kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

現実を受け止める

2017-02-15 | 陸上競技
思うことを。

blogに何か書く。出来る限り「良い事」を書き続けたいとは思っています。が、世の中の大半はそうではない。前もミスチル「羊、吠える」の歌詞の一部「良い事49、嫌な事51の比率」に触れた事がある。実際の世の中はそうではないかもしれない。良い事よりも悪い事の方が印象深いのでそちらの比率の方が大きく感じる。

今回、「かなり良いな」と思う事があった。その翌日に「どうなんだ」と思う事があった。普段の生活の中では50を基準として感情が揺れ動く。が、「かなり良いな」と思った時には振れ幅が大きくなっていて80位に上がっていたかもしれない。逆に「どうなんだ?」と思う時には60位だったのではないか。

普通の状態で60であれば全く問題ないと思います。逆に良かったと評価を受けるかもしれない。しかし、80を経験した時にはこれまでより高い数値だとしても「比率」としては大きな差を感じる。選手としては「普段より良い雰囲気」だと思っているかもしれない。常に最高の練習をしたい。今の80が感覚的に50の「当たり前」と言われる数値になる必要がある。ここは表現が難しい。

前任校の話をしても意味はない。たが、どうしても過去の「良い練習をする」という感覚と比べてしまう。私が前任校で「楽しい」と思えた2年間。これはチームとしてかなり成熟していた時。少し前の記事にも書いたが初めてインターハイに進んだriが2年生の時と3年生の時。この2年間は本当に楽しかった。

こちらもまだ若かった。まだインターハイに進んだ事がなく、何とかしてインターハイに行きたいと模索していた時期。この時kc高校と一緒に練習をして刺激を受けた。そこからは本当に選手が必死になった。私の目標と選手の目標が一致して「何が何でも行くんだ」という気持ちで練習をしていました。倒れるまで走り続ける。リレーメンバーに入るために必死に練習をする。これが当たり前でした。

もちろん上手くいかないこともたくさんあった。それでもこちらが話している内容を理解して「次は必ずやり遂げる」という気持ちで練習をしていた。だから本当に楽しかった。打てば響く。卒業した後に「あの時に先生に厳しく言われていて良かった」という話をしてくれる事もあった。

インターハイを逃した時に「先生に申し訳ない」という話をしてた。私のためにやっていたとは思わない。が、こちらが真剣に向き合っていることに応えようとする姿が常にあった。感情移入している部分もあったかもしれないが今まで指導してきた中で最高に楽しい時間だった。

その後、リレーでインターハイに進んだ。この時の選手は誰もいない。それでもある程度の土台があった。一定水準以上の中でやる事ができた。が、実質はこちらが伝えていることはほぼ伝わらず。何度も遅刻をしたりする。インターハイを決めた次の日でさえ寝坊して遅刻する。そんな中で我慢してやっていた。強かったとは思うが楽しかったかというとそれは違う。

現実はどうか。これを受け入れていかなければいけない。久々に楽しいと思えた。が、それはまだ本物ではない。こちらが敷いたレールの上に乗って「良い雰囲気」になっただけ。それは「自分達が求めて進んで来た結果」ではない。だからこちらの想いも感情も上手く伝わらない。甘いというよりも「感じ取ろう」と思わないのかもしれない。

良い練習をしたい。それはいつの日にか叶うのだろうか。10年後になれば叶う?それでは間に合わない。今目の前にいる者達は「上手くいかなかった」で終わることになる。それはそれで「歴史」の中で必要なことなのかもしれない。

現実は甘くない。そのことを私自身が受け入れなければいけない。簡単に変わると思っていた部分がそうではない。こちらの「想い」を感じ取れるかどうか。それを感じた者が他の者にきちんと伝えられるかどうか。過去のチーム、こちらの想いを選手が理解して感じ取れない者に伝えてくれるようになっていた。そのような者がチーム内に出てくる日がくれば変わるのかもしれない。

諦めるのは簡単。が、諦めたくはない。しかし、同じエネルギーがあるのかどうか。自分自身の中で考えさせられる。

上手くまとまらない。愚痴のようになるが自分の中で現実を受け止めながら考えていきたい。
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感覚の差

