競技とは全く関係ない内容を。前も書いたかもしれない内容ですが。
今はネットで情報があふれています。正直、知らなくても良いことがネット上に溢れている。別に自分の人生に関係なくても異常なまでに「許さない」という姿勢が出てくる。多少なりと関わりが出てくれば言うまでもなく「絶対に許せない」という感じになる。
もちろん、殺人事件を起こすような者に対しては「許せない」という感情が生まれるのは当然だと思います。それは誰かの人生を奪っているのだから。生きて様々なモノに出会い輝くはずだった人の人生を奪う権利は誰にもない。そこに対して「許せない」と思う感情は生じる。自分に直接かかわることだから。そして「大切にしているもの」を失うことだから。
しかし、マスメディアから流れてくるのは「自分自身に直接関係ないこと」に対する情報。必要か不要か分からない情報。なぜかそれに対して無関係の者が「これでもか」という感覚で叩く。無責任なバッシング。物事と関係ないところで勝手に盛り上がる。
許さない。こんなことを許していいのか?そういう風潮がある。それに乗っかってさらに叩く。例えば自分が気に入らない芸能人であれば容姿であったり発言の一部分を切り取って叩く。本人が見るかどうかは関係ない。自分自身が「気に入らない」「許せない」と思うから批判するだけのこと。その人が自分の人生に関係あるなしは関係ない。
出る杭は打たれる。他者と異なる行為は許さない。そんな世の中。以前であればここまで情報が出回ることはないので何かやっていてもそこまでの話にはならなかっただろう。が、今は違う。揚げ足を取ることが素敵なことであり、ミスを犯した人間を徹底的に吊し上げる。
多分、これから先もっとこの傾向は強くなると思う。以前、教員免許更新にジャージで行ったとblogに書いた。これは自分のお金で受ける研修。学校からの職務命令でもなんでもない。きちんと講習を受けなければ免許が失効してしまう。車の運転免許と同じレベルの話だと思う。そういう感覚で書いたが「研修にジャージで行くというのは常識がないのではな?」というコメントがあった。驚いた。
職務命令の研修であればジャージで行くことはない。フォーマルな場だという感覚。それは分かっている。卒業式の日にジーンズで参加することもない。きちんとネクタイを締めてスーツで出席する。が、教員免許更新は「自費」で可能な研修に行くのです。平日に仕事を休んでいくわけではない。休日を潰して自費で行く。それなのに「ジャージで行くのは非常識だ」と批判される必要があるのか。
blogに書くから叩かれる。それもあると思う。芸能人がblogを書いて炎上するなんてことは日常茶飯事。バラエティ番組で何かをすれば「やらせだ」と言われる。今の子供たちにはわからないと思うが「ドリフ」のコントを見て「そんなバカなことがあるのか?」とバッシングする人はいなかったと思う。面白い番組を見て「なんだよ~」と笑っている。それだけで済んでいた。今はそれがネット上で炎上する。
自分の意に沿わないことに関しては「許せない」のです。自分の「枠」の中に入っているものでなければ異を唱える。分からないでもない。しかし、そこまでして叩くことで何が生み出されるのか。結局、何も形を生み出さない「精神的優位」だと思う。本当に優位に立っているのではない。反論できない相手に対して「許せない」と示すことでそれに同意してくれる人が出てきて自分が精神的に「優位な立場にある」と感じるのだと思う。実際は何もない。
私自身、許せないなと思うことはたくさんある。理不尽な批判を受けることもある。まー別に私を批判してそれで気分が満たされるならそれはそれでいいのかもしれない。気分はよくないが。意図的に感情を逆なでしようとしている人もいるはず。全員が全員だとは思わないが。
「許せない」と思う感情はある。私は器が小さいので根に持つ(笑)。まー親しい人にしか言わないようにしているが。愚痴と思って聞いてもらうようにしている。
私が感じている「許せない」と世間の「許せない」は違うかなと思う。どうにもならないことに対して「許せない」と思うこともたくさんあるが。それでも「すべてを許せない」と思っていたら生きていても楽しくないと思う。全てのことが気になってしまって「これは許せない」「あれも許せない」となる。そこを考えていたらしんどいだろうなと思う。
全てを受容する気にもなれないが「自分の人生に関係ないこと」に関して一喜一憂しても仕方ないのかなと。自分の関われる範囲でどうするかなのかなと。選手に対しては「許せないな」と思うことはある(笑)。それはその選手を成長させるために必要不可欠だから。
まー何の話か分からない(笑)。思うことをひたすら書くのです(笑)。
