閉鎖的な世界。これはどこにでもある。先日、バスケ関係の指導者と話をしたときに「山口県のバスケは守り重視なので面白くないですよ」と言われた。県民性というのもある。かなり保守的な県民性。「違うことをする」というのは好まれない。「村八分」とまではいかないにしても「何かを変える」というのはあまり求められない。そんなものだと思う。刺激が少ないのでその状況でも十分やっていけるから。「県内」だけのことを考えたらそれで問題はない。
昨年から練習の組み立てを変えている。県内では珍しいパターンなのだと思う。が、近畿などではこういうスタイルが当たり前だったりする。「目新しいものに飛びつく」というのではなく「なぜこのスタイルをとっているのか」を考えた時に自分の中に落とし込めたのでパターンを変えた。
ジョグをして体操。ドリルをやって短い距離を走る。そこから長い距離を走って最後に補強をして終わる。これがこれまでのパターン。ごく一般的な練習の流れなのだと思う。別にこれがおかしいとは思わない。これが「普通の練習」という感覚だったので違和感なくやってきた。こういう部分に何も疑問を感じず「これまでやってきたのだから」という感覚の中で進めていくというのは「閉鎖的な考え方」に陥っていたのかもしれない。
「閉塞感」というのは「閉鎖的」とは違うのかもしれない。「行き詰まり」という感じがふさわしい表現なのかも。「先が見えない」というのが「閉塞感」なのかもしれない。今の状況であれば無名校からインターハイ出場者が出た。さらには国体にも選ばれたという部分があるので「十分」とみることもできる。もちろん興味がない人にとってはうちの結果などはどうでもいいだろうが。
これまで通りでやっていたらきっと「それなりの結果」は出ると思う。それくらいのことはやっているから。が、そこで「良い結果」と思うのか「足りない」と思うのか。ここも価値観だと思う。私は今までの練習で選手の力を最大限に引き出せているとは思わない。もっともっとできる。そういう部分があるため今の現状に「閉塞感」を感じていた。
この冬はある意味「チャレンジ」という部分がある。これまでやってきたことを精選して「本当に強くなるための練習」を組み立てるようにした。セット走もやらないし、練習の最後に補強をするのもやめた。動きを身につけるために「手段」を選び、同じことでも異なる視点から様々な「方法」でアプローチするようにしている。「感覚の変化」を感じさせるために負荷を変えながら「動きやすくなった」という状況を強制的に作るように心掛けている。
もちろん、「正解」かどうかはわからない。ひょっとしたら「これまでのほうがよかった」ということになるかもしれない。「閉鎖的な県民性」からすれば上手くいかなかった場合は「偉そうなことを言っていた割には何もできないじゃないか」と批判もされるだろう。今のところ「かなりいい方向に進んでいる」と感じている。間違いなく「変化」が生まれているから。動き取り組みも変わりつつある。自己満足の話ではなく全体として「閉塞感から抜け出す」ことを目標にしている。
こういう部分も結局は「捉え方次第」だと思う。普通(何を持って普通なのかは不明)にやっていたらそれでいいじゃないか。そういうスタンスもありだと思う。私にはできないが。競技で結果を出したところで別に評価を受けるわけではない。給与面に反映されるわけでもない。周囲から「あいつすごいね」くらいは言われるかもしれないが、今の仕事をしていて感じることは「そんなに興味をもたれることはない」と思う。
そうであれば「閉塞感」を感じるのは個人の勝手な感情でしかない。別に誰かが困るわけではない。選手自身も「それなりの結果」が出れば「やっていてよかった」と思うかもしれない。が、やはりそれでは面白くない。本当はもっともっと力が伸ばせる。そう思う。選手自身も「これくらいでいいだろう」と思う部分がある。そうならないようにこちらも工夫する必要があると思っている。もちろんそれを「求められている」かどうかは不明だが。
グズグズした現状から抜け出す。それは必須だと思う。「これくらいでいいだろう」という感覚を捨てたい。それはこれからのポイントになると思っている。これまで通りの「普通の練習」をやっていたらそれでいいかもしれない。が、面白くない。だからこそ「結果」につながる取り組みをしていきたいと思う。