2017-02-15 | 陸上競技
思う事を。

練習を客観的に見ていて「何だろう」と思う。まーべつにどうでも良いと思えばそれで良い。が、本当に目指す場所に向けて進むのであれば「やるべき事」は明確だと思う。ある程度チームが成熟してくれば「きちんとやろう」という話をする必要はない。この「きちんとやる」という部分に関しては間違いなく「感覚の差」がある。どのレベルを基準にしてどのレベルを目指すのかによって全く異なる。そこに対して一切の疑問も持たずにグランドに立っていればそれで良いというのであれば私は指導するのを辞めたい。面白くないから。

練習を見て楽しくないと感じた。多分やっている選手も楽しくないだろう。声かけをする気にもならない。そんな中でお互いに嫌な思いをしながらグランドに立っているのは誰にもプラスにはならない。

アップメニューを見てから「面白ないな」と感じた。少しグランドを離れた。戻ってきてやっぱり「面白くないな」と感じた。メニューの指示は出さずにその場を離れた。無責任かもしれない。全員に書類を渡すことにした。全員が進退をもう一度考えるべきではないかと思ったから。周りからすれば「お前の感覚で物事をやるな」と言われるのかもしれない。では誰の感覚でやるのか?ここはグランドで見ている指導者の感覚だと思う。何も感じずに見ているのではないから。

私は昨日のアップメニューの時と比べて声が出ていないと感じた。更には負荷のかけ方が甘いと感じた。その事を問うと「昨日と同じでできている」と複数の者が答える。これも「感覚の差」だと感じる。確かに昨日と同じくらいやっている者もいる。しかし、そうでない者もいる。自分の事で一生懸命だとしてもそれを感じ取れるようにならないといけない。

無言で立ち続けている。こちらが投げかけても返答さえない。どう答えて良いのか分からないのかもしれない。

かなりの時間を無駄にした。この日は大切な日だと感じていた。前日の流れの中でどうするかも大切。修学旅行前でしっかりと追い込むという意味でも大切。が、どうでも良い練習を積み重ねてもそれは「練習をやった」という事実しか残らない。そこには「価値」や「効果」はほぼ存在しない。怒られたから怒られないようにやる。単純な話。でもそれは「強くなるための練習」ではない。基準が異なる。

この日は一切の練習指導をしなかった。無責任。まさにそうですね。選手が「頑張りたい」と思ってやっている。「精一杯」やっている。それなのに「本当に全力か?」と問う。妥協して練習すれば良いじゃないかと思われるかもしれない。が、それは私の中では違うと思う。妥協し続ければ練習は積める。しかし、そこに意味があるのか。

私が全く見ていない間、声を出していた。それなりに意識して練習をしていたのだろう。逆にいうと最初からそれをしなかったのは何故なのか?厳しく言われたからできる。それは何?自分のためにやるべき練習が「怒られるから声を出す」という話しにすり替わっている。声を出して一生懸命やれば怒られない。本当にそれが必要なのか?

あまりにも練習ができていないので最後に「60mを○本走れよ」と投げかけた。反応はない。ウダウダしている間に時間だけが過ぎていく。こちらも「やります」と言わない者にそれ以上求める必要はないと判断。

もう一度「昨日と今日のアップメニューは同じくらい出来ていたのか?」と問う。「前半はあまり声が出ていなかったけど途中からは声が出るようになって昨日と同じに出来た」と答える。ここに大きな課題がある。実際問題「途中から」しか声が出ていない。それも私がしつこく言い続けたから声が出るようになった。これで「前日と同じ」と言えるのか。繰り返しになるがここに「感覚の差」がある。

怒られるから「昨日と同じに出来た」と答えるのかもしれない。いや、そんなことは大きな視点で見たときにどうでも良い話。本当にやるべきなのは「最高の練習をすること」ではないか。最初から最後まで「良い練習をしよう」と心掛けなければ先には進めないのではないか。この感覚が間違っているのかもしれない。きちんと話を聞くと「途中から」なのだから昨日と同じではない。

アップメニューの事だけを考えたら「同じ」なのかもしれない。が、練習全体を通して良い練習が出来た前日と比べると明らかに見劣りする。単純に「アップメニューのみの比較」ではない。そこの意味が分からなかったのかもしれない。

