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〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-5)
= 中央公論には出たけれど敢えて=
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インタビューの原文によれば、前回の(その-4)の続きは「中央公論」の今年の1月号に載った
「教会は野戦病院であれ」
の部分になります。このブログの読者の中には、すでに「中公」で読まれた方もおられるでしょうが、よろしかったら読み比べてみてください。そうすれば、あちらでは訳されなかった箇所もあることに気付かれるでしょう。私は各フレーズの分割に至るまで、イタリア語の原文になるべく忠実であるように心掛けました。
教会とは? 野戦病院・・・
教皇ベネディクト16世は、自分の教皇職からの退位を発表するに際して、今日の世界のことを、急速に変化しつつあり、信仰の命にとって重要な大きな問題で揺り動かされていて、身体的精神的強健さを必要としている主体であると描写した。そこで、先ほど來言われてきた事にも照らして、教皇に聞いた。「この歴史的な瞬間に、教会が最も必要としているものは何か?改革は必要か?向こう数年間に教会の上に何を望まれるか?どのような教会を《夢見ておられるか》?」
教皇フランシスコは私の質問の裏に隠された意味を受け止めて、自分の前任者に対する大きな愛情と並外れた尊敬を示しながら、「教皇ベネディクトは聖性と偉大さと謙遜さの業を行った。神の人だった」と話し始めた。
「私は-と彼は言葉を続けた-教会がいま最も必要としているのは、傷を癒し信者の心を温める能力、寄り添うこと、親近感、であることは明白だ。私は教会を戦闘後の野戦病院のようなものとして見ている。深い傷を負っている人に向って、コレステロールのことや血糖値が高いかなどと聞くのは無意味だ!まず傷の手当てをしなければならない。その後でなら、他の事すべてについて話すこともできるだろうが、傷の手当、傷の手当が先決だ・・・。まず肝心なことから始めなければならない。」
教会は時としてちっぽけなこと、小さな規則に閉じこもることがあった。それに対して、最も大切なことは《イエス・キリストはあなたを救った!》という第一声の告知だ。そして、教会の奉仕者は何よりもまず憐れみの奉仕者でなければならない。例えば、聴罪司祭たちは常に厳格すぎるか緩みすぎるかのどちらかの危険にさらされている。そのどちらのタイプも、相手の人格に対して責任を取っていないから、憐れみ深いとは言えない。厳格主義者は掟まかせにして責任を回避し、緩やかな方は単に《それは罪ではない》とかそれに似たことを言って責任を回避するからだ。人々は寄り添われ、傷は治されなければならない。」
「わたしたちは神の民をどのように取り扱っているのだろうか?私は教会が母であり牧者であることを夢見る。教会の奉仕者たちは憐れみ深く、人々に対して責任ある態度を取り、善きサマリア人のように隣人を洗い、清め、慰め、寄り添わなければならない。これこそ純粋な福音だ。神は罪よりも大きい。組織的、構造的改革は二の次、つまり後からついてくるべきものだ。第一の改革は態度の変革でなければならない。福音の奉仕者は人々の心を温め、彼らの心の闇夜の中を共に歩みながら対話することが出来、自分自身を見失うことなく彼らの夜の中、闇の中へ降りていくことが出来るものでなければならない。神の民は国家の官吏のような聖職者ではなく、牧者を求めている。特に司教は民の中の誰一人として後に取り残されることがないように忍耐強く神の歩調を守り、新しい道を見つける直観力を持って群れに寄り添うことが出来る者でなければならない。」
「戸を開いて来る人を待ち受け迎え入れるだけの教会であることをやめて、自分自身から出て、教会に来ない人、去っていった人、無関心な人の方に向かっていくことが出来るようにする新しい道を模索する教会であるように努めよう。時には、もし良く理解され詳細に吟味されていたなら、連れ戻されることが出来たはずの理由で教会を離れて行った人もいることだろうから。しかしそうするためには大胆さと勇気が必要だ。」
教皇が言わんとするところは理解したうえで、教会の指導からは逸脱しているとか、いずれにせよ、あれやこれやの口を開いた生傷を抱えたまま複雑な事情の中に生きているキリスト教信者たちがいる現実に言及した。私は離婚して再婚したもの、同性愛のカップル、その他の難しい状況の事を思った。このようなケースの場合、宣教的な司牧はどう対処すればいいのか?どういう方策を講じればいいか?教皇は、私が何を言おうとしているか分かった、という合図をして答えた。
