照る日曇る日 第1202回
校注の浅野三平氏によれば、享和19年(1734)に大坂で生まれた著者の上田秋成は、生後間もなく父母に捨てられて上田家に引き取られたが、疱瘡で右の中指を失い、「性多病にして時々驚癇を発す」る人物であったそうだ。
後年苦学して江戸後期を代表する国学者、医師、俳人、歌人となってからも、どうも己を、不遇で薄倖の存在であると思いこんでいたらしい。
そんな神経質で内面にコンプレックスを抱え込んだ58歳のインテリゲンチャン(彼は同時代の国文学者、本居宣長と激烈な論争を交し、ほぼ判定勝ちを収めている)が、大坂から憧れの京に移住し、「伊勢物語」の冒頭句を模した兼好法師の「徒然草」もどきの風刺エッセイ、「癇癖談」がなかなか面白い。
例えば当時大流行していた茶の湯、衣服、美容、ヘアスタイルなどの一過性のブームの阿呆らしさについて一刀両断するだけでなく、着物の色彩が、京から吾妻に移り、それが浪速に戻ってくる、と鋭く観察しているのはさすがである。
「雨月物語」では「浅茅が宿」や「青頭巾」も怪異でいいが、私がもっと好きなのは「白峯」でそこに登場する憤怒の帝王、崇徳帝の赤裸々な言動が魅力的だ。
西行がいくらなだめすかして法理を説こうとも、美福門院にたばかられて皇子重仁の王座を、彼女が産んだ後の伏見天皇に与えた父鳥羽法皇への憎しみ、そして続く後白河と彼を支えた武士たちへの憎悪は終生変わることがなかった。
保元の乱の失敗で讃岐に流され、憤死して怨霊と化した崇徳帝の呪いは、その後平家に祟って、一族を檀ノ浦に葬り去るのだが、秋成はあきらかにその憤怒に加担しているように思える。
それにしても「日本第一の大天狗」後白河帝と「日本第一の大悪霊」崇徳帝を二つながらにこの世に解き放った鳥羽上皇のDNAは、なんとも偉大であることよ!

「日本第一の大天狗」と「日本第一の大悪霊」をこの世に送りし鳥羽上皇 蝶人