、その価値の再発見だ。
自然な向きと違って、困難な事かもしれないけど、自分だけに留めておいてはいけない」と言われたのを思い出しました。
久しぶりに聖書を引っ張り出し埃を払ってルカ伝を読みました。
教皇さんにもお礼を言っといてください。
Y.