思うことを。
blogに何か書く。出来る限り「良い事」を書き続けたいとは思っています。が、世の中の大半はそうではない。前もミスチル「羊、吠える」の歌詞の一部「良い事49、嫌な事51の比率」に触れた事がある。実際の世の中はそうではないかもしれない。良い事よりも悪い事の方が印象深いのでそちらの比率の方が大きく感じる。
今回、「かなり良いな」と思う事があった。その翌日に「どうなんだ」と思う事があった。普段の生活の中では50を基準として感情が揺れ動く。が、「かなり良いな」と思った時には振れ幅が大きくなっていて80位に上がっていたかもしれない。逆に「どうなんだ?」と思う時には60位だったのではないか。
普通の状態で60であれば全く問題ないと思います。逆に良かったと評価を受けるかもしれない。しかし、80を経験した時にはこれまでより高い数値だとしても「比率」としては大きな差を感じる。選手としては「普段より良い雰囲気」だと思っているかもしれない。常に最高の練習をしたい。今の80が感覚的に50の「当たり前」と言われる数値になる必要がある。ここは表現が難しい。
前任校の話をしても意味はない。たが、どうしても過去の「良い練習をする」という感覚と比べてしまう。私が前任校で「楽しい」と思えた2年間。これはチームとしてかなり成熟していた時。少し前の記事にも書いたが初めてインターハイに進んだriが2年生の時と3年生の時。この2年間は本当に楽しかった。
こちらもまだ若かった。まだインターハイに進んだ事がなく、何とかしてインターハイに行きたいと模索していた時期。この時kc高校と一緒に練習をして刺激を受けた。そこからは本当に選手が必死になった。私の目標と選手の目標が一致して「何が何でも行くんだ」という気持ちで練習をしていました。倒れるまで走り続ける。リレーメンバーに入るために必死に練習をする。これが当たり前でした。
もちろん上手くいかないこともたくさんあった。それでもこちらが話している内容を理解して「次は必ずやり遂げる」という気持ちで練習をしていた。だから本当に楽しかった。打てば響く。卒業した後に「あの時に先生に厳しく言われていて良かった」という話をしてくれる事もあった。
インターハイを逃した時に「先生に申し訳ない」という話をしてた。私のためにやっていたとは思わない。が、こちらが真剣に向き合っていることに応えようとする姿が常にあった。感情移入している部分もあったかもしれないが今まで指導してきた中で最高に楽しい時間だった。
その後、リレーでインターハイに進んだ。この時の選手は誰もいない。それでもある程度の土台があった。一定水準以上の中でやる事ができた。が、実質はこちらが伝えていることはほぼ伝わらず。何度も遅刻をしたりする。インターハイを決めた次の日でさえ寝坊して遅刻する。そんな中で我慢してやっていた。強かったとは思うが楽しかったかというとそれは違う。
現実はどうか。これを受け入れていかなければいけない。久々に楽しいと思えた。が、それはまだ本物ではない。こちらが敷いたレールの上に乗って「良い雰囲気」になっただけ。それは「自分達が求めて進んで来た結果」ではない。だからこちらの想いも感情も上手く伝わらない。甘いというよりも「感じ取ろう」と思わないのかもしれない。
良い練習をしたい。それはいつの日にか叶うのだろうか。10年後になれば叶う?それでは間に合わない。今目の前にいる者達は「上手くいかなかった」で終わることになる。それはそれで「歴史」の中で必要なことなのかもしれない。
現実は甘くない。そのことを私自身が受け入れなければいけない。簡単に変わると思っていた部分がそうではない。こちらの「想い」を感じ取れるかどうか。それを感じた者が他の者にきちんと伝えられるかどうか。過去のチーム、こちらの想いを選手が理解して感じ取れない者に伝えてくれるようになっていた。そのような者がチーム内に出てくる日がくれば変わるのかもしれない。
諦めるのは簡単。が、諦めたくはない。しかし、同じエネルギーがあるのかどうか。自分自身の中で考えさせられる。
上手くまとまらない。愚痴のようになるが自分の中で現実を受け止めながら考えていきたい。
