kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

限界を超える?

2017-12-04 | 陸上競技
思うことを。

先日行われたマラソンで注目選手がかなり取り上げられていた。学生のころから注目され当時から「スター」として扱われていた。長距離はそういう部分が大きい。箱根駅伝は新年の風物詩になっているし、6時間以上もTVを独占し続ける。多分考えられないくらいのお金が動いているんだろううなと思いますが我々には関係ない部分なのかもしれない。

「陸上競技を盛り上げる」という意味では効果があるのかもしれないなと思う。日本人が大好きな駅伝。そこには様々な人間ドラマが含まれている。別に否定する気はない。それはそれで「面白い」と思う。実業団で競技を続けていくにはやはり長距離種目のほうが圧倒的に有利になる。そのプロセスの中で「駅伝」が存在するのだと思う。企業名がTVで取り上げられる。トップを走り続ければ何時間も企業名が画面に映り続ける。トップをとれば1億円以上の宣伝効果はあるのでは?15秒CMを作るために何千万円もかけることを考えればある意味効果は高いと思います。必ず勝てるとは限らないのでこちらもかなりのリスクを背負いながらだと思いますが。

少し話がそれましたがそんなマラソンに向かう中で「練習で70キロ走をした」という部分がありました。編集としては30年以上前に活躍されたOBの方が「今のマラソン練習に足りないもの」という感じで「走り込みが必要」だと話をされていた。インタビューの一部を切り取っての放送なのでその前後の流れが曖昧ですが。「自信を持つ」ために70キロを走ったという話でした。走り終わった後は足の裏の皮が剥げていたという部分も言っていました。フルマラソンは40キロ。それを走りきるために70キロを練習に取り入れる。どれくらいの効果があるのかは分かりませんが。

毎回毎回この手の練習をするわけではないと思います。多分1回だけだとは思います。が、本人が「必要だ」と感じて行った練習であればそれは意味があるのではないか。よくわかりませんが。根拠としてはない。走り終わって次からの練習で30キロ走が短く感じたということでした。私には想像できない世界ですね。距離を走ればいいというわけではないと思います。そこにどのような意味があるのかを判断するのは難しい。通常考えれば70キロ走る意味というのはどこにあるのか。故障のリスクもあると思います。今回はレース途中で遅れ始め順位的にも記録的にも満足できるものではなかったようでしたが。

この話を聞いていて「うちはスマートだな」と感じました。それは良い部分もあるし悪い部分もあるかもしれない。判断基準がどこにあるか。指導の中で「昔ながらの練習」というのは存在すると思います。上述のように「量を積むことで自信を得る」という部分。300mを3本を何セットも行うというのも「量を追う」練習なのかもしれません。その中でこれまでとは異なる感覚を得ることができる可能性もある。「走る中でつかむ」というのもあると思います。

最近は特に「量」を追わなくなっている。それがスタンスです。「量を追う」というのもあるときには必要なのかもしれない。今はそういう部分が少なくなってきている。常に「量を追う」練習が必要だとは思いません。しかし、すべてが不要だというのも違うのではないかと。技術的な話をし始めるとどうしても「質を高める」という部分も必要になってきます。それだけでは足りないものがあるのではないか。これも最近の課題でした。

時には「めちゃめちゃやる」という部分も必要になる。100mを100本やるというのも実は必要な要素なのではないか。単純に「効果がない」と決めつけるのではなくそういう部分も大切にしていく必要が少しはあると思います。誤解なきよう書いておきますが「毎回やる」のではない。年に数度くらいはそれくらいの「泥臭い練習」があってもいいかなと。ひたすら走るという部分。今のうちに足りないのかなと思います。

70キロ走ることに効果があるかどうかは別問題ですが。うちには「足りないものがある」とは思います。そういうがむしゃらな部分が足りないのは間違いない。きれいに走って終わっている。往復走なども実施しますがそれはそれで必要な練習だから。20年前くらいに行われていた「根性練習」と言われるような練習とは違うと思います。だからこそあえて「根性練習」のようなメニューも必要なのではないか。長期休業中などであればできる気がします。

私自身が「合理的に考えたい」という部分が年々強くなっている。それにより「根性練習」は「効果がない」と決めつけている部分があったかもしれないなと。夏の合宿では150mを20本くらい走ったと思います。その中で間違いなく変化が生まれる。それは動きなのか気持ちなのか。無駄のない走りを覚えるためには必要かもしれない。体が動かない中で気持ちを奮い立たせ、動かし続けるという部分でも重要かもしれない。そう考えると「限界を超える練習」も「絶対悪」ではないと思います。

まーこれも考え方の部分。毎回はそう思いません。今の自分の考え方に足りないものを探している感じですね。無駄に量を追うことを求めるのではなく「時と場合」によっては必要になることがあると思います考え方ですが。

練習納めの日、少し考えてみたいと思います。「リミッターを超える」という部分が欲しい。

常に陸上になる(笑)。どうなんだ。
コメント
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