県総体の振り返りが十分ではないですが。今はそこに留まっておくわけにはいかないと思っています。通常であれば県総体の翌日は休みにしています。が、今は休む時ではない。そう感じていました。
火曜日は日課変更が入っていて午前中に3時間授業。昼から出張。かなりハード。その合間に日誌に目を通しました。今回の県総体で何を感じたのか。それを知りたいなと。色々なことが記してある者もいました。悔しさやNaへの想いを書き記す。こういう部分が必要だと思っています。
が、何人かは「補助員を頑張った」と書いている。出発係の仕事をきちんと出来た。時間を守って集合できた。いやいや、そこではない。何のために県総体に来させたのか。ここまで来て自分が仕事を頑張ったという日誌になるのか。県総体の時には基本的な私の部署で補助員をさせました。私の目の前ですから当然のように仕事をする。地区委員の仕事としてサブトラックの練習会場の準備もあるのでそこもやるように指示をしていました。私も付いていました。
表面的な部分ではテキパキ動きます。他の学校の先生からは「よく動きますね」という言葉かけをしてもらいました。いやいや、これは考えて動いているのではない。きちんとやらなければ私から指導されるから動いているに過ぎない。ここはかなり難しい部分です。0.2秒の話をしたにも関わらずその事に関しては一切触れず。自分のこととして捉えられないのだと思います。
火曜日の練習前にNaに少しだけ話をさせました。私は話す内容を示さずにです。入学当初の頃の話をしていました。当時の3年生の話。特別強い選手はいませんでした。が、競技に対する想いはかなり強かった。男子が全体をしっかりと引っ張ってくれて組織として動いていました。だからチームが機能していた。それがいつの間に崩壊していた。男子に変わってほしいと直接的に言葉にしていました。
先輩たちと一緒にリレーを組みたいと思ってずっとやってきたけど怪我ばかりしてそれが果たせなかった。1年生の時からきちんとやっておけばよかったという後悔。3年生になって「勝ち取った」とはいえないがリレーを走ることができた。ずっと力が出せなかったけど最後のリレーできちんと走ることができた。決勝に残って走ることしか考えていなかったので準決勝で落ちてしまったことを受け入れることができなかった。
こういう言葉の端々に現れるものをどれだけの者が感じ取ることができるのか。
私からも少し話をしました。これも分かってもらえないかもしれないのですが。前任校の県新人での出来事。翌年に初めてインターハイに進んだ時です。2年生が男女合わせて6人いました。400mを中心にやっていた時期。2年生の中で5人が中国新人に進みました。中学時代は誰も中国大会に進んでいません。それでも6人中5人が中国新人。その時キャプンテンだけが中国新人に進めませんでした。涙を流して悔しがっていました。「私だけ弱いから中国新人に進めなかった」と。
県新人では3位までしか中国新人に進めません。かなりハードルが高い。人数が少ないチームでは出場者がいないというのもある。その中で「弱いから自分だけ進めなかった」と涙を流す。中国新人に進むのが当たり前だと感じていたからだと思います。特別なことではなく「みんなが行くのだから私も行くんだ」という感覚の中で練習をしている。
去年インターハイに進みました。しかし、実際に走ったのは1人だけ。他の3人に引っ張ってもらってインターハイに届いたという部分が大きい。女子は一緒に行っていましたがその厳しさを実感するほどの事ができなかった。個人で中国大会を経験した者もいません。ここは危機的だと思っています。中国大会が「特別なもの」になってしまうからです。最大目標が中国大会になる。いやいや。
hoshoに赴任した時に「インターハイ」を常にくちにしていました。何人かは「この人には付いていけない」と感じていたはずです。県大会のアップでメイン競技場で走るのが怖いと言っていた時期です。雲の上の話というだけではなく夢のまた夢という話だったと思います。その中で本当にインターハイに進めると周りもその気になる。環境や雰囲気というのは大きい。そこに本当に必要な指導が入れば選手は大きく伸びます。信じられないくらいの力が出せる。
この話は本当に伝わるまでに時間がかかると思います。受け止めるだけの資質が育っていなければいけないからです。少なくとも県総体に行って「補助員を頑張った」という感想しか示せない間は遠過ぎる話になると思っています。
やるしかない。そう感じました。もうやるしかない。考えることを求めています。それができないのであれば別のやり方も考えなければいけない。強く感じました。
また書きます。