水曜日、朝の時点で調整練習を終わらせておきました。できるだけ疲れを抜きたいという気持ちがありますから無駄に時間を使いたくなかったので。午後は軽く話をして終わりにしようかなという程度で考えていました。が、練習日誌を見ると試合前というのに「想い」が無い者が多すぎる感じました。日誌に関してはかなり重視しています。ここがきちんと書けるようになると競技力が飛躍的に向上すると思っています。その話をしてきていますがあまりにも酷い。特に下級生は「書くだけ」の日誌となっています。いつまで経っても変化がないのは当然の結果だと強く感じました。
午後の時間、ミーティングをしました。日誌の意味についてです。昨年卒業した選手の日誌を例に挙げて話しました。入学当初は「今日は~を頑張った」「きつかった」「頑張っていきたい」という中身の全くない日誌が続いていました。ある出来事をきっかけにかなりの注意をしてから劇的に変化しました。これ以後の競技への取り組みというのは別人のようでしたし、日誌の内容もこれまでのものとは全く違うものになりました。日誌をかくにあたって自分の内面としっかりと向き合い、考えるという作業ができるようになったからです。ただ長く書けばいいというわけではなく、自分がやっていることに対してどのように考えるのか、「走れなくて悔しい」のでどうすれば改善されるかを具体的に書いていくという作業を継続的に行うことで「考え方」を変えていくというトレーニングだと思っています。メンタルトレーニングとしての効果は非常に高いと思います。
今のうちの下級生は「走れた」「次はもっと速く走りたい」くらいしか書けません。上級生の日誌と比較すると大きな差です。この差があるから何を話してもきちんと伝わらないのではないかと感じています。厳しいことを言っていると言われるかもしれませんが、この「差」は大きなものです。友達にメールをする時間はあっても自分が競技をするために必要だと言われている「日誌」を書く時間が確保できないというのではこちらの求めるレベルには到底届きません。書くだけの日誌に意味はないからです。「先生に出さないといけない」から書くのであればそこに意味はありません。ここがきちんと理解できない者は練習に関しての理解もない。全てにおいて「やらされている」のですから。
リレーメンバーを外された数名の者が本来であれば「悔しい」「自分が勝ち取りたい」と素直な気持ちを書けないといけないと思います。逆にメンバーを外されて何も感じないというレベルでは向上心がありません。外れても仕方ないという気持ちでは強くなるはずがありませんからね。これは他者から与えられる感情ではなく自分の中からわき出てくる感情だと思います。それを日誌に書き記す。自分の内面を外に出していくことで認識していくのです。
ある程度話をしました。数名ずつに分かれて話をするように指示をしました。が、返事をする人間が数人。完全に頭に来ました。返事や挨拶は意識をすれば必ずできることです。繰り返し話をしているにもかかわらず、返事の声が出ない。これでは何を話しても伝わるわけがありません。久々に激怒しました。何故言われていることをやろうとしないのか?やろうとしていないにもかかわらず「強くなりたい」という都合のいい話はありません。やろうと思えば誰でもできることをやる。これを見て信頼関係ができるのだと思っています。だから私は補強を重視する。自分が本気で強くなろうと思えば、家でも補強はできます。自分のために最大限の努力をできる人間だけが本当に強くなると思いますから。
日誌の件もそうですが素直に「やってみよう」と思えない部分が問題だと思います。自分では書いているつもりでもこちらには伝わらない、だからもっと書き方を考えろと話しているにも関わらず何も変わらない。だから競技に取り組む姿勢も変わらないのです。できないならできないなりにもがいてみればいいのです。どうすればいいのか分からないままで終わるのではなく、今までの取り組みから変化をしていくことで見えてくるモノがあります。自分は頑張っている、と思っている間は何も変わりません。ほとんどの選手が努力はしていますが目標到達に必要な努力ができているかは別問題です。「やっていない」というつもりはありません。やっているけど「それでは足りないよ」という話をしているだけです。指導者として「まーこれでいいや」と妥協してしまうのは簡単です。レベルを下げていけば問題ないですから。しかし、そのことに本当に意味があるのか?もっとできるはずなのに早い段階で諦めさせて良いのか?指導のスタンスの部分だと思いますね。