今はネットで情報があふれています。正直、知らなくても良いことがネット上に溢れている。別に自分の人生に関係なくても異常なまでに「許さない」という姿勢が出てくる。多少なりと関わりが出てくれば言うまでもなく「絶対に許せない」という感じになる。
もちろん、殺人事件を起こすような者に対しては「許せない」という感情が生まれるのは当然だと思います。それは誰かの人生を奪っているのだから。生きて様々なモノに出会い輝くはずだった人の人生を奪う権利は誰にもない。そこに対して「許せない」と思う感情は生じる。自分に直接かかわることだから。そして「大切にしているもの」を失うことだから。
しかし、マスメディアから流れてくるのは「自分自身に直接関係ないこと」に対する情報。必要か不要か分からない情報。なぜかそれに対して無関係の者が「これでもか」という感覚で叩く。無責任なバッシング。物事と関係ないところで勝手に盛り上がる。
許さない。こんなことを許していいのか?そういう風潮がある。それに乗っかってさらに叩く。例えば自分が気に入らない芸能人であれば容姿であったり発言の一部分を切り取って叩く。本人が見るかどうかは関係ない。自分自身が「気に入らない」「許せない」と思うから批判するだけのこと。その人が自分の人生に関係あるなしは関係ない。
出る杭は打たれる。他者と異なる行為は許さない。そんな世の中。以前であればここまで情報が出回ることはないので何かやっていてもそこまでの話にはならなかっただろう。が、今は違う。揚げ足を取ることが素敵なことであり、ミスを犯した人間を徹底的に吊し上げる。
多分、これから先もっとこの傾向は強くなると思う。以前、教員免許更新にジャージで行ったとblogに書いた。これは自分のお金で受ける研修。学校からの職務命令でもなんでもない。きちんと講習を受けなければ免許が失効してしまう。車の運転免許と同じレベルの話だと思う。そういう感覚で書いたが「研修にジャージで行くというのは常識がないのではな?」というコメントがあった。驚いた。
職務命令の研修であればジャージで行くことはない。フォーマルな場だという感覚。それは分かっている。卒業式の日にジーンズで参加することもない。きちんとネクタイを締めてスーツで出席する。が、教員免許更新は「自費」で可能な研修に行くのです。平日に仕事を休んでいくわけではない。休日を潰して自費で行く。それなのに「ジャージで行くのは非常識だ」と批判される必要があるのか。
blogに書くから叩かれる。それもあると思う。芸能人がblogを書いて炎上するなんてことは日常茶飯事。バラエティ番組で何かをすれば「やらせだ」と言われる。今の子供たちにはわからないと思うが「ドリフ」のコントを見て「そんなバカなことがあるのか?」とバッシングする人はいなかったと思う。面白い番組を見て「なんだよ~」と笑っている。それだけで済んでいた。今はそれがネット上で炎上する。
自分の意に沿わないことに関しては「許せない」のです。自分の「枠」の中に入っているものでなければ異を唱える。分からないでもない。しかし、そこまでして叩くことで何が生み出されるのか。結局、何も形を生み出さない「精神的優位」だと思う。本当に優位に立っているのではない。反論できない相手に対して「許せない」と示すことでそれに同意してくれる人が出てきて自分が精神的に「優位な立場にある」と感じるのだと思う。実際は何もない。
私自身、許せないなと思うことはたくさんある。理不尽な批判を受けることもある。まー別に私を批判してそれで気分が満たされるならそれはそれでいいのかもしれない。気分はよくないが。意図的に感情を逆なでしようとしている人もいるはず。全員が全員だとは思わないが。
「許せない」と思う感情はある。私は器が小さいので根に持つ(笑)。まー親しい人にしか言わないようにしているが。愚痴と思って聞いてもらうようにしている。
私が感じている「許せない」と世間の「許せない」は違うかなと思う。どうにもならないことに対して「許せない」と思うこともたくさんあるが。それでも「すべてを許せない」と思っていたら生きていても楽しくないと思う。全てのことが気になってしまって「これは許せない」「あれも許せない」となる。そこを考えていたらしんどいだろうなと思う。
全てを受容する気にもなれないが「自分の人生に関係ないこと」に関して一喜一憂しても仕方ないのかなと。自分の関われる範囲でどうするかなのかなと。選手に対しては「許せないな」と思うことはある(笑)。それはその選手を成長させるために必要不可欠だから。
まー何の話か分からない(笑)。思うことをひたすら書くのです(笑)。