「神の国の良い知らせを説き聞かせながら、我々の説教を通しても、またあらゆるタイプの病気と傷を癒しながら、すべての通りで福音を告げ知らせなければならない。私はブエノスアイレスで同性愛の人からの手紙を受け取ったが、彼らは、教会が常に自分たちを断罪していると感じるので、自分たちは《社会的に傷付けられている》と私に言った。しかし、教会はそうすることを望んではいない。リオ・デ・ジャネイロからの帰りの機内で、もしもある同性愛の人が、善意の人で神を探し求めている人であるならば、私はその人を決して裁くものではない、と言った。私はCatechismo(カトリック要理)が言っていることを言ったにすぎない。宗教は人々に奉仕する際に固有の意見を表明する権利を持っているが、神は私たちを自由なものとして創造されたので、個人的な生活に対する霊的な干渉はなされてはならない。或る時、或る人が、同性愛を承認するか、と挑発的なやり方で私に訊ねた。それで私はもう一つの別の質問でそれ応じた。《同性愛の人を見る時、神は愛をこめてその存在を認めるだろうか、それとも断罪して彼を排斥するだろうか?言ってもらいたい》と。常に人格の事に配慮する必要がある。ここで私たちは人間の神秘に入る。人生において神は人々に寄り添われているが、私たちも彼らのおかれている状況に応じて彼らに寄り添わなければならない。憐れみをもって寄り添わなければならない。そうすれば、聖霊は司祭に霊感を与え、より適切な言葉を語らせてくださるだろう。」
「これがまた赦しの秘跡の偉大さでもある。ケース・バイ・ケースで評価すること、神とその恵みを探し求める一人の人に対して、どうするのがより良いことであるかを識別することが出来ること。告解部屋は拷問部屋ではなく、我々に出来るより良いことをするよう主が我々を促す憐れみの場である。また、過去に結婚に失敗し、その過程で堕胎を行った経験のある女性の状態の事も思う。その後この女性は再婚し、今は5人の子供と平穏な生活を送っている。堕胎は彼女の大きな重荷となり、心から後悔した。キリスト者として前向きに生き続けたいと願っている。その場合、聴罪司祭はどうするべきか?」
「わたしたちは堕胎や、同性結婚や、避妊手段の使用に関連する問題だけに固執することは出来ない。それは不可能だ。私はこれらの事について多くは語ってこなかったが、そのことで私は責められている。しかし、もしそれについて話すなら、具体的な文脈の中で語らねばならない。教会の見解、その関連のこと、それらは知られているとおりで、私は教会の子だが、それについてここで長々と話す必要はないだろう。」
「教義に関しても、また道徳に関しても、教会の教えは全てが同じ重みのものであるわけではない。宣教的な司牧というものは、伝達さられるべき沢山の教義を、ばらばらな形で執拗に押し付けることに縛られてはいけない。宣教的なタイプの伝達は、エンマウスの弟子たちの場合のように、より感動的で魅力的な、心を燃え立たせる、本質的で必要なものに集中するべきである。従って、新しいバランスを見つけ出さなければならない。さもなければ教会の倫理的構築物は紙の城のように潰れ、福音の新鮮さと香りを失う危険に陥ることになる。福音的な提言はより単純で、深く、光を放つものでなければならない。そして、このような提言から道徳的帰結が導きだされるのである。」
「わたしはこの事を私たちの説教とその内容についても当てはめながら言っている。すばらしい説教、真実の説教と言うものは、第一番目の告知、つまり救いの告知から始まらなければならない。この告知以上に堅固で、深く、確実なものは何もない。その次に教理の指導がなされなければならない。最後に道徳的な帰結を引き出すことも出来る。しかし、神の救済的愛の告知は道徳的宗教的義務の話より常に優先されるべきものである。今日では往々にしてその逆の順番が支配的なように見受けられる。説教は牧者の彼の民とのあいだの近さと力量を量る試金石である。なぜなら、説教をするものは生きていて熱く燃えている神の願いがどこにあるかを探すために自分の共同体の心を理解していなければならないからである。だから福音的メッセージは、たとえ重要であったとしても、それだけではイエスの教えの本質を現わすことが出来ない幾つかの側面に矮小化されることは出来ない。」
(つづく)
神さんも教皇さんもお節介なんだよな。
罪の自覚で苦しんでいる人だけを助けてやればいいのに
罪を自覚していない人に罪を押しつけて、それから助けてやる、なんてお節介以外何でもない。
教会は助けてもらいに行くところやない。
感謝しにいくところなんやで
J. K.
恐れ入りました。神様にも教皇様にもよく話しておきます。