新しい取り組みかどうかはわからない。それでもやることはある。やってみたいこともある。しっかりと考えたい。絶対に失敗はしない。考えて考えてやっていくから失敗はしない。「例年通り」「前例に従って」ではない新しい「道」を見つけていきたいと強く思う。
昨年から練習の組み立てを変えている。県内では珍しいパターンなのだと思う。が、近畿などではこういうスタイルが当たり前だったりする。「目新しいものに飛びつく」というのではなく「なぜこのスタイルをとっているのか」を考えた時に自分の中に落とし込めたのでパターンを変えた。
ジョグをして体操。ドリルをやって短い距離を走る。そこから長い距離を走って最後に補強をして終わる。これがこれまでのパターン。ごく一般的な練習の流れなのだと思う。別にこれがおかしいとは思わない。これが「普通の練習」という感覚だったので違和感なくやってきた。こういう部分に何も疑問を感じず「これまでやってきたのだから」という感覚の中で進めていくというのは「閉鎖的な考え方」に陥っていたのかもしれない。
「閉塞感」というのは「閉鎖的」とは違うのかもしれない。「行き詰まり」という感じがふさわしい表現なのかも。「先が見えない」というのが「閉塞感」なのかもしれない。今の状況であれば無名校からインターハイ出場者が出た。さらには国体にも選ばれたという部分があるので「十分」とみることもできる。もちろん興味がない人にとってはうちの結果などはどうでもいいだろうが。
これまで通りでやっていたらきっと「それなりの結果」は出ると思う。それくらいのことはやっているから。が、そこで「良い結果」と思うのか「足りない」と思うのか。ここも価値観だと思う。私は今までの練習で選手の力を最大限に引き出せているとは思わない。もっともっとできる。そういう部分があるため今の現状に「閉塞感」を感じていた。
この冬はある意味「チャレンジ」という部分がある。これまでやってきたことを精選して「本当に強くなるための練習」を組み立てるようにした。セット走もやらないし、練習の最後に補強をするのもやめた。動きを身につけるために「手段」を選び、同じことでも異なる視点から様々な「方法」でアプローチするようにしている。「感覚の変化」を感じさせるために負荷を変えながら「動きやすくなった」という状況を強制的に作るように心掛けている。
もちろん、「正解」かどうかはわからない。ひょっとしたら「これまでのほうがよかった」ということになるかもしれない。「閉鎖的な県民性」からすれば上手くいかなかった場合は「偉そうなことを言っていた割には何もできないじゃないか」と批判もされるだろう。今のところ「かなりいい方向に進んでいる」と感じている。間違いなく「変化」が生まれているから。動き取り組みも変わりつつある。自己満足の話ではなく全体として「閉塞感から抜け出す」ことを目標にしている。
こういう部分も結局は「捉え方次第」だと思う。普通(何を持って普通なのかは不明)にやっていたらそれでいいじゃないか。そういうスタンスもありだと思う。私にはできないが。競技で結果を出したところで別に評価を受けるわけではない。給与面に反映されるわけでもない。周囲から「あいつすごいね」くらいは言われるかもしれないが、今の仕事をしていて感じることは「そんなに興味をもたれることはない」と思う。
そうであれば「閉塞感」を感じるのは個人の勝手な感情でしかない。別に誰かが困るわけではない。選手自身も「それなりの結果」が出れば「やっていてよかった」と思うかもしれない。が、やはりそれでは面白くない。本当はもっともっと力が伸ばせる。そう思う。選手自身も「これくらいでいいだろう」と思う部分がある。そうならないようにこちらも工夫する必要があると思っている。もちろんそれを「求められている」かどうかは不明だが。
グズグズした現状から抜け出す。それは必須だと思う。「これくらいでいいだろう」という感覚を捨てたい。それはこれからのポイントになると思っている。これまで通りの「普通の練習」をやっていたらそれでいいかもしれない。が、面白くない。だからこそ「結果」につながる取り組みをしていきたいと思う。
新しい取り組みかどうかはわからない。それでもやることはある。やってみたいこともある。しっかりと考えたい。絶対に失敗はしない。考えて考えてやっていくから失敗はしない。「例年通り」「前例に従って」ではない新しい「道」を見つけていきたいと強く思う。