多くの刺激を与える事でそれなりに変化をする。実はそれは当たり前のこと。大切なのは一時的な変化ではなく「本質的な変化」だと考える。自分達はやっている。もちろん、かなり変わってきているし練習の質も高くなってきている。それは「数ヶ月前」と比べてでしかない。

言い方は悪いかもしれないが100点満点の20点の練習をしていた者が60点の練習が積めるようになってきたらそれは「すごくやっている」ことになる。が、本当は100点を目指さないといけない。それなのに60点で満足するのか。「最大限の努力」とは60点ではない。私は100点を目指したい。そこまでやらないと勝ち上がることはできないから。60点で満足するような話ならわざわざグランドで指導をする必要性はないと感じた。全く楽しくない。

これ以上どれだけの刺激を与えることが出来るだろうか。ちょっと想像ができない。

週末にtb高校に練習参加をお願いしてる。県外から大学生が練習をしに来るという事でそのタイミングで1年生だけ参加させてもらおうと思っていた。更に来月は練習会を実施したいと考えている。3月末には宮崎の合宿に参加しようかなとも。が、そこに意味があるのか?全員を連れて行けるは訳ではないが全体にある程度の刺激を与えることはできる。

こんな言い方をしたらおこがましいが「私だから」という部分がある。大阪も岡山も宮崎も「私だから」連れて行くことができている。新春合宿も練習会や合同練習も私が指導していなければその機会は与えられないと思う。こちらも「想い」があってやっている。恩着せがましいかもしれない。勝手にやっているんだろうと言われるかも。

それでも構わない。が、変わる気がないならそのような経験は時間と労力、お金の無駄にしかならない。まー私が勝手にやっているのだから選手には関係ないかもしれないが。週末の練習会、保護者にお願いして連れて行ってもらおうと思っている。練習会や合宿などには多くのお金がかかる。もちろん私もそれなりの負担をしている。別に私はそれが惜しいとは思わない。保護者も「本人のためになるのであれば」という理解の中で支援してくださっている。

それなのに「変わりきれないのはなぜか」という話にならないか。それなりの所で満足するなら他校と関わりを持たず「自己満足」の練習をすればいい。別に専門的な指導を受けることなく「思いつくまま」に過ごせばいい。その考え方は間違っているだろうか?

「全力でやり切れない」のであればあれこれ指導されるのは苦痛だと思う。そこまでしてやりたくないのだから。楽しくやれればいい。放課後の余暇を過ごすだけで良い。そうではなくても「普通にやればそれなりに結果が出る」という感覚があるのかもしれない。こちらが求めるレベルを「高すぎる」と思うのであればやはり妥協点を見つけていくしかない。

今、「楽しく中国大会を目指しましょう」という気分にはなれない。現場に即していないと言われればそれまでだが。力がある選手は複数いる。が、あまりにも幼い。どれだけ話をして刺激を与えても「自分たちはやっている」という感覚が強くある。繰り返しになるが良くやっているとは思う。が、それは60点の中で良くやっているというだけ。100点換算ではない。

愚痴にしかならない。目の前で起きている出来事に対して。「感覚の差」を埋めていくための作業が出来るだろうか。そして私の中にそれだけのエネルギーが存在するだろうか。かなりのエネルギーを注いで「成長」を促してきている。それでもなかなか伝わらない。求めることが悪いのか。瞬間的に一生懸命やれば良いのか?

最後の最後で無駄な時間を過ごしていることを後悔すれば良い。そう思って放置するのも1つの手なのかもしれない。もちろんお互いに言い分はあると思っている。こちらが考えている事が全て正しいと思うつもりもない。

半端ない無力感がある。どれだけ真剣に話してもどれだけ刺激を与えても「元に戻る」のか。その日の気分でやるのか。「全力でやっている」と思っている者と「足りないのではないか」と思う者の「感覚の差」はどうすれば埋まるのか。価値観が違う部分を詰めていく作業。これまでもかなりやってきている。一人でひたすらやり続けている。それでも伝わらない。

面白くない事しかかけないならblogを書く必要性もない気がする。光が見えない。
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無力