blogに何か書く。出来る限り「良い事」を書き続けたいとは思っています。が、世の中の大半はそうではない。前もミスチル「羊、吠える」の歌詞の一部「良い事49、嫌な事51の比率」に触れた事がある。実際の世の中はそうではないかもしれない。良い事よりも悪い事の方が印象深いのでそちらの比率の方が大きく感じる。
今回、「かなり良いな」と思う事があった。その翌日に「どうなんだ」と思う事があった。普段の生活の中では50を基準として感情が揺れ動く。が、「かなり良いな」と思った時には振れ幅が大きくなっていて80位に上がっていたかもしれない。逆に「どうなんだ?」と思う時には60位だったのではないか。
普通の状態で60であれば全く問題ないと思います。逆に良かったと評価を受けるかもしれない。しかし、80を経験した時にはこれまでより高い数値だとしても「比率」としては大きな差を感じる。選手としては「普段より良い雰囲気」だと思っているかもしれない。常に最高の練習をしたい。今の80が感覚的に50の「当たり前」と言われる数値になる必要がある。ここは表現が難しい。
前任校の話をしても意味はない。たが、どうしても過去の「良い練習をする」という感覚と比べてしまう。私が前任校で「楽しい」と思えた2年間。これはチームとしてかなり成熟していた時。少し前の記事にも書いたが初めてインターハイに進んだriが2年生の時と3年生の時。この2年間は本当に楽しかった。
こちらもまだ若かった。まだインターハイに進んだ事がなく、何とかしてインターハイに行きたいと模索していた時期。この時kc高校と一緒に練習をして刺激を受けた。そこからは本当に選手が必死になった。私の目標と選手の目標が一致して「何が何でも行くんだ」という気持ちで練習をしていました。倒れるまで走り続ける。リレーメンバーに入るために必死に練習をする。これが当たり前でした。
もちろん上手くいかないこともたくさんあった。それでもこちらが話している内容を理解して「次は必ずやり遂げる」という気持ちで練習をしていた。だから本当に楽しかった。打てば響く。卒業した後に「あの時に先生に厳しく言われていて良かった」という話をしてくれる事もあった。
インターハイを逃した時に「先生に申し訳ない」という話をしてた。私のためにやっていたとは思わない。が、こちらが真剣に向き合っていることに応えようとする姿が常にあった。感情移入している部分もあったかもしれないが今まで指導してきた中で最高に楽しい時間だった。
その後、リレーでインターハイに進んだ。この時の選手は誰もいない。それでもある程度の土台があった。一定水準以上の中でやる事ができた。が、実質はこちらが伝えていることはほぼ伝わらず。何度も遅刻をしたりする。インターハイを決めた次の日でさえ寝坊して遅刻する。そんな中で我慢してやっていた。強かったとは思うが楽しかったかというとそれは違う。
現実はどうか。これを受け入れていかなければいけない。久々に楽しいと思えた。が、それはまだ本物ではない。こちらが敷いたレールの上に乗って「良い雰囲気」になっただけ。それは「自分達が求めて進んで来た結果」ではない。だからこちらの想いも感情も上手く伝わらない。甘いというよりも「感じ取ろう」と思わないのかもしれない。
良い練習をしたい。それはいつの日にか叶うのだろうか。10年後になれば叶う?それでは間に合わない。今目の前にいる者達は「上手くいかなかった」で終わることになる。それはそれで「歴史」の中で必要なことなのかもしれない。
現実は甘くない。そのことを私自身が受け入れなければいけない。簡単に変わると思っていた部分がそうではない。こちらの「想い」を感じ取れるかどうか。それを感じた者が他の者にきちんと伝えられるかどうか。過去のチーム、こちらの想いを選手が理解して感じ取れない者に伝えてくれるようになっていた。そのような者がチーム内に出てくる日がくれば変わるのかもしれない。
諦めるのは簡単。が、諦めたくはない。しかし、同じエネルギーがあるのかどうか。自分自身の中で考えさせられる。
上手くまとまらない。愚痴のようになるが自分の中で現実を受け止めながら考えていきたい。