照る日曇る日 第1285&1286回
私が内田百間を人間として本当に偉いと思うのは、本邦に作家多しといえども中里介山ともども、天下にたった2人だけが昭和17年5月に設立された文学報国会に入らなかったこと。これがどんなに勇気に満ち満ちた命懸けのノンであったことは、今の時代にしてようやくひしひしと体感されるのではないだろうか。
今回はじめて公刊された昭和11年から19年10月末までの百間日記には残念ながら昭和17年の日記には5月以降の分が欠落しているので、それについての記述は確認できない。
しかし日記には政治的な言及はほとんどなくて、昭和11年2月の2.26事件、16年12月の開戦、昭和19年7月20日の「東條漸く辞職した由也。これにてさつぱりす」くらいであり、彼の主たる関心がその他の領域に亘っていたことを物語っているようだ。
んで、そこに書かれているのは、日課であった日本郵船への出勤記録(大方は午後からタクシーを利用して)、毎月の媒体への執筆内容と詳細な入金記録、有名無名の訪問者たちのリスト、彼を襲った苦痛を伴う動悸の報告であるが、一番気になるのは彼の借財であろう。
昭和8年に「百鬼園随筆」がベストセラーになって以来、売れっ子作家になった彼は日本郵船の毎月200円の定収に加え、文春や新潮社からの執筆依頼が相次ぎ、例えば本邦の平均的給与所得者の年収が748円であった昭和14年にそのおよそ10倍、昭和16年にはなんと1万70円もの収入を得ているのに、月700円以上の金が無いと家計を廻せないと不如意をかこち、周囲の友人(特に明治製菓の中川氏)から借金を重ねているのは、いったいどうした風の吹きまわしであろう。
なんとなく晩年のモザールの貧窮をそれを思わせるが、百間のギャラはおそらく当時の流行作家のなかでもトップクラスであったはずである。
日記の中では大正8年以来腐れ縁を続けていた高利貸屋に500円を払ってついに縁を切ったという喜ばしい報告も見られるが、その翌月からはまたしても書店への前借や友人への寸借の記述が登場するのはもはや趣味の借財ともいうべき不思議な謎である。
そんな世俗の闇を忘れ、名手、宮城道雄から教わった筝曲を、仲間の米川文子(米川正夫の妹)などと合奏している時が彼の至福の瞬間だったのだろう。
トルストイの本の名前と覚えしが「戦争と平和」は今のことなり 蝶人