照る日曇る日第901回
我が敬愛する詩人の最新作27編を通読しておのずから浮かんできたのは京の六波羅蜜寺に立っている平安時代の僧、空也上人の彫像でした。
浄土教の先駆者、口唱念仏の祖と伝えられる上人の口からは、6体の小さな仏像が流れ出し、それは「南無阿弥陀仏」の念仏を象徴すると伝えられていますが、わが志郎康上人も朝な夕なに念仏ならぬ詩の言葉を連射されております。
いずれの上人様も、生きるため、生き続けるためには、次々に言葉を吐きださずにはいられない。それがおふたりの運命だったのですが、言葉の向かう先が違います。
空也上人は世のため人のためにパブリックな普遍性を求めてやまないのですが、志郎康上人ときたらその正反対に、自分自身のことばかりを吐き散らす。ご自身では「極私詩」と自称されている「自己中な」詩ばっかりなのですが、よく読んでみると、ごちゃごちゃと身辺雑事を語る「振り」をしながら、そのよたよたと歩きだす先、その二重に見える視線の先にくっきりとフォーカスされるのは、「化石詩人」がとっくの昔に放棄したこの世の中の、この国の、この世界の奇妙な「ねじれ」です。
詩を主題によって査定するなんて愚の骨頂であるとはいくら愚昧な私だって百も承知ですが、それでもこの際あえて言うておきたい。この詩集と同じ時期に書かれた所謂有名詩人のいったい誰が、この国の私生活とないまぜになった危険極まりない政治動向や全世界の平和を脅かす非寛容なテロルの暗雲について、きちんと言及しているでしょうか。
「極私詩」とあえて自称しながら、その詩の射程距離は北朝鮮の長距離ミサイルよりも遠く遥かに飛翔して反語的な「宇宙詩」と変じ、
突っ走れ。
ご飯食べてうんこして、
この空無を
突っ走れ。
この悲しさを
突っ走れ。
んっぱしれ、んっぱしれ。 (「独眼竜ウインク生活でこの空無を突っ走れ。」より引用)
などと、呟きながら、たちまち極私的な子規庵の四畳半的時空に戻って来る、この魔術的な往還!
この三千世界を自在に飛翔する孫悟空由来の觔斗雲こそ、傘寿を迎えた「非化石詩人」がついに獲得した「志郎康流どこでもドア詩法」なのです。
ネアンネアンネアン空無空無空無今日も悲しみは疾走する 蝶人