あまでうす日記

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岩波版「夏目漱石全集第20巻日記・断片」を読んで

2018-09-05 10:04:09 | Weblog


照る日曇る日 第1131回

小説かだからやはり小説を読むべきなのだが、なんせ漱石だから、そのほかの書きものも面白い。いやむしろ下手な小説よりよっぽど面白い。

この本には明治42年から没年の大正5年までの手帖などに書かれた日記やメモ、断片、家計簿などが労を惜しまず収録してあって、どこからなにを読んでも面白い。そこに夏目漱石という男が、切れば血が出るような姿かたちで現れるからである。

たまたま本巻を開いたところ、大正3年11月9日月曜日の晩の会話「自分対妻」というのが出てきたので、現代語表記で採録してみよう。

「お前のいく静坐は何時から始まるのか」
「先生の来るのは3時か3時半です」
「お前はそれだのに12時過ぎにきっと宅を出るね、歩いて行っても白山御殿町まで1時間とは限らない(男の足なら)」
「寺町をまわったり何かして買い物をするのです」
「毎週必ずそういう用事が出てくるのかい」
「ええ、必ず何か出てきます。それに今日はお寺まいりをしたから早く出かけたのです」
「誰の」
「今日はあなたのお母さんの日です」
「おれは知らないが、月は違うだろう」
「月は違いますが、日はそうです。私は毎月あなたのお父さんとお母さんの日にはお寺まいりをします」
「父の死んだのは幾日だ」
「ひな子と同じ日だからよく覚えています。29日です」
「毎月寺まいりなどしなくてもいい、するなら死んだ月と日に一度行けばそれで沢山だ」
「………」
「静坐というのは婦人の談話室みたようなものだろう。みんなが寄って無駄話をするんだろう」
「先生が来るのを待っている時は外に人がいれば話もします」
「………」
「買い物ばかりじゃない、お釈迦様へ参ったりしてから行くこともあります」
「お百度を踏むのかい」
「踏むときも踏まないときもあります」
「何でそんなことをやるのだい」
「利いても利かなくってもいいのです。私はやるのです」
「お釈迦様へ日参して亭主が病気になればありがたい仕合せだ。ご利益が聞いてあくれらあ。虫封じでも出すのかい」
「知りません」

 長くなるのでこれくらいにして、この続きは私が連載している「1日1語」に譲るが、よってもって漱石が死ぬ2年前の夫婦関係がよく分かるではないか。

なお、ここに出てくる「静坐」だが、当時の鏡子夫人は神道系の精神修養に通っていたらしい。また「ひな子」は明治44年11月29日に1歳8カ月で急死した夫婦の末娘で、その後漱石は「彼岸過迄」の「雨の降る日」に、涙なしには読めない追悼文を書いてその供養とした。

   大挙して神社に詣でる人ありて祭儀にあらず政治のおこない 蝶人


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