時間がかかります。かなりもどかしい部分があります。それでもやるしかありません。選手に届くまで話を続けるしかありません。大切な部分が何かを考えさせていきたいですね。
午後の時間、ミーティングをしました。日誌の意味についてです。昨年卒業した選手の日誌を例に挙げて話しました。入学当初は「今日は~を頑張った」「きつかった」「頑張っていきたい」という中身の全くない日誌が続いていました。ある出来事をきっかけにかなりの注意をしてから劇的に変化しました。これ以後の競技への取り組みというのは別人のようでしたし、日誌の内容もこれまでのものとは全く違うものになりました。日誌をかくにあたって自分の内面としっかりと向き合い、考えるという作業ができるようになったからです。ただ長く書けばいいというわけではなく、自分がやっていることに対してどのように考えるのか、「走れなくて悔しい」のでどうすれば改善されるかを具体的に書いていくという作業を継続的に行うことで「考え方」を変えていくというトレーニングだと思っています。メンタルトレーニングとしての効果は非常に高いと思います。
今のうちの下級生は「走れた」「次はもっと速く走りたい」くらいしか書けません。上級生の日誌と比較すると大きな差です。この差があるから何を話してもきちんと伝わらないのではないかと感じています。厳しいことを言っていると言われるかもしれませんが、この「差」は大きなものです。友達にメールをする時間はあっても自分が競技をするために必要だと言われている「日誌」を書く時間が確保できないというのではこちらの求めるレベルには到底届きません。書くだけの日誌に意味はないからです。「先生に出さないといけない」から書くのであればそこに意味はありません。ここがきちんと理解できない者は練習に関しての理解もない。全てにおいて「やらされている」のですから。
リレーメンバーを外された数名の者が本来であれば「悔しい」「自分が勝ち取りたい」と素直な気持ちを書けないといけないと思います。逆にメンバーを外されて何も感じないというレベルでは向上心がありません。外れても仕方ないという気持ちでは強くなるはずがありませんからね。これは他者から与えられる感情ではなく自分の中からわき出てくる感情だと思います。それを日誌に書き記す。自分の内面を外に出していくことで認識していくのです。
ある程度話をしました。数名ずつに分かれて話をするように指示をしました。が、返事をする人間が数人。完全に頭に来ました。返事や挨拶は意識をすれば必ずできることです。繰り返し話をしているにもかかわらず、返事の声が出ない。これでは何を話しても伝わるわけがありません。久々に激怒しました。何故言われていることをやろうとしないのか?やろうとしていないにもかかわらず「強くなりたい」という都合のいい話はありません。やろうと思えば誰でもできることをやる。これを見て信頼関係ができるのだと思っています。だから私は補強を重視する。自分が本気で強くなろうと思えば、家でも補強はできます。自分のために最大限の努力をできる人間だけが本当に強くなると思いますから。
日誌の件もそうですが素直に「やってみよう」と思えない部分が問題だと思います。自分では書いているつもりでもこちらには伝わらない、だからもっと書き方を考えろと話しているにも関わらず何も変わらない。だから競技に取り組む姿勢も変わらないのです。できないならできないなりにもがいてみればいいのです。どうすればいいのか分からないままで終わるのではなく、今までの取り組みから変化をしていくことで見えてくるモノがあります。自分は頑張っている、と思っている間は何も変わりません。ほとんどの選手が努力はしていますが目標到達に必要な努力ができているかは別問題です。「やっていない」というつもりはありません。やっているけど「それでは足りないよ」という話をしているだけです。指導者として「まーこれでいいや」と妥協してしまうのは簡単です。レベルを下げていけば問題ないですから。しかし、そのことに本当に意味があるのか?もっとできるはずなのに早い段階で諦めさせて良いのか?指導のスタンスの部分だと思いますね。
時間がかかります。かなりもどかしい部分があります。それでもやるしかありません。選手に届くまで話を続けるしかありません。大切な部分が何かを考えさせていきたいですね。