2017-02-15 | 陸上競技
ここ何件かの記事、それなりに前に進めている感じがありました。が、それは一時的ほんの一瞬だった。無力感があります。

火曜日、修学旅行前日。翌日から2年生は全く練習できない。私も引率で修学旅行に行くので1年生も自分達でやるしかない。だからこそこの日はすごく大切な練習になるという話をしていました。結構走り込みをしたいんだという部分も伝えていました。

前日かなり良い雰囲気で練習ができていました。このままやればかなり面白いと感じていた。が、アップメニューが始まると大したことはない。何人かはしっかりと声を出していましたが出す者と出さない者がいる。これはどういうことなのか?自分達はやっていると思っているのかもしれない。しかし、私からすれば「昨日と同じでできていない」という感覚。

出来れば声かけをせずに練習をさせたいなと思っていました。前日の雰囲気であればそれくらいの練習は出来るだろうと高を括っていました。

動きに関しても声出しに関しても前日比の70%くらいかなと思っていました。101%の練習を毎日していこうと伝えていました。が、それが出来ない。前日は見ていて楽しいなと思えましたがこの日はそうでもない。私が何度も「昨日より良い練習をするんだ」と言い続けて少し声が大きくなる。

この時にちょっと考えさせられました。結局、私に言われてるからやってる。自分達で何かをするというのではなく私がしつこく言い続けてるからやるようになる。それって本当に意味があるのだろうか??確かに私が「声を出せ」と言って大きくなる。だから「声は出ている」という感覚になる。でもそれは「やらされている」にすぎない。自分達で練習の雰囲気を作れないのであれば試合会場で力を出すことができない。

前の日は楽しいなと思えた。この日は思えなかった。それは大きな事だと思っています。

確かに以前と比べるとかなり良くなっています。が、まだ101%ではない。更には練習で使ったバーを投げ捨てるように地面に落とす者もいる。これも前から気にはなっていたのですが。男女問わず練習道具を大切にするという部分が足りないのではないか。疲れているのは分かりますがそんな態度で本当に良いのか?

この瞬間、これまで何をやって来たのか?という無力感に襲われました。何度も何度も話をしています。本当に強くなるために何をしないといけないか。毎日最大限の練習をしていくことしか強くなる方法はない。「最大限」を私から言われて引き上げるのであればそれは「最大限」ではない。もうこれ以上の一生懸命はない、という状態から私が1%プラスできるようにしたい。

これまでは70%を100%に近づけるための声かけでした。まだできる部分がある。それに気づかせて最大限の練習をさせる。そのためにひたすら声をかけてしっかりと負荷をかけさせる。これ自体、「自分のためにやる練習」にはなっていないのですが。それでも最初の段階で100%の練習が出来るとは思っていません。だからこそひたすら声をかけ続けてきた。

前日、自分達で良い練習ができた。次の段階に進めたなと感じました。しかし、また元に戻る。もちろん微微たる進み具合はあるかもしれません。そこは認めながらもきちんと進めていないという部分は明確。求めるものが高すぎる?チームが成熟していないから仕方ない?確かにそれもあるかもしれません。

チームが成熟していないから0.2秒ハンデをあげます。まだこれから先のチームだから10m先からスタートしても良い。そんな話ではありません。現実はシビアです。どのようなチームでもどのような選手でもスタートラインに立った時には同じになる。そうであれば「妥協」しながらやるのは違うと思います。もちろん完璧にやることはできない。それでも「前日と比べてどうなのか?」という部分は冷静に判断できるようにならなければいけなくなります。

細かいこと?お前は分かってない?確かにそうかもしれません。が、今のままで何を目指すのか?シビアさを持たない選手達が何をするのか。県総体出場を目指すのであれば十分すぎる練習だと思います。女子は中国に進むためにはかなり確実なレベルの練習内容。が、そこに楽しさがあるのか?もっと力があるのにそこを目指さない。勿体無いなと思うのですがそれは客観的に見ているから思うだけかもしれない。

面白くない記事。でもそれが現実。考えることがあります。このレベルで続けるなら私が見る必要はないんじゃないかという感覚。

また書きます。
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