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闇にまぎれて cyojin cine-archives vol.1085、1086
○ドン・シーゲル監督の「ダーティハリー」をみて
記念すべきシリーズ第1作ではあるが、その出来ばえはあまりぱっとしない。
連続殺人犯がかける公衆電話に振り回され必死でサンフランシスコじゅうをかけずりまわる刑事。
御苦労なことである。
○テッド・ポスト監督の「ダーティハリー2」をみて
悪者をどんどん征伐しちゃう警官仲間、という図式はいっぱいあるが、1973年製作の本作がその嚆矢かもしれない。脚本をなんと若き日のマイケル・チミノが書いている。
○ジェームズ・ファーゴ監督の「ダーティハリー3」をみて
最初は嫌がっていた女性の相棒との交情が次第に深まり、それは彼女の殉職で哀しくスパークする。この哀愁の情はクリント・イーストウッド監督では絶対に出せなかっただろう。
○クリント・イーストウッド監督主演製作の「ダーティハリー4」をみて
ならず者たちに暴行された女性ソンドラ・ロックの犯人への復讐がテーマになっています。いたいけな妹ともども遊園地の回転木馬の中で強姦された彼女は、怒りの弾丸を陰部と脳天に1発ずつ撃ち込み、血の報復の輪をまさに完成させようとしたときにサンフランシスコ市警のキャラハン刑事が登場しとのたもうのです。
暴力装置としての国家権力にがんじがらめに囲繞された私たちは、もはや他者によって加えられた犯罪や暴力に対して自力で対処する自然かつ当然の行為を禁じられ、そのすべての落とし前を国家権力にゆだねてよしとしているように表向きは見えますが、ホントの本音の部分では、爬虫類の脳が、「目には目を、歯には歯を!」と絶叫しており、実際にはそうした表層の人間脳の知的な判断を爆砕して第2の犯行におよぶ例は枚挙に暇がありません。
げんにわが国でも赤穂浪士の敵討、下がっては権力による横暴と殺戮に我慢に我慢を重ねた高倉健が、自らも近代知識人としての封印を破って再びの殺戮をおかしてしまう。世界中で古来数多くの私刑が実行され、劇化されて人智の暗闇にひそむ血の報復の合理性と快感の入り混じったカタスシスを提供し、大衆の快哉を博してきたのですが、本作も比較的新しいその好例で、美しく理知的な容姿に惹かれたキャラハンは、その私刑を最終的には容認してしまいます。
彼がGo ahead, Make my day!と叫ぶと、おおかた犯人はやろうとする前にやっつけられてしまうのですが、この作品だけは例外で、やはり可憐でけなげな美女の前では、法の下での正義などどうでもよくなってしまう。この理不尽な結末を正義について語るのが大好きなサンデル教授に見せたらなんとコメントするでしょう?
○バディ・ヴァン・ホーン監督の「ダーティハリー5」をみて
クリント・イーストウッドのキャラハン刑事がどういう風の吹きまわしかテレビ局のキャスター嬢と良い仲になってしまうが、2人揃って悪者に命を狙われる。そこをなんとかやっさもっさ切りぬけて終わりはこんなのありかよのお約束の逆転劇でやっつけてしまう話ずら。
Go ahead, Make my day!ドラ猫が見毛猫にいきまく昼下がり